説教「神の国に向かって進む子らよ、これだけは忘れないでほしい」吉村博明 宣教師、マタイ13章31-33、44-52節

主日礼拝説教 2020年7月26日(聖霊降臨後第八主日)

列王記上3章5-12節、ローマ8章26-39節、マタイ13章31-33、44-52節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

先々週から福音書の日課はマタイ13章のイエス様のたとえの教えです。先々週は「種まき人」のたとえ、先週は「良い種と毒麦」のたとえでした。今日は、短いたとえがいくつかあります。まず、「からし種」と「パン種」の二つのたとえ、これは群衆を前にして語られました。その後でイエス様は群衆と別れてある家に行き、そこで弟子たちに四つのたとえ、「畑の宝物」と「良い真珠を探す商人」と「魚取りの網」、そして「天の国のために弟子になった律法学者」のたとえを話されました。最後のたとえは、新共同訳では「天の国のことを学んだ学者」ですが、ギリシャ語原文の正確な訳は今申した通りです。

今日は合計六つのたとえがあることになりますが、先週の「良い種と毒麦」と今日の最後のもの以外の五つは全部、イエス様が言うように「神の国」をたとえるものです。ただし全部について「神の国」とは言わず「天の国」と言われています。これは、マタイが「神」という言葉を畏れ多くて使わず、「天」に言い換えていることによります。「天の国」も「神の国」も同じことです。後で「神の国」について見ていきます。

イエス様はこれらのたとえを神の国が理解できるために語られました。私たちは、これらを聞いて神の国がどういう国であるか理解できるでしょうか?そういうわけで本日の説教では、これらのたとえをもとにして神の国を理解してみようと思います。まず説教の第一部は、聖書で言われる神の国について少し一般的なことを述べておきます。そうすると後でたとえの教えがわかりやすくなると思います。第一部ではまた、本日の旧約の日課、列王記上の個所が役に立つと思います。第二部では、本日のイエス様のたとえの教えをみます。第三部では、神の国を信じる者はこの世をどのように生きることになるかということについて見ていきます。そこでは、本日の使徒書の日課、ローマ8章が役に立つでしょう。

2.神の国について

先週の説教でもお教えしましたが、聖書には終末論の観点があります。今のこの世が終わり新しい天と地が創造され、新しい世が始まるということです。終末論とは言いますが、正確には終わりだけでなく始まりも考えられます。新しい世では神の国が唯一現れる国となり、再臨するイエス様が最後の審判を行い、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないかを決めます。その時、死者の復活が起こり、神の国に迎え入れられる者たちはこの世で纏っていた朽ちる肉の体にかわって神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられます。

神の国がどんな国かを考える時、黙示録21章4節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」とあるので、安心安逸な世界、天国そのものとわかります。ただ同じ節に、神は御許に迎え入れられた者たちの目から涙をことごとく拭われると言われているので、そこにも着目します。この涙は、痛みや苦しみの涙だけではなく、無念の涙も含まれる、文字通り「全ての涙」です。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結に至らされ完全なものにされるということです。正義というのは、とても難しいことです。大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても補償や償いが見合わないということがあります。逆に、本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求めるということもあります。そういうことは日々のニュースを見ても気づかされるし、私たちの身の回りにもよくあります。このように人間同士が行うことは、不釣り合いで不完全なことばかりなのです。釣り合いが取れた完全な判断というものは、全ての人間の全てのことを知り尽くしている者でないと出来ません。そのような者は、人間そのものを造られ、人間一人ひとりの髪の毛の数まで知っておられる神をおいて他にありません。神の国とは、神の判断が隅々まで行き渡っている国なので完全な正義があるのです。

本日の旧約の日課の個所でソロモン王が神にお願いしたことは、そういう神の正義を求めるものです。ソロモンは父ダビデからイスラエルの国と人民を受け継ぎました。彼はこの勢いある国をちゃんと統治できるか自信がありませんでした。もちろん権力があるので、自分の好きなようにやることは可能です。自分にたて突く者は排除し、自分に媚を売る者を周りに集めてやりたい放題できます。しかし、王はそれを望みませんでした。「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい」(3章9節)と願い出ました。長寿も富も敵の命も要らない、本当に正しい決定を行える心を望んだのです。国を統治する時、多くの決定を下さなければなりません。いろんな利害や対立を解決しなければなりません。その時、いろんな声を聞かなければならなくなるでしょう。人間が把握できることは限られています。全てを把握しようとすると無制限になってしまって何も決められなくなります。見切り発車したら多くのことを見落としてしまい、ある人たちは満足しても別の人たちはしないということになります。

しかし、全てを把握している全知全能の神は誰が見てもこれ以上のものはないという決定を下せます。私たちはそういう超えた判断をされる方がおられるとわかった時、例えば、自分が得た利益は他人に犠牲を強いたものだったかどうか振り返ってみることができます。また他人の重荷を軽くするために自分はこれくらいの犠牲は担えると言うこともできます。ソロモンはまさに人間的な思いが入り込まない、神の思いを自分の思いにして決定を下したかったのです。どうしてそう言えるのかというと、3章11節で神がソロモンに、お前が望むのは(ヘブライ語で)”ミシュパート”が分かるということだな、と言っているからです。”ミシュパート(משפט)”というのは、ずばり「正しい決定」、「正義」を意味する言葉です。新共同訳では「訴え」と訳されていますが、正確ではありません。このソロモンの望みが神の御心に適っていたのは言うまでもありません。神はソロモンに知恵を与えました。ソロモン王の治世の間、イスラエルの王国は繁栄の頂点に達しました。ただ、繁栄に伴って富や名声も膨れ上がり、やがて人間的な思いが入り込むようになって神の思いが脇に追いやられていきます。それが後に禍のもとになっていきます。そのことについてはまた別の機会にお話しすることになるでしょう。

3.神の国を構成する復活の者たち

以上、神の国とは、新しい天と地のもとでの新しい世に現れる国であり、神の栄光を映し出す復活の体を纏われた者たちが迎え入れられる国、痛みも苦しみもない天国そのものであるだけでなく、神の意志と判断が隅々まで行き渡り正義が完全に実現される国であることを見てきました。その国をイエス様は本日のたとえでどう教えているでしょうか?

神の国は新しい世に現れるからと言って、今の世にまったく何もないということではありません。先週の「良い種と毒麦」のたとえの教えでもお教えしましたように、「人の子」イエス・キリストは今は父なるみ神のもとにいながら、今この世で行われている福音伝道や教会生活を通して将来神の国に迎え入れられる人たちを増やし育てています。神の国が目に見える形で現れるのは将来のことですが、それは今は目には見えない形で始まっているのです。それでは何が始まって、今どう進んでいるのでしょうか?

確かにこの世の段階では、復活の体を纏った者たちが集い、正義も健康も安全も全てが完全になっている国は夢物語です。今あるのは何かと言うと、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で果たして下さった人間の罪の償いがあります。それから、それを受け入れて神との結びつきを回復して神の国に向かう道を進んでいる者たちがいます。彼らはまだ復活の体を纏っておらず肉の体ですので、神の意思に反することにいつも晒されてしまいます。それで心はいつもイエス様の十字架の下に立ち返り、神から罪の赦しを確認してもらいながら、また進んでいくという生き方です。キリスト信仰者はまだ不完全な状態ですが、イエス様の十字架による罪の償いという完全な償いを持てています。今、神の国という完全な国に向かう道を神との結びつきを持って歩んでいるということです。不完全なものが完全なものになる前に完全なものに結びつけられているということです。

そこで、「からし種」と「パン種」のたとえを見てみましょう。まず、「からし種」のたとえ。神の国は今は目に見えないものであるが最後には結果がはっきり現れるというのは、数ミリ位のあるかどうかわからない「からし種」が成長して最後には鳥たちが巣を作るくらいの木になるのと同じだということになります。天の鳥たちが木の枝に巣を作るというのは、旧約聖書の預言で神の国をたとえるものとして言われています(ダニエル4章9、18節、エゼキエル17章23節、31章6節)。

「パン種」というのは、以前に作ったパンの生地の小さな残りを発酵させて、次のものを作る時に生地に混ぜると、良い香りがしてパンも膨らむというものです。三サトンというのは小麦粉39リットル位の量でそれから出来る生地なので、かなり大量のパンが出来ます。小さな発酵した生地のかけらは、それ自体では何の価値もないのですが、それがふっくらした香ばしい大きなパンを生み出すのです。これも、取るに足らないものから大きく目に見える素晴らしいものが現れるということで神の国にたとえられています。

ここで私は見方を拡げて、パン種もからし種も復活の体を纏わされた者たちのことも指していると考えます。取るに足らない、それ自体何の価値もないようであるが、撒かれて神に成長を与えられて立派な木に育つ、または捏ねられるように神に手をかけてもらってふっくらした香ばしいパンに変わる。これは、朽ち果てる肉の体が神の栄光を映し出す復活の体に変えらることと同じです。神の国とは、そのような者たちを構成員とする国なのです。

次に「畑の宝物」と「良い真珠を探す商人」。これらのたとえが解釈される時は普通、宝物と真珠は神の国を意味する、つまり神の国がそれほど素晴らしいので登場人物は自分の全財産を売り払ってまでして購入する。そういう神の国の何ものにも代えがたい素晴らしさを語っているのだと考えられることが多いと思います。神の国が素晴らしい価値あるものというのは私も同意見ですが、今回はこう考えたらどうかという解釈の提案をいたします。それは、宝物を見つけた人や商人が全財産を売り払ってまで購入したというのは、これは神がひとり子イエス様を犠牲にしてまで私たち人間の罪を償って下さったことを意味するのということです。人間はイエス様が十字架で流された血を代償として、罪と死の支配下から神のもとへ買い戻されました。それ位、私たち人間は神の目から見て価値あるものと見なされたのです。- どうか多くの人がこの素晴らしい真理に気づくことが出来ますように - そうすると、たとえの宝物や真珠はイエス様に罪を償ってもらった価値ある人間ということになります。これを高い代価を払って買い取ったのは神ということになります。神は畑ごと買うので、誰もそこに足を踏み入れることが出来ません。これはまさしくイエス様を救い主として受け入れて罪の償いを自分のものにしたキリスト信仰者が復活の日まで守られていることを意味します。

次の「魚を捕る網」のたとえは、先週の「良い種と毒麦」のたとえと同じ内容です。最後の審判の時に誰が神の国に迎え入れられ誰が迎え入れられないかということが決められる、その日が来るということです。せっかく同じ網にかかっても投げ捨てられてしまうというのは、「良い種と毒麦」にあったのと同じ問題提起があります。それは、神の国に迎え入れられる予定の者だったのに神の意思に反する不法を行う者だったので毒麦と一緒に燃やされるということでした。つまり、キリスト教徒でも、自動的に神の国に迎え入れられるということではないのです。つまづきとなるものをことごとく踏みつぶし不法を行わない者が迎え入れられるのです。つまり、自分自身のキリスト信仰を保ち、他人のキリスト信仰も支え、神の意志に沿う生き方をする者です。神からの罪の赦しの中にとどまって神との結びつきを守る者です。そういうわけで、今の時点で自分はキリスト教徒だと言っていても、将来倉に納められる麦のように、また器に入れられる良い魚のように神の御国に迎え入れられるという保証はありません。逆に、今の時点でキリスト信仰者でないからと言って、それで今後も火に投げ込まれる毒麦や悪い魚のままだと言うことも出来ません。イエス様のことを救い主と信じるきっかけはいつ転がって来るかわからないからです。要は、最後の審判の時に「人の子」イエス様にどう判断されるかということです。それなので、問われているのは、これまでの時点でキリスト教徒だったかどうかではなく、これからどうするのか、例えばこの説教を聞いた後でどうするのか、ということです。

最後のたとえ「神の国のために弟子になった律法学者」はわかりにくいかもしれません。それを見ていきましょう。「律法学者が神の国のために弟子になると皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す屋敷の主人のようになる」というのはどいういうことでしょうか?律法学者とはモーセ律法の専門家で、神とイスラエルの民との間で結ばれた契約について熟知している専門家です。彼らが今度はイエス様が教える神の国を受け入れると、こういう屋敷の主人のようになるというのです。イエス様が教える神の国を受け入れるというのは、イエス様の十字架と復活は本当に起きたのだ、それは神の計画の実現であり、人間が神の国に迎え入れられるようにするために行われたのだ、そう信じることです。イエス様を救い主と信じることで神との結びつきが生まれるとそれは神との新しい契約になります。こうして律法学者の専門知識には古い契約と新しい契約の両方が入ることになります。新しい契約が来たからと言って十戒の掟が廃棄されることはありません。十戒は新しい契約の中で新しい役割を果たすようになります。守らなければ神の罰を受けるぞと人間を追い込むものではなくなりました。かわりに人間が神の意志に沿えない罪深いものであることを映し出す鏡になって、人間に罪の自覚を生み出してイエス様の贖いの業の必要性を覚えさせて 人間をイエス様の下に送り出す役割を持つようになりました。

そういう律法学者が実際にいたかどうかは聖書からではわかりません。ある律法学者がイエス様との問答で最も大事な掟は何かと聞いて、イエス様が神を全身全霊で愛し、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛せよ、と答えたことがあります。その答えに感銘を受けた律法学者はそれを復唱し、イエス様から「お前は神の国から遠くはない」と言われたことがあります(マルコ12章34節)。「遠くはない」だから、まだ神の国の弟子にまでは至らなかったようです。でもそれは無理もないことでした。まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きていなかったのですから。

3.神の国に向かって進む者が忘れてはいけないこと

以上、本日のイエス様のたとえを見てきました。神の国やその構成員は、今のこの世では取るに足らないものであるが、神は手をかけて育てたり捏ねたりして、最後には必ず結果が目で見えるものになって現れるということ。さらに神は、私たち人間のことをひとり子を犠牲に供してもよいと考えるほど価値あるものと見なし、イエス様を救い主と信じて受け入れた者を復活の日まで守って下さり、その守りの中に留まる限り必ず神の国に迎え入れて下さることがわかりました。

復活の日まで守って下さると言われて、その通りだと信じますとは言ったものの、本当にそうだろうか、守ってもらっていないのではないかと思う時があります。また、守ってもらっていながら、自分は神の意志に反することばかりではないか、いつ守りの手を離されてもおかしくない、実はもう離されてしまったのでは?と心配することもあります。そんな時は、本日の使徒書の日課ローマ8章の個所を見てみると、そんなことはない、神は私から手を離さないばかりか、私自身がその手を離さないように力を下さっていることがわかります。

先週8章に入りました。洗礼を受けた者には、神の霊、聖霊が宿っているということが言われました。聖霊が肉の体に楔のように打ち付けられているので、その通りに出来るかできないかは別として、神の意志に沿おうとする意志と心があります。それが内面の戦いを生み出し、キリスト信仰者はため息をつくようなことばかりだが、将来神の栄光を現わす復活の体を纏わされて神の国に迎え入れられる希望を持っています。この希望を持っている限り、もう救われた、神の国に迎え入れられるから心配するなということになります(8章24節)。この希望がないとどこに向かっていけばいいかわからなくなり、救われないことになります。

希望があって向かうべきところがわかって進むと、今度はそれを邪魔するようなことが起きてきます。悪魔がキリスト信仰者の心と目を罪だけに向けさせて赦しがあることを忘れさせようとします。この世の誘惑や迫害が信仰を捨てさせようとします。それで、本日の個所では聖霊が弱い私たちを助けてくれるということが言われます。先週、私たちには聖霊があるので一人孤独の中で進んでいるのではないことがわかりました。本日の個所では聖霊とイエス様が私たちの祈りを父なるみ神に取り次いでくれていること、そして神自身も私たちを本当に手をかけて守り導いて下さっていることが強調されます。「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」と言います(8章28節)。この訳では万事が益になるのは自動的になるような意味です。その訳も可能ですが、神自身が益をもたらすとはっきり言う訳も可能です(後注)。それに基づいてギリシャ語原文を訳すと次のようになります。「神が万事において影響力を行使して最善のものにしていく。

私たちは、イエス様が果たして下さったことは全て神の御心によるものであったとわかって、それで神を愛するようになると、神はその者を守り導きます。たとえ今起きていることはその人にとって最善のものになっていないかもしれないが、神は全てのことを驚くべき仕方で組み換え組み合わせてよいものに変えて下さるのです。

このような神がキリスト信仰者の側に立っていて下さるので、本当はもう怖いものはありません。本日の個所でパウロが言っていることを忘れないように毎日読み返しましょう。神はひとり子のイエス様を私たちに贈って下さったくらいに、私たちを罪と反対の義なる者にしようとされたのです。もし私たちを罪に定めることが目的なら、ひとり子など送らなかったはずです。だから、私たちには神の愛、キリストの愛が疑いもなく注がれており、何ものも私たちをこの愛から引き離す力を持っていません。私たちの目と心を惑わすことは出てくるかもしれませんが、それは惑わされた目と心がそう感じただけの話で、神の愛自体は全然変わっていないのです。そのことを忘れないようにしましょう。神の愛が全然変わっていないことは聖書の御言葉からいつも確認できます。聖書を繙き説教を聞くことも忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

 

(後注)動詞συνεργειの主語をπανταとすれば、新共同訳のような訳になります。主語を神θεοςとすれば、ここで申し上げたような訳になります。その場合、πανταは名詞ではなくなり、「万事において」という副詞用法になります。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

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