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主日礼拝説教 2020年12月13日(待降節第三主日)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は先週に続いて洗礼者ヨハネに焦点が当てられています。ヨハネは来るべきメシア救世主を人々が迎え入れるように導いた人です。少し歴史的なことを述べておくと、彼はエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章によればイエス様より半年位早くこの世に誕生しました。神の霊によって強められて成長し、ある時からユダヤの荒れ野に身を移して神が定めた日までそこにとどまっていました。らくだの毛の衣を着て腰には皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。神の定めた日がきて神の言葉がヨハネに降り、荒れ野からヨルダン川沿いの地方に出て行って「悔い改めよ、神の国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の群衆がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネに罪を告白し洗礼を受けました。ルカ3章によれば、それはローマ帝国皇帝ティベリウスの治世15年、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。皇帝ティベリウスはイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の人で西暦14年の9月に即位しました。治世15年というのは即位年を含めて数えるのかどうか不明なので、洗礼者ヨハネの活動開始は西暦28年か29年ということになります。
ヨハネは活動開始してからまもなく、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの不倫問題を諫めたことが原因で投獄され、無残な殺され方をします。
ヨハネのもとに大勢の群衆が集まって罪を告白して洗礼を受けました。先週も申し上げましたが、当時の人々は旧約聖書に預言されている「主の日」と呼ばれる日がついに到来したと考えたのでした。「主の日」とは旧約聖書の預言書によく出てくるテーマで、神がこの世に対して怒りを示す日、想像を絶する災いや天変地異が起こって神の意思に反する者たちが滅ぼされる日です。しかし、その後に全てが一新されて天と地も新しく創造されるので、「主の日」は今の世が新しい世に変わる過渡期とも言えます。洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人々はいよいよその日が来たと思い、神の怒りや天変地異から助かろうと、罪を告白して罪から清められようと洗礼を受けたのでした。
当時の人たちがそういう終末論的な恐れを抱いていたことは、本日の福音書の個所の中でも窺えます。当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちがヨハネに、あなたは預言者エリアかと尋ねます。これは、旧約聖書のマラキ書3章の預言に関係します。エリアはイエス様の時代からさらに800年位前に活動した預言者で、列王記下2章に記されているように、生きたまま天に上げられました。マラキ書の預言のためにユダヤ教社会では神は来るべき日にエリアを御自分のもとから地上に送られると信じていました。しかし、洗礼者ヨハネは、自分はエリアではない、ましてはメシア救世主でもない、自分はイザヤ書40章に預言されている、「主の道を整えよ」と叫ぶ荒れ野の声である、と自分について証します。つまり、神の裁きの日やこの世の終わりの日は実はまだ先のことで、その前に、メシア救世主が来なければならない。自分はその方のために道を整えるために来た。そうヨハネは自分の役割について証しました。
先週の説教でもお教えしたように、ヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けました。それは清めのジェスチャーのようなもので、罪の赦しそのものが起こる洗礼ではありませんでした。先週の日課のマルコ1章の中でヨハネも認めたように、それが起こるためには聖霊が伴わなければならなかったのです。聖霊を伴う洗礼を授けられるのは自分の後に来られるメシア救い主しかいないのだ、と。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシアの罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに委ねるためのものであったと言えます。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではありません。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい。その時本当に罪を赦されたお前は神の子となり、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は罪を洗い清める洗礼ではなく、人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。それで、ヨハネは人間に主の道を整えさせる働きをしたのでした。それで、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救世主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。
洗礼者ヨハネの活動は普通は、イザヤ書40章3節の預言が実現したものと見なされます。それは、「荒れ野で叫ぶ声がする」と書いてあるので、ヨハネがユダヤの荒れ野で叫ぶように宣べ伝えたことと重なるからです。ところが、先週の説教でも見ましたように、そのように書いてあるのは旧約聖書のギリシャ語版で、ヘブライ語版はそう書いてありません。叫ぶ声はただの叫ぶ声で、荒れ野で叫ぶとは言っていません。「荒れ野」は、主の道を整える場所になっています。ギリシャ語版では、荒れ野で叫ぶ声がして、その声が「主の道を整えよ」と叫んでいる。ヘブライ語版では、叫ぶ声が「荒れ野で主の道を整えよ」と叫んでいる。どうしてそんな違いがあるのかということについて、先週も少し申しましたが、旧約聖書がどのようにして出来たかという大問題にかかわるので時間の限られた説教では割愛します。大事なことは、大元にあるヘブライ語の旧約聖書はどちらにでも取られる書き方をしていたということです。
ギリシャ語版に基づいて見ていくと、洗礼者ヨハネは荒れ野で「主の道を整えよ」と叫んで、人々に罪の自覚を呼び覚ましました。そして、来るべきメシア救世主から聖霊を伴った洗礼を受けられるように導きました。罪の自覚とメシアの洗礼の待機の印としてヨハネの洗礼がありました。このようにしてイザヤ書40章3節の預言は実現しました。
それでは、人々はどのようにして聖霊を伴うメシアの洗礼を受けるようになったのでしょうか?イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれ、その3日後に神の想像を絶する力で復活させられるという出来事が起きました。イエス様の復活を目撃した弟子たちは、これで彼の十字架の死がなぜ起こったかがわかりました。それは、神のひとり子が人間の罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったということでした。そのことは実は旧約聖書に既に預言されていて、それらの預言が何を意味するのかがイエス様の十字架と復活の出来事で明らかになったのでした。
神がひとり子を用いて十字架の死と死からの復活の出来事を起こしたのは、人間が堕罪の時以来失ってしまっていた神との結びつきを取り戻せるようにするためでした。人間が、これらの出来事は自分のために神がなさせたものだったのだとわかって、それでイエス様こそ救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。これがメシア救い主イエス様の洗礼です。それを受けた人は罪を償われたので、神から罪を赦されたと見てもらえるようになります。神から罪を赦されたので神との結びつきを持って世を生きていくことになります。目指すところはただ一つ、永遠の命と復活の体が待っている天の御国です。イエス様の死からの復活が起きたことで、そこに至る扉が開かれて、キリスト信仰者はそこに至る道に置かれてそこに向かって歩み出します。順境の時にも逆境の時にも変わらずにある神との結びつきを持ってただひたすら進んでいきます。
ところが、罪を赦された者と見なしてもらえるとは言っても、信仰者から罪の自覚がなくなったわけではありません。神がそれだけ身近な存在になれば、神の意思もそれだけ身近になって自分には神の意思の沿わないことが沢山ある、罪があるということに一層気づかされるようになります。行為では盗みも殺人も不倫も偽証や改ざんなどしていなくても、心の中でそのようなことを思い描いたりします。その時、神はがっかりして愛想を尽かして見捨てるかと言うと、そうはならないのです。どうしてかと言うと、洗礼の時に注がれた聖霊が信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、罪の赦しが微動だにせずあることを示してくれるからです。神のひとり子のとても重い犠牲の上に今の自分があるとわかると、もう軽々しいことはできないという気持ちになります。また今自分が生きている新しい命は微動だにしない十字架を基にしているので、自分の過去の嫌なことが来て台無しにしようとしても傷一つつけられません。傷は全部イエス様が代わりに負って下さったのです。それがわかると心は安心し平安が得られます。
罪の自覚の呼び覚ましとその後に続く罪の赦しが一つになっているというのは聖霊の働きです。聖霊が働かなければ罪の自覚は生まれません。自覚が生まれないと罪の赦しもありません。また罪の自覚が生まれても、赦しがなかったらそれは絶望にしかなりません。それは聖霊の働きではありません。罪の自覚と赦しが一つになっているのが聖霊の働きだからです。なぜ聖霊はそのような働きをするのかというと、これを繰り返すことによって信仰者と神の結びつきが一層強まっていくからです。人間が神と結びつきを持てて、それを強めるようにすることが聖霊の目的だからです。そのような聖霊は、まさにイエス様が贈られた洗礼を通して与えられるのです。
聖霊が働くままにさせて神との結びつきが強まっていけば、内に宿る罪は行き場を失い圧し潰されていきます。罪の本質は、人間と神の間の結びつきを失わせて、人間を永遠の滅びに陥れることにあります。そのような罪を悪魔は用います。それは、悪魔の目的が、人間と神の間の結びつきをなくして人間を永遠の滅びに陥れることにあるからです。しかし、キリスト信仰者は、罪には結びつきを失わせる力がなくなっているとわかっています。なぜなら神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を十字架で受けたのですから。十分過ぎるほどの償いはなされたのです。しかも、イエス様は死から復活させられたので、彼に罪を償ってもらった者には罪は本当は力を及ぼせないのです。それがわかったキリスト信仰者は罪に対して、こう言ってやればいいのです。「罪よ、お前は本当は死んでいるのだ。」
人間と神との結びつきを弱めるものとして、罪の他に私たちが遭遇する苦難や困難もあります。そのような時、人は、神に見捨すてられた、とか、神は怒っている、などと思いがちです。イエス様の犠牲を脇に置いて自分が何かをして神を宥めねばと何かをやってしまったり、または、見捨てられたからもう神と関りは持たないという考えになりします。しかし、神のひとり子が死なねばならないくらいに神罰を受けたという、それくらい神が私たちのことを思って下さったのなら、見捨てたとか怒っていると考えるのは間違いです。それならば、なぜ苦難や困難があるのか?どうして神は苦難や困難が起きないようにして下さらなかったのか?難しい問いです。しかし、苦難や困難がもとで私たちが神から離れてしまったら、それは悪魔や罪が手を叩いて喜びます。それなので、今こそ苦難や困難を、神との結びつきを失わせるものから、結びつきを強めるものに変えないといけません。でも、どうやって苦難や困難を神との結びつきを強めるものに変えることができるでしょうか?とても難しい問題です。一つはっきりしていることがあります。それは、神との結びつきがあれば人生は順風満帆になるという考えは捨てることです。そのかわりに、神との結びつきは順境の時も逆境の時も同じくらいにある、外的な状況や状態に全然左右されないである、ということはうよく言い聞かせることです。ゴルゴタの十字架と空っぽの墓に心の目を向けながら、言い聞かせをすることです。
キリスト信仰者の生き方は罪の自覚と赦しの繰り返しをして神との結びつきを強めていくことであると申し上げてきました。しかしながら、そう言うと今度は、この世にはいかに神との結びつきを弱めたり失わせることが沢山あることに気づかされます。それなので、神との結びつきを失わせようとする力が働くこの世は闇と言うのは間違いではありません。そうすると、神との結びつきを持たせよう強めようとする力は光となります。この闇と光についてヨハネ福音書の本日の日課のひとつ前の個所で述べられています。
それは1節から8節までの個所です。そこではイエス様が乙女マリアから生まれて人間の体を持って誕生する前のことが述べられています。この世に誕生する前の神のひとり子には人間の名前はありません。「イエス」という名は誕生した後でつけられた名前です。この世に誕生する前の神のひとり子のことを福音書の記者のヨハネはギリシャ語で「言葉」を意味するロゴスと呼びました。神のひとり子が神の言葉として天地創造の場に居合わせて創造の働きを担ったことが述べられます(2~3節)。その後で、この神の言葉なる者には命があると言います(4節)。ヨハネ福音書で「命」と言ったら、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神の言葉なる者には永遠の命が宿っているということです。そして、永遠の命は「人間の光」であると言います(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文を直訳すると「人間の光」です。その「人間の光」が闇の中で輝いていると言います(5節)。闇とは先ほども申しましたように、神と人間の結びつきを失わせようとする力が働くこの世です。その中で輝く光とは、その結びつきを人間に持たせて強めようとする力のことです。まさにイエス様のことです。それで「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」でイエス様そのものです。
5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。実はこれは解釈が分かれるところです。というのは、原文のギリシャ語の動詞カタランバノーがいろんな意味を持つからです。日本語(新共同訳)と英語(NIV)の訳は「暗闇は光を理解しなかった」ですが、フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語の訳では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持っているか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解して、日本語や英語のように訳してもいいかもしれません。しかし、悪魔は罪を最大限活用して人間から神との結びつきを失わせようとしても、それはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。
さて、福音書の記者は洗礼者ヨハネのことを、この光を証しするために遣わされたと言います(6~8節)。人々はヨハネ自身がその光ではないかと思ったが、そうではなくヨハネは人々の前で、もうすぐその光が現れると表明したのでした。
この光がどれだけ素晴らしいものか、今まで申し上げたことではまだ抽象的すぎて遠い感じがすると言う人もいらっしゃるかもしれません。それならば、もう少し具体的に身近に感じられるようにお話ししてみましょう。
今はクリスマスシーズンということで、あちこちにイルミネーションが見られます。どれも冬の闇夜を照らし出して美しく華やかです。ネットを見ると、どこのイルミネーションがきれいかランキングなんかもあります。私たちの家族もそれを見て今年はどこのを見に行こうかなどと話し合って出かけます。今年は人が多いところは行けませんが。とにかくイルミネーションは闇と光のコントラストを浮き上がらせ、私たちは闇の方は忘れて光の方に目を奪われます。
闇というものを私たちは怖いもの危ないものと思います。光がない状態で暗闇の中を歩いたら何かにぶつかって転んでしまいます。また周囲に何か潜んでいるのではと思うと怖いです。しかし、この闇というものは、人を怖がらせたり危険に陥れようという目的も意図も持っていません。転ぶのは人間がライトを持たずに歩いたという不用意によるものです。闇はただ光がないという物理的な現象にしかすぎません。同じように光も人間を助けてあげようとか安心させてあげようという目的も意図も持っていません。人間がそれを利用して安全と安心を確保しようとするのです。イルミネーションも同じで、それを考案して飾り付ける人がこうしたらみんなが感動するだろう注目するだろうと考えて飾ります。イルミネーションの光自体はそのような目的も意図も持っていません。人間が自分の目的のために利用しただけです。
ところが、ヨハネ福音書の1章で言われる闇と光は違います。それ自体が目的と意図を持っているのです。闇の目的は、人間から神との結びつきを失わせようとすることです。そして、その闇が支配下に置けなかった力強い光は、まさに人間から失われていた神との結びつきを取り戻してあげることを目的としています。取り戻したらそれが失われないようにし一層強められるようにする目的を持っています。
その光は、イエス様の十字架と復活によって現れました。それは闇が支配下に置けない位、力強い光です。
なぜなら、闇が死に至らせる力に過ぎないのに対して、イエス様の光は死を超えた永遠の命に至らせる力だからです。
それなので、キリスト信仰者は、冬の闇夜を照らすイルミネーションを見た時、目的を持たない光がこれだけ素晴らしいのならば、私たちのために目的を持つ光の素晴らしさはいかほどのものだろうと予感し期待に胸を膨らませることができるのです!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン