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主日礼拝説教 2021年1月24日 顕現後第三主日
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお教えしようと思います。
ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせが「福音」です。それでは、「福音」とはどんな特段の良い知らせなのでしょうか?
「福音」がどんな内容の知らせかと言うと、大体以下のことです。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。この彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、十字架で一度死なれたイエス様を計り知れない力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事にかかわる良い知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。
ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオンを「神の福音」や「福音を信じなさい」と訳すのは、少し気が早いのではと思われます。エヴァンゲリオンは「福音」だけでなく「良い知らせ」の意味もあるのだから、ここは「良い知らせ」と訳した方がいいのではないか?(参考までに各国の聖書の訳を見てみると、英語訳の聖書NIVは「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は「神の福音」 (evankeliumi)、「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。)
十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと言うと、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのかという疑問が起きます。(もちろんイエス様はギリシャ語ではなくアラム語で話したので、発音した言葉はエヴァンゲリオンではなかったのですが、書かれた記録はギリシャ語のものしか残っていないので、それに基づくしかありません。)
イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」
伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。「平和」ヘブライ語のシャロームשלוםは意味がとても広く、「救い」も含みます。それで、ここの「良い知らせ」の内容は、「救い」と「神を王に戴く国」の二点に絞ってよいと思います。イザヤ書の続きを見ていくと、この「救い」の内容と、そして、それが「神を王に戴く国」と関係することがわかります。
続きのイザヤ52章8ー12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、自分の力を諸国民に示します。つまり、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力でバビロン捕囚から解放されて祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するということです。
ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは私たちの痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるのでだり、まさに彼が受けた傷によって私たちは癒しを受けたのであると。53章11節で神は次のように述べられます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら背負うことで、人間は神の目に相応しい者になれたというのです。そうすると、ここでの「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が到来するという意味ではなくなっています。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神罰が免れるということが「救い」の内容になって、神の国というのもそういう罪の赦しが支配しているところになります。
このイザヤ書52章7節から53章12節までの箇所で言われる「救い」ですが、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の終わりの人々にとっては、イスラエルの民の捕囚からの解放と祖国帰還がそれを意味すると考えられました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。その場合、身代わりの犠牲で人々を神罰から救う「主の僕」とは誰のことかというと、異国の地に連行された捕囚の民を指すと考えられました。イスラエルの民が長い歴史の間に重ねた罪の結果、罰としてバビロン捕囚が起きたのであり、民が異国の地で辛酸を舐めるという罰を受けることで罪の償いが果たされてまた元に戻れるようになったと考えられたのです。
ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。ということは「救い」も実現しませんでした。確かにエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は諸国民も恐れおののく神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56ー65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今の世の天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。
そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつこれらの預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた、まさにその時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。神の約束についての「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。
イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、時間の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしました。
「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけでみると、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。
そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言いますと、「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行けるんじゃなかったの?という疑問が起きます。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています(教会讃美歌366番「愛の泉」でも明確に歌われています)。
そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が安らかに眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人だったら起こってくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。
話が脇道に逸れましたが、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったということでしょうか?ところがそういうことではないのです。
どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。
実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。
このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもなく、永遠の平和と安心があるところです。さて、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。
この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して福音として結晶した出来事でした。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものとなるのです。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。神との結びつきが確立されているので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。こうしたこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さってたがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。
イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―ですが、基本的な意味は「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。信仰の言葉で言えば、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。それなので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっていることではなく、あくまで神に向き合うという勇気ある振る舞いです。
「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。
「イエス様は自分を信じる全ての者に、方向転換の悔い改めをしなさい、と言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなるのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊もまた罪に対して攻撃をする。イエス様を救い主と信じることで神から義なる者と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めに関係したものになる。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。
方向転換の悔い改めが止まるということはありえない。それは、律法がこれは罪だと明らかにするものを我々は絶えず取り除こうとするからだ。罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されたものになっていて、本当は我々を支配する力を失っている。イスラエルの民はカナンの地に入った後でもその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。
それと同じように、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を取り除くことの方が、キリスト信仰者になって罪に宣戦布告することよりも難しいのである。このために、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだのであり、神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。」
兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しの恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、敏感な良心はゴルゴタの十字架を目にするたびにヘリ下った心になり深い安堵を覚えます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。向かう先は復活の日の永遠の命です。良心がゴルゴタの十字架に続いてあの空っぽの墓を目にすると私たちの進む道は真っ直ぐに伸びていることがわかります。その最終目的地に着くともはや方向転換の悔い改めはなっています。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
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