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2021年5月9日(日)復活節第六主日 本日の礼拝の動画配信は機器の不具合のため出来ませんでした。説教文を以下に掲載しますのでご覧ください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
復活祭から聖霊降臨祭までは日本のルター派教会の聖書日課の最初の日課は旧約聖書ではなく使徒言行録です。先週は、エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事でした。本日の個所は、ユダヤ民族の地域を占領していたローマ帝国軍の将校コルネリウスがイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたという出来事です。コルネリウスの洗礼の時は聖霊が降ったということが周りの目に見える形で現れました。エチオピアの高官の場合は目に見えない形で降ったことになります。いずれにしても、洗礼と聖霊の降りは密接な関係にあります。それで洗礼について考える時、聖霊についても考えなければなりません。本日の説教では最初にそのことについてお話しします。
次に使徒書の日課である第一ヨハネ5章と福音書の日課であるヨハネ15章は双方とも愛することについての教えがあります。両方とも先週の日課の続きで、ずっとキリスト信仰にとって愛するとはどういうことか教えてきました。父なるみ神は先週だけでは足りない、もっと教えよと言っているようです。それでキリスト信仰にとって愛とは何かについて、今日も聖書の日課に基づいてお話ししようと思います。今日注目する点は、愛することと神の掟を守ることがどう結びつくかということです。ヨハネ15章を見ると、イエス様は「私が父の掟を守ってその愛の内に留まるように、あなたたちも私の掟を守るなら、私の愛の内に留まることになる(10節)」と言います。さらに、「あなたたちは互いに愛し合いなさい、それが私の掟である」と言います(12節、17節)。
第一ヨハネ5章を見ると、ヨハネはまず1節で、イエス様をメシアと信じる者はみな神から生まれた者である、それを生み出す神を愛する者はみな神から生まれた者を愛する、と言います。つまりキリスト信仰者を生み出す神を愛する者は生み出された信仰者も愛すると言うのです。続いて2節で、我々がこうした神の子たち、すなわち他のキリスト信仰者を愛しているかどうかわかるのは、我々が神を愛し、その掟を行う時にわかる、と言います。そして3節で、我々の神に対する愛とは神の掟を守ることに他ならない、と言います。皆さん、話の筋が見えるでしょうか?要は、キリスト信仰者が神を愛すると言うならば、神から生み出された他のキリスト信仰者を愛するのは当然であり、その愛は信仰者が神の掟を守っているかどうかでわかる、というのです。もっと簡単に言えば、キリスト信仰者が神を愛するというのは神の掟を守ることであり、掟の中には他のキリスト信仰者を愛することが含まれるということです。
以上から、イエス様の掟を守ることが彼の愛の中に留まる条件になっています。また、神の掟を守ることが神を愛していることの証しになっています。特にキリスト信仰者が他の信仰者を愛することが掟に含まれているので、そういう信仰者が互いに愛することがイエス様の愛の中に留まること神を愛することになっています。そういうふうに見ていくと、掟を守らないと神を愛していないと見なされてしまう、神を愛すると言うのなら掟をしっかり守れということになり、これは律法主義的に聞こえるかもしれません。しかし、そうではないのです。そのことを後で見ていきます。加えて、信仰者同士の愛についてばかり言っていて、キリスト信仰者でない人に対する愛は何も言っていません。信仰者でない人たちは別に愛さなくても、イエス様の愛の中に留まることや神に対する愛は問題ないということなのか?これも、実はそういうことではないので、それも併せて見ていこうと思います。
まずコルネリウスの洗礼について見ていきます。先週のエチオピアの高官の洗礼と様子が違っています。コルネリウスの場合は聖霊が降ったことが目に見える形で現れました。習ったことのない言語で神を賛美し出すという「異言を語る」ということが起こったのです。最初の聖霊降臨の時に起こったことと同じことが起こったのです。コルネリウスの洗礼で注目すべきもう一つの点は、ユダヤ人でない異邦人が洗礼を受けてキリスト信仰者になったということでした。
なぜそれが注目すべきことになるのかと言うと、当時はイエス様を救い主メシアと信じる信仰はメシアを待望するユダヤ人が持てるという考え方でした。それで、キリスト教徒になるためにはまず割礼を受けてユダヤ人にならなければならなかったのです。ところが、コルネリウスの洗礼が起きる前、ペトロが幻を見ました。本日の日課の前の部分です。天から何か入れ物のようなものが下って来て、その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。それらは旧約聖書レビ記11章の中で汚れたものとされていました。突然、天から神の声が聞こえて、それらを食せよと言うのです。レビ記の規定があるのでペトロは出来ないと答えます。そこで神は、自分が清めたものを汚れていると言ってはいけない、と言います(使徒言行録10章13~15節)。このタイミングでコルネリウスの使者がペトロを訪問しました。ユダヤ人でない、しかも占領軍の将校がペトロの教えを乞うているというのです。
ユダヤ人は神聖な神に近いということで異邦人は汚れた存在、それで親しい関係を持ってはいけないことになっていました。しかし、ペトロは幻の中で神に言われたことの意味がわかり出かけていきます。なぜコルネリウスはペトロに教えを乞うたかというと、彼は旧約聖書が証しする天地創造の神を信じるようになっていたからでした。彼のことを2節で「敬虔で神を畏れる者」と言っていますが、この「神を畏れる者」というのは使徒言行録の中によく出てきます。どういう人たちかというと、旧約聖書の神を信じるようになってはいたが、いろいろな事情から割礼を受けて正式にユダヤ教徒にはなっていなかった人たちです。
先週の説教でもお教えしましたが、2000年前のギリシャ・ローマの多神教の世界にあって、万物の創造主である神を崇拝するユダヤ教は人々の目を引きつけました。特に道徳面で新しい視点を提供しました。例えば、当時この世界の奔放というかルーズな性のモラルに対して、ユダヤ教は人間を男と女に造った創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。さらに、当時の地中海世界には余分な赤子を父親の権限で処分するという間引きが当たり前のことのように行われていました。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内の中にいる時から神に目をかけられているという生命観を示して間引きに反対したのです。
このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じ立場で正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けないでいる、ないしは受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍とも呼ぶべき人が大勢いたのです。これが「神を畏れる者」です。そこにある日突然パウロがやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるので予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることができません。そこで、ローマ帝国の官憲も巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。
先週のエチオピアの高官の場合は宦官ですので、割礼を受けたくても受けられません。コルネリウスの場合は受けようと思えば受けられるのですが、受けないで異邦人の立場に留まりました。恐らくローマ帝国軍の将校が被占領国の民族の宗教に改宗するというのは立場上、難しかったでしょう。しかし、彼は神を信じて祈り、ユダヤ人に厚意を示していました。またペトロの発言から明らかなように(37節「あなたがたも知っている通り」)、彼はガリラヤ地方やユダヤ地方で何が起きたかを知っていました。洗礼者ヨハネの活動、イエスの活動とその奇跡の業そして彼の十字架刑と死からの復活。それらの出来事は天地創造の神の意思の現れなのか知りたいと思っていた時に神から目撃者を送ってもらったのでした。
ペトロの説教を聞いた結果、コルネリウスはじめ一緒にいた者たちが異言を語り出し聖霊が彼らに降ったことがことが明らかになりました。ペトロに同行したユダヤ人キリスト教徒たちは聖霊が異邦人にも降ったことに驚きます。ペトロはすかさず聖霊が降ることにユダヤ人も異邦人も関係ないとわかり、洗礼を施します。
エチオピアの高官の時はこのような現象は起こりませんでした。フィリポの説教を聞いてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。エチオピアの高官には聖霊は降らなかったのでしょうか?いいえ、そういうことではないのです。キリスト信仰の観点では、人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ません。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の現在イスラエルの国がある地域で旧約聖書とその神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得るも、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突した。その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史的な理解に留まります。
ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言を通して明らかになります。では、その神のひとり子がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪を償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの世の次に到来する世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。そうした旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊はこの真理を私たちの心に示す働きをするのです。
人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、この真理を示されたことに気づいたからです。人生のいろんな経験を通して神はこの気づきへと導かれます。気づかせた聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間をその働きの下に服させるようにするのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、洗礼を受けて聖霊の働きの下にすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないとか、また、救い主は沢山あってイエスは単なるそのうちの一人にすぎないとか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは何の意味もなさなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持って生きることができるので、霊的に安全地帯にいることになります。
エチオピアの高官の場合は異言を語るということはありませんでしたが、聖霊の働きでイエス様を救い主と信じられるようになって洗礼を受けました。静かに聖霊の下に服したのです。コルネリウスの場合は、異言を語り出して騒々しく洗礼に至りました。どうしてそのような違いが生じたのか?聖霊は、自分の考えるままに賜物を授けるので私たち人間にはわかりません。ただ一つ言えることは、異言を語るという目に見える影響があったことで、ペトロに同行したユダヤ人キリスト教徒たちはぐうの音も言えませんでした。もしエチオピアの高官のように静かに聖霊の下に服したら、異邦人に聖霊が降るわけがないとペトロと言い争いになっていたかもしれません。そういうことを考えるにつけ、神の導きというのは本当によく考え抜かれたものと感心します。
コルネリウスの洗礼の話が長くなってしまいました。次の問題に入りましょう。ヨハネ福音書の日課と第一ヨハネの日課を見ると、キリスト信仰者がお互いを愛することがイエス様の愛に中に留まって神を愛することになります。そうすると、掟を守らないとイエス様の愛に留まっていない、神を愛していないということになります。もし神を愛すると言うのなら掟を守れ、というのは律法主義的に聞こえるかもしれません。また、信仰者同士の愛についてばかり言っていて、信仰者でない人たちは愛さなくてもいいのか?愛さなくても、イエス様の愛の中に留まることや神に対する愛は問題ないということなのか?急ぎ足になるかもしれませんが、これらの問題を考えてみます。
これらの問題は先週お教えしたことを振り返ればいろいろわかってきます。愛についてのヨハネの立場ははっきりしていました。人間が普通、愛と言っているものは実は愛ではない。愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにしてあげよう、そのために他に手立てがなければ自分のひとり子を犠牲にしても構わない、これが神の愛で本当の愛だと言うのです。人間はこの愛で愛されて本当に愛することができると言うのです。この愛がなければ本当に愛することができないと言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということでした。
そうすると、キリスト信仰者が掟を守ったり愛するのは、イエス様の愛に留まるため、神を愛していることを示すためとは言っても、律法主義にならないものが見えてきます。というのは、キリスト信仰者という者は既にイエス様の愛の中に留まっている者であり、神に愛されている者である。だから、イエス様の愛の中に留まれるために、とか、神に愛されるために愛するというような~のためにという目的があって愛するということはありません。既にイエス様の愛の中に組み込まれていて神に愛されているのです。そうすると目的がなくなってしまうので愛したり掟を守る動機が起きなくなってしまうでしょうか?
いいえ、そういうことにはならないのです。もし私も皆さんも自分が万物の創造主の後ろ盾を得てこの世とこの次の後に到来する世の双方を生きられるようになった、しかも、それをさせないようにしていた邪魔者を神がご自分のひとり子を犠牲にしてまで撤去して下さった、それで私たちは壮大な方の後ろ盾を得て壮大な人生を生きられるようなった、このことに気づいたら、神は本当に全身全霊で愛すべき方だとわかるでしょう。この愛すべき方が、父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、他人のものを妬んだり欲しようとするな、しかもこれらを外面的な行為だけでなく、心の中までもそういう状態にしなさいと言っているのです。人間の先生が偉そうに言っているのではなく、ひとり子を犠牲にしてまで私たちを滅びの崖っぷちから救い出して下さった方、そして私たちの本当の造り主である方がそう言っているのです。
さて救い出された私たちが生きることになった新しい命は、心の中まで父母を敬い、殺さない、姦淫しない、盗まない、偽証しない、他人のものを妬んだり欲したりしないという命です。そんな命を生かされることになったら、それと調和して生きることが自然になります。これはまさに、神に愛されているので神の意思に沿うように生きる、考える、言葉する、行うことが自然になって、そのように生きることが神への愛を現わしているのです。
ところが現実はもっと複雑であることをパウロがローマ7章の終わりで見事に言い当ています。キリスト信仰者はこうした意識の面では確かに神の命じることに従っているのだが、肉の面では罪が命じることに従っていると言うのです(25節)。それで新しい命を生きる自分は、神の意思に沿うのがふさわしい生き方だとはわかっていても、いつも肉や肉につけ入るこの世が神の意思に沿わないようにと引っ張ります。それでパウロはローマ8章で、キリスト信仰者は自分の内に駐留する聖霊が助けてくれるので意識が肉を圧倒することができるのだと教えるのです。
パウロがローマ12章で列挙するようなキリスト信仰者の生き方、悪を憎み善から離れない、兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思う、迫害する者を呪わず祝福を祈る、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、思いをひとつにし高ぶらず身分の低い人々と交わる、自分を賢い者とうぬぼれない、誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がける、隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第である時は迷うことなくそうする、少なくとも自分から平和な関係を壊さない、自分で復讐しない、最後の審判の時の神の怒りに任せる、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる、善をもって悪に勝つ。これらのことは全て、新しい命を自分一人だけでなく聖霊に助けられながら生きるとこうなっていくというものです。聖霊が肉を押さえつけるので神の掟が守りやすくなるということです。人間に何か力があったからそのように出来るようになったというのではありません。人間にそんな力はないでしょう。聖霊に助けられる人にとって、第一ヨハネ5章3節の御言葉「神の掟は難しいものではありません」というのは真理です。
最後に、愛せよというイエス様や父なるみ神の掟はキリスト信仰者同士だけのものかということについて、そもそも神の愛とは、ひとり子イエス様を用いて罪の償いと復活の命への道開きを行って、これを全ての人間が受け取るようにと提供して下さっていることです。そうすると、既に受け取ったキリスト信仰者を愛するということは、その方が信仰に留まるように、新しい命を聖霊に助けられて生きるように支えるということが土台にあることがわかります。そして、まだ罪の償いと復活の命への道開きを受け取っていない人にはそれを受け取れるようにと導いてあげることがその人を愛することの土台にあります。
この導きは伝道に繋がります。先週も申し上げましたが、いろんな宗教や死生観があるところではこうした伝道は簡単なことではありません。キリスト信仰者の側としては愛だと思ってやったことが、相手側からすると余計なお世話だとか脅威に受け取られたりするからです。人がどの宗教を信じるか、あるいは信じないかということは、詰まるところ、どんな死生観を持つかという問題に収れんします。自分はどの死生観を持ってこの世を生き別れて次の段階に行くか、自分が納得いくものを持つことになります。私がキリスト信仰の死生観で納得するのは、復活ということが正義と愛の完全な調和になるからです。この世では正義と愛の完全な調和はありません。愛なしで正義を追求しようとすると無慈悲になります。正義なしで愛を追求しようとすると甘やかしになります。愛に裏打ちされた正義、正義に裏打ちされた愛を目指さなければなりません。人間は完全な回答を見つけられないと思います。神のみが完全な正義と完全な愛を持ち合わせています。復活の日に完全な回答を得られるとわかれば、この世で自分の無知無力さを思い知らされても、それほど辛くはなりません。復活の日に思いを馳せられるのも聖霊の働きです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
全知全能の父なるみ神よ。
あなたは、み子の十字架上の死と死からの復活をもって、死そのものを滅ぼし、私たちのために永遠の命に至る扉を開いて下さいました。どうか、私たちの内にその命に与(あずか)る希望を起こし、あなたのみ許(もと)に迎え入れられる日まで、その希望を失うことがないように、いつも私たちを助け導いて下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン