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主日礼拝説教 2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日 市ヶ谷教会(いずみ教会共同体講壇交換日礼拝)
ダニエル7章9-10、13-14節、黙示録1章1b-8節、ヨハネ18章33-37節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
真理とは何か?これは、本日の福音書の日課にあるイエス様とピラトの対話の終わりでピラトが口にした言葉です。38節です。本日の日課はその前の37節までなので、説教題にするのはどうかと思われる方もいるかもしれません。11月初めに浅野先生から今日の説教題何にしますかと聞かれて、電話口で慌てて聖書日課を見て、ああイエス様とピラトの対話か、じゃ「真理とは何か?」でいいやと思い、それでお願いしますと言ってしまいました。先週説教を準備し始めて、38節が入っていないことに気づき後の祭りでした。それでもイエス様自身37節で真理という言葉を口にします。これはきっとピラトだけでなく、この御言葉を聴く全ての人にとっても関心事になるだろうと、それでこの説教題で問題ないと思った次第です。
真理とは何か?ごく一般的に言えば、それは時や場所を超えて普遍的に当てはまること普遍的に有効なこと、人間がどうあがいても変えられない、好むと好まざるにかかわらずその下で生きるしかない、そういう何か絶対的な法則というか有り様が真理です。光が1秒間に30万キロで進むというのは物理学上の真理です。三角形の内角の総和は180°というのは数学上の真理です。 イエス様とピラトの対話の中で出てくる真理とは、そういう自然科学上の真理とは異なります。でも真理である以上は時や場所を超えて普遍的に有効な有り様について言われています。何のことでしょうか?イエス様は自分は王であると、しかもその国はこの世に属さない国だと言っています。そういう国があることとその国の王であることが真理に関係します。この世に属さない国とは、いうまでもなくイエス様が地上で一番よく教えた「神の国」のことです。ユダヤ民族に属さないピラトに神の国と言っても何のことかわからないので、それでその言葉は使わず「この世に属さない国」と言ったのです。
神の国とイエス様がその王であることが真理に関係するのであれば、神の国とイエス様がその王であることがどういうことかわかると、イエス様の言われる真理もわかってきます。今日はこうしたことについてお話しします。今日の説教は二部構成になります。第一部では、イエス様とピラトの対話を歴史に忠実に見ていきます。何をするのかと言うと、二人の対話が記されているテキストを確実性の高い歴史的事実とかけ合わせて見るということです。第二部では、イエス様の言われる真理を聖書全体の観点から明らかにします。
皆さんは、二人の対話を読んで、おやっと思ったことはありませんか?イエス様とピラトは何語で話をしていたのだろうと疑問に思ったことはありませんか?ピラトはローマ帝国から派遣された総督です。ローマの高官ということはラテン語か?じゃ、イエス様はラテン語を話したのか?イエス様は神の子だから、語学も奇跡の業であっという間にできたのだ、と言う人にはこの説教は意味がありません。聖書の神は具体的な歴史を通して自分の意思や計画を人間に示される方です。それなので、神の意思や計画を知ろうとするならば、歴史を飛躍せずにそれを足場にして知ろうとしなければなりません。
福音書をよく見ると、イエス様はアラム語とギリシャ語のバイリンガルであることがわかります。アラム語というのは、文字はヘブライ語と同じですが文法や語彙はかなり違います。ユダヤ民族はもともとヘブライ語を話していましたが、バビロン捕囚で3世代くらい異国の地にいた時にその地のアラム語に同化してしまいます。エズラ-ネヘミア書をひも解くと祖国に帰還した民に指導者が律法を読んで聞かせそれを解説したとあります。ヘブライ語で読んでアラム語で解説したのです。イエス様の時代のシナゴーグの礼拝でも同じでした。専門家がヘブライ語で旧約聖書を朗読してそれをアラム語で解説したのです。ルカ4章でイエス様がナザレの会堂でイザヤ書の巻物を渡されて朗読し、会衆が彼の説き明かしを待ったことが記されています。その意味で彼はヘブライ語も出来たことになります。ただ、それは会話言葉ではありませんでした。
イエス様がアラム語で話した肉声が福音書の中にあります。マルコ7章で耳が聞こえず舌が回らない人を癒す奇跡を行った時の言葉エッファタ、正確にはאפתהイップターです。おまじないの言葉と思う人もいるのですが、単にアラム語で、お前の閉じている部分は開かれよ、と言っているだけです。マルコ5章の会堂長の娘を生き返らせる奇跡を行った時の言葉タリタ、クム、少女よ、起きなさい、ですが、正確にはטליתא קומיテュリーター、クーミーです。そして有名な、イエス様が十字架の上で叫んだ言葉、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ、わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのですか?正確にはאלהי אלהי למא שבקתניエラヒー、エラヒー、レマー、シャバクタニーと言います。ご存じのように新約聖書はギリシャ語で書かれています。つまり、もともとアラム語だったイエス様の言葉はことごとくギリシャ語に翻訳されます。ただし、目撃者に強烈な印象を与えた言葉はギリシャ語に訳されずに音声のまま記されたのです。それが日本語訳の聖書ではカタカナになっているのです。私たちはイエス様の肉声と共に当時の人たちの驚きにも触れられるのです。
イエス様がギリシャ語も出来たというのは、マルコ7章のシリア・フェニキア人の女性との会話から伺えます。ユダヤ人でない異邦人の女性です。ギリシャ語は当時地中海世界の東側では公用語でしたから、アラム語が出来ない異邦人と話す場合はギリシャ語しかないでしょう。総督ピラトも任地が地中海東海岸であれば公用語のギリシャ語は必須だったでしょう。ギリシャ語が出来たからユダヤに送られたのかもしれません。そういうわけで今日の日課の二人の対話はギリシャ語でなされたと考えるのが妥当です。先に申したように、新約聖書はギリシャ語で書かれ、イエス様の言葉もギリシャ語に翻訳されていきました。そうすると今日の福音書のイエス様とピラトの対話はギリシャ語で書かれていても、これは翻訳されたのではない二人の生の会話のそのままの記録ということになります。ここでもイエス様の肉声に触れることができるのです。
アラム語についてもう一言。本日の旧約の日課ダニエル7章もアラム語で書かれています。あれ、旧約聖書ってヘブライ語じゃないの、と思われるかもしれませんが、一部はアラム語で書かれています。ダニエル2章でバビロン王ネブカドネツァルが自分が見た夢の意味を賢者たちに説明させようとします。4節で「賢者たちは王にアラム語で答えた」とあり、そこまでヘブライ語だった文章はここでアラム語に転換します。ヘブライ語の知識しかない読者は文字は同じなのに全然理解できず面食らってしまいます。アラム語は7章の終わりまで続きます。本日の日課7章13節に出てくるあの有名な「人の子」もアラム語でבר אנשバル エナーシュと言います。これはもともとは単に人間を意味する言葉でした。それがダニエル書の預言で使われて以来、この世の終末の時に雲と共に現れて神から王権を与えられて神と共に裁きを行うという、終末の王という意味を持つようになります。イエス様がアラム語圏の世界で自分のことをバル エナ―シュであると呼び、将来自分は雲と共に再臨すると言った時、当時の人たちの驚きよう、特にユダヤ教社会の支配層の驚きはいかようだったか想像に難くありません。
ここでイエス様の言われる真理を見てみましょう。対話の終わりの方でイエス様は「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言います。「真理について証しする」という訳は少し頼りない訳です。「真理について証しする」と言うと、「真理がどういうものか公けにする」という意味になります。つまり、真理の内容を開示することです。イエス様の言いたいことはそれではありません。ギリシャ語の用法(dativus commodi)に忠実に訳すと「真理にとって利益となるように真理を公けにする」という意味です。つまり「真理がその通りであることを公けにする」ことです。イエス様の言いたいことは「私は真理がその通りであることを公けにするために生まれ、そのためにこの世に来た」です。真理の内容を開示するためでなく、真理がその通りであることを公けにするためです。イエス様が真理の内容は何も言わないで、真理がその通りであることを公けにするために来た、と言ったので、ピラトはじゃ真理とは何なのだ?と内容を聞き返したのです。それではイエス様の言われる真理とは何か?イエス様はどうやってそれがその通りだと公けにしたのでしょうか?これからそれを見ていきます。
対話の中でイエス様はとても革命的なことを言われます。「私の国はこの世に属していない」という言葉です。原文を正確に訳すと「私の国はこの世に起源を持たない、この世に由来しない」です。革命という言葉は、1990年代に冷戦が終わってからあまり耳にしなくなりましたが、ある国の体制、統治の仕方が急激に別の体制に取って代わる変わられることを言います。そこでの国は皆、この世に起源を持ちこの世に属する国です。ところがイエス様の言われる国はこの世に起源を持たない、この世に属さない神の国です。そんな国が関わってくると通常の革命と全く異なる次元の大変動が起こるのです。通常の革命を超えた超革命と言ってもいいでしょう。
どういうことかと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章で言われていることです。全ての被造物が激しく揺り動かされて取り除かれてしまう時が来る。その時、唯一揺り動かされないものとして神の国が現れるということです。まさに超革命の勝利者です。全ての被造物が揺り動かされて取り除かれるというのは、イザヤ書65章と66章で新しい天と地の創造について預言されています。その新しく創造される天と地の下に唯一の神の国が現れるのですが、その国に迎え入れられる者と迎え入れられない者の選別があることが先週の旧約の日課ダニエル書12章で言われていました。その選別は新約聖書では最後の審判としてイエス様や使徒たちがより明確に述べています。そう言うと、じゃ最後の審判というのは、その時点で生きている人たちが裁かれることでその前に死んでいれば関係ないのかと言われるかもしれません。しかし、先週のダニエル書12章では死者の復活の預言もありました。死者も審判にかけられるのです。そのことはキリスト教会の礼拝の信仰告白のところで私たちが唱える使徒信条やニケア信条の中で言われる通りです。再臨の主は生きている者と死んだ者とを裁かれるのです。
本日のダニエル7章で先ほど見た「人の子」が神から王権を与えられ、神と共に審判を行うことが言われています。王であり裁きの主でもあるこの方は言うまでもなく再臨の主イエス・キリストです。そこで審判にあたって巻物が開かれると言います。「巻物」ספר’ןシフリーンというのは、辞書を見るとbook本、書物です。当時は本は基本的に巻物ですから、そう言っても間違った訳ではありません。ただ、素直に「書物」と訳すると旧約聖書と新約聖書の繋がりがより良く見えてきます。新旧聖書を通して神の手元に書物があることが言われます。命の書とも言われます。それが最後の審判の時に開かれることが黙示録で言われます。ダニエル書7章10節の「巻物」も同じです。この書物に記されているのは名前だけではありません。この世に存在した全ての人間、国籍・文化・宗教を問わず全ての人間について全てのことが記されています。他人のことばかりでなく自分自身のことでも気がつかないこと見えないこと全てが記され、それが神の国へ迎え入れていい者かよくない者かの根拠になっているのです。私たちが間違っていないと思っていたことでも全てを見ていた神の目から見て間違っていたということもあるのです。相手は私たちの髪の毛の数すらわかっている私たち人間の造り主です。何も隠し立てはできません。
そうすると、自分は神の国に迎え入れられるのだろうかとすごく不安になります。そのような神の前に立たされた時、私は潔白ですと言えるだろうか?自信がなくなります。しかし、私たち人間を御国の御許に迎え入れてあげたいというのが、私たちの造り主である神の意思なのです。それだからひとり子のイエス様をこの世に贈ったのです。もし神が、神の意思に反する罪を持ってしまっている人間を片っ端から裁きたいだけだったら、ひとり子なんかわざわざ贈らなかったでしょう。逆に、もし罪を持っていてもそんなのどうでもいいよ、誰でも天国に入れてあげますよ、といういい加減な方だったら、そもそもひとり子を贈る理由なんかありません。神がイエス様を贈ったというのは、神が罪を罰せずにはおけない正義を体現する方であるということと、人間が神罰を受けないで御国に迎え入れられるようにしてあげようという愛をも体現する方であることを物語っているのです。神は愛と正義を両方兼ね備えた方なのです。 イエス様は自分のことをこの世に起源を持たない神の国の王であると言われました。それは彼が神と共に審判を行い、神の国に迎え入れらえる者に復活の体を着せて迎え入れてあげる方ということです。復活の体についてはパウロが第一コリントの15章で詳しく述べています。イエス様が復活の日に死者を復活させて懐かしい人と再会させてくれることは、ヨハネ11章のマルタとの対話の中で述べています。
新しい天地の下での神の国も、最後の審判も、復活も全て旧約聖書の中であちこちに断片的に知らされていました。しかし、旧約聖書自体を持たない異邦人のピラトには何のことか全くわからなかったでしょう。ところが旧約聖書を持っていた肝心のユダヤ民族もよくわかっていなかったのです。将来ダビデの家系から王が登場して神の力を受けて王国を建てるという預言が旧約聖書に見られますが、彼らにとってそれは、ローマ帝国の支配を打ち破ってかつての王国を復興させてくれるというような、この世に起源を持つこの世に属する国のことでした。それだから、ユダヤ教社会の指導層はイエス様のことでとても心配したのです。何が心配だったかというと、ローマ帝国に反乱の意図を疑われたら一巻の終わりだ、せっかく大きな神殿を持ててうまくやっているのに軍事介入など元も子もないと恐れたのです。それでイエス様を逮捕して総督のもとに引き出したのです。旧約聖書理解では民衆も指導者たちと同じ土俵に立っていました。彼らはイエス様に救国の英雄を期待しました。ところが彼が逮捕されて裁判にかけられると失望して背を向けてしまったのです。
このように当時の人たちは旧約聖書を持ってはいても、視点は自民族中心でとても全世界的・全人類的とは言えませんでした。彼らは、今あるこの世を超えて次に到来する世というところにまで目が届いていなかったのです。旧約聖書の預言はそこまで踏み込んでいたにもかかわらず。それに気がつかなかったのは、ユダヤ民族が辿った歴史を考えればやむを得なかったのかもしれません。
しかし、それだからこそ神はひとり子を贈って旧約聖書の正しい理解の仕方を教えさせたのでした。しかも、このひとり子は教え.ることだけに留まりませんでした。人間の歴史がこの神の計画の通りに進むようなことをしでかしたのです。もし、それをしなかったなら神の計画は実現しなかっただろうと言えるようなことをしでかしたのです。彼の十字架の死と死からの復活がそれです。
イエス様の十字架と復活の出来事の後、人々の目が見開かれて旧約聖書を事後的に正確に理解できるようになったことが福音書の中に記されています。エマオの道で二人の弟子と復活の主との出会いは一つの例です。イエス様が神の想像を絶する力で復活させられたことで、彼が神の贈られしひとり子であることがわかるようになりました。そのひとり子ともあろう方が十字架にかけられて苦しみながら死ななければならなかったのは、これは、人間の罪を全て自ら背負い人間に代わって神罰を受け、人間が受けないで済むようにする犠牲の業であることが明らかになりました。そのことも全て旧約聖書に預言されていたのです。神はひとり子を文字通り犠牲の生贄にして人間の罪の償いをさせたのです。神のひとり子の犠牲ですから、これ以上の犠牲はありません。まさに神聖な犠牲です。
こうしたことが起きた以上は、今度は人間の方が、このようなことが歴史上起こったと知らされて、それは今の世を生きる自分のためになされたんだとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様こそ真に自分の救い主だと信じて洗礼を受けます。そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人に覆いかぶさりその人は罪を償ってもらった人になります。罪を償ってもらったのだから、その人は神の目から見て罪を赦された者となります。罪を赦されたから神との強固な結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。神はさらにイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間に切り開かれました。神との結びつきを持ってこの世を生きる者はその道を歩みます。その結びつきは順境の時も逆境の時も全く変わらずにある結びつきです。それなので常に神の守りと導きの中で歩むことが出来ます。たとえこの世から去ることになっても、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に永遠に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちの再会が待っているところです。
イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることで、人間が神の国へ迎え入れられるようになるための道を用意して下さったのです。まさに十字架と復活の業が起こったことで、今の天と地に取って代わって新しい天と地が再創造されることや、そこに神の国が現れることや、最後の審判や死からの復活、神の国への迎え入れが起きるのです。これらのことがその通り起こるということが公けになったのです。イエス様を救い主と信じる者は、この真理の下に服してこの世を生き復活への道を進んでいます。しかし、世界にはこの真理に服さない人たちも沢山います。創造主の神の願いは、全ての人が今のこの世と次に到来する世の二つの世を生きる命を持てるようになることです。これ以上の救いはありません。だからイエス様の十字架と復活を宣べ伝え続けることは時代や国境を越えて普遍的に大事なのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン