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主日礼拝説教 2021年12月5日待降節第二主日 マラキ3章1-3節、フィリピ1章3-11節、ルカ3章1-6節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
先週の主日にキリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。本日は教会新年の二回目の主日です。クリスマスまでの4つの主日を含む期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間です。この期間、私たちの心は2千年以上前の昔に今のイスラエルの地で実際に起こった救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主をお贈り下さった天地創造の神に感謝と賛美を捧げ、人間の姿かたちを取って降臨した救い主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスを迎えお祝いします。
待降節は一見すると過去の出来事に結びついた行事に見えます。しかし、先週も申し上げましたように、私たちキリスト信仰者はそこに未来に結びつく意味があることを忘れてはなりません。というのは、イエス様は御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。実に私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。そのため待降節の期間は主の第一回目の降臨に心を向けつつも、第二回目の再臨にも思いを馳せる期間です。待降節やクリスマスを過ごして、ああ今年も終わった、また来年、と言って済ませてしまうのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心があるか確認して一年間それを維持してまた確認するという具合に再臨に向けて気を緩めず備えなければなりません。
とは言っても、主の再臨の日というのは、この世の終わりの日、今ある天と地に替わって新しい天と地が再創造される日、さらには最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつなのかは父なるみ神以外は誰も知らない、とイエス様は言われます。それゆえ、その日がいつ来ても大丈夫なように、不意をつかれないようにいつも「目を覚まして」いなければならないと教えられたのです。
先週の礼拝説教でこの、主の再臨に向けて目を覚ましているというのはどういうことか、お話ししました。それは、この世の終わりはいつなのか、最後の審判はいつなのか、などと心配して怯えて生きることではないと。それは、この世で生きる自分には創造主の神の意思に反する罪が宿っている、それを自覚して神から罪の赦しを繰り返し頂くこと、それが主の再臨に向けて目を覚ますことであると申しました。また、罪の自覚と赦しの頂きを繰り返していくと、人間関係において自分をヘリ下させたり、正しいことのために損をする役割を引き受けたりすることがいろいろ出てくるが、そうすることも目を覚ますことであると申しました。そういう生き方になればなるほど最後の審判は有罪判決を受ける場ではなくなって無罪判決を受けて神の国に迎え入れられる場になる、だからそういう生き方をする人はヘリ下ることや損をすることを別に何とも思いません。
このように最後の審判をクリアーできることが視野に入ってくるので、罪の自覚と赦しを繰り返し頂く人生、損を顧みないお人好し人生、そうした人生はイエス様の再臨を待ち望む心がある人生です。再臨を待ち望むから再臨に向けて目を覚ましているのです。主の再臨さん、どうぞいつでも来て下さい、そういう気持ちで今は手元にある課題や果たすべきことを果たしていくのです。そう言うと、この世が終わると言う時に課題なんかやってられるか、と言う人もいるでしょう。しかし、宗教改革のルターは次のように言っていました。この言葉はルター本人が言ったかどうか異論がありますが、ルターなら間違いなく言いそうだという言葉です。ある人が「ルター先生、明日世界が滅亡するとわかったら、今日何をしますか?」と聞きました。ルターの答えはこうでした。「そうであっても、私は今日リンゴの木を植えて育て始める。」
明日世界が滅亡するのに今日リンゴの木を植えて育て始めるなんてどうかしていると思われるでしょう。今日植えたリンゴが明日までに実を結べる筈はなく、普通に考えたら全くナンセンスです。ルターはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?
それはキリスト信仰の終末論のためです。ただし、終末論と言っても、この世が終わって本当に何もなくなってしまう消滅論ではありません。この世が終わっても次に新しい天と地が創造されて、死から復活させられた者が新しい世の構成員になるという、本当は新創造論なのです。終末もありますが、その後も続きがあるのです。まさに再創造あっての終末論なのです。永遠の続きがあることを見据えた終末論です。それなので、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえこの世で果たせず未完で終わってしまっても、次に到来する世で創造主の神が完結したものを見せてくれるので、この世で途中で終わっても無意味とか無駄だったということは何もないのです。例えば、この世で悪と不正に対して戦うことが大事なのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫できるからです。また、この世で障がい者が出来るだけ普通の社会生活を送れるように支援することが大事なのは、新しい世で天使のようになったその人と出会えるからです。イエス様は復活した者はみな天使のようになるのだと言っていました。ルターの明日この世がおわるという時にリンゴの木を植えるの大事なのは、新しい世で実を豊かに実らせているその木に出会えるからです。今日リンゴの木を植えるというのは、今日悪と不正に対して戦うこと、今日障がい者を支援することと同じです。新しい世で実を豊かに実らせる木に出会えるというのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫すること、新しい世で天使のようなその人と出会うことと同じです。
以上から、イエス様の再臨を待ち望むキリスト信仰者は、この世に終わりがあることを意識しているにもかかわらず、この世で果たすべきことをちゃんと果たすことが出来ることが明らかになったと思います。意識しているにもかかわらず、と言うよりは、まさに意識しているから果たすことが出来ると言ってもいいでしょう。
前置きが長くなってしまいました。今日は福音書の日課を中心に説き明かしをしていきます。本日の箇所は洗礼者ヨハネが活動を開始する場面です。ヨハネはエルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこに留まりました。その日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、罪の悔い改めの洗礼を受けなさいと宣べ伝え始めました。
ここでヨハネの洗礼は復活されたイエス様が命じた洗礼とは異なることについて述べておきます。イエス様の洗礼は、受けると神から罪の赦された者として見てもらえるようになるという洗礼です。ヨハネの洗礼はまだそこまで行かず、神さま、私には罪があります。赦して下さい、と告白することで神に背を向けていた生き方をやめてこれからは神の方を向いて生きますという印です。罪の赦しを実際に与えるのはイエス様の洗礼です。
大勢の人々がヨハネの洗礼を受けようと集まってきました。ルカは、旧約聖書イザヤ書40章に預言されていたことはこのことだったとわかって、それを引用して書き出しました。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
洗礼者ヨハネの活動は、イエス様の到来に備えて人々に罪の自覚を呼び覚まして罪の赦しを願い求める心を起こすことでした。そのような心を起こすことで人々がイエス様を受け入れるように準備することでした。
ところがイザヤ書の引用を見ると、心を準備するということは見えてきません。見えてくるのは、谷を埋めて山を低くし、曲がった道をまっすぐに、でこぼこの道は平らに、と言っていて、あたかもイエス様が歩きやすい道を整備しなさいと言っているようにみえます。人々の心の準備を整えるのではなく、イエス様が活動しやすい環境を整えよと言っているようにみえます。
ところが、このイザヤ書の個所は目を見開いて見るとやはり心の準備のことを言っていることがわかります。まず、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っていますが、これは、~せよ、と命令形です。その次に「谷は全て埋められ、山と丘はみな低くされる」と言っていますが、ここからは全部未来形で将来に起こることを言っています。つまり、道筋を真っ直ぐにせよ、そうすれば、谷は埋められ、山は低くされ、人は皆、神の救いを見ることになるだろう、と命令したことをすれば、そういうことが起こるだろうと言っているのです。
そこで命令した後に起こることを見ていくと、「山と丘は低くされる」と言います。「低くされる」のギリシャ語原文の動詞(ταπεινοω)は「ヘリ下させる」という意味があります。つまり、山や丘というのは高ぶった人や心を意味し、それをヘリ下させるということです。人の心を暗に言っていることがわかります。「谷は全て埋められる」というのは、人の心のことを言っているのか見えてきません。ところが、イザヤ書40章4節のヘブライ語原文を見ると、ここのところは「埋める」という動詞は使われておらず、「高くする」という動詞(נשא)です。ヘブライ語では「谷底を高くする」という言い方で、低くされた者を高く上げてあげること、谷底に落ちたような状態にある人を引き上げてあげること、ヘリ下った心の持ち主を高く上げることを意味します。まさに人の心について言っているのです。イエス様が、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされると言っている旧約聖書の背景がここにあります。
次に「曲がった道はまっすぐに」とありますが、ルカ福音書のギリシャ語原文、イザヤ書のヘブライ語原文を見ても「道」という言葉はありません。一般的に「曲がった」ことを言っています。それで道と解する必要はありません。「曲がった」というのはギリシャ語の単語をみてもヘブライ語の単語を見ても(σκολιος、עקב)、ずるい、悪賢い、陰険という意味があり、まさに心が曲がった状態を意味します。それが「まっすぐになる」というのは、単語の意味を調べると(מישור)、真っ直ぐな、公正な、正しい、義に満ちたという意味があるので、ここは正しい心、真っ直ぐな心のことを言っています。このように、主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ、と命令して、その後に、そうすれば高ぶった心は低くされ、低められた心は引き上げてもらえ、曲がった心は真っ直ぐになって、神の救いを見ることになるのだ、という流れです。一見、平らで歩きやすい道について言っているようですが、実は心のことを言っていて、心が神の救いを見るのに相応しくなかったが相応しいものに変わることを言っているのです。このように聖書は原文に遡ってみるといろんな発見があります。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」というのは、神や神が贈る救い主が遠方から私たちのところにやってくる、だから、私たちのところに来やすいように道が曲がりくねっていればそれを真っ直ぐにして、道の上の障害物を取り除きなさいということです。バリアフリーにしなさいということです。
私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物は何でしょうか?それを私たちはどうやったら取り除くことができるでしょうか?「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。神はなぜ離れたところにいるのか?実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在でした。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言った言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。これが原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、神聖な神との結びつきが失われてしまいました。その結果、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で、罪が払う報酬は死である、と言っている通りです(6章23節)。人間は代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。このように、神が人間から離れていったのではなく、人間が自分で離別を生み出してしまったのです。
これに対して神はどうしたでしょうか?身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世から別れた後は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう考えて人間を救う計画を立てました。そして、それを実行に移すためにひとり子をこの世に贈られたのです。
神は人間の救いのためにイエス様を用いて次のことを行いました。人間は自分の力で罪を自分から除去することができません。出来ない以上、人間は罪にまみれ罪の力に服したままで、それでは神との結びつきを失ったままこの世を生きることになります。この世から別れた後はもう永遠に自分の造り主のもとに戻れなくなります。そこで神は、人間の罪を全部イエス様に背負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を人間に代わって受けさせて死なせました。イエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開かれました。
このようにして遠いところにおられる神は、ひとり子イエス様を人間のいる地上に贈ることで、そしてその彼を通して私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを回復してこの世を生き抜いて、この世から別れた後も復活の日に目覚めさせて永遠の命を持って神の御許に永遠に迎え入れられるようにするためでした。
それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?
それは私たちが、このような神の近づきは人種、民族に関係なく全ての人間に向けて行われたもので、だから、この自分に対しても行われたのだとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様を自分の真の救い主と信じて洗礼を受けることで神の近づきを受け入れることができます。まさに洗礼の時、心の中にある主の道は真っ直ぐにされて聖霊が入ったのです。洗礼を受けることでイエス様が果たしてくれた罪の償いが自分にその通りになって、それで自分は罪を償ってもらった者になります。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見なしてもらえます。神から罪を赦された者として見なしてもらえるというのは、もう罪の側について生きるのではなく、神の側について生きるということです。
神の側について生きるということについて。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したということではありません。神の意思に反しようとする罪はまだ内に残っています。たとえ行為に出さないで済んでも、心の中に現れてきます。そのような自分を神聖な神は本当に罪を赦された者として見ていてくれるのか、不安になることが沢山出てきます。しかし、キリスト信仰者というのは、自分の内にある罪に気づいたとき、見て見ぬふりをしたりせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈り求めます。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。キリスト信仰者は実にこうしたことを何度も何度も繰り返しながら復活と永遠の命が待っている神の国に向かう道を進んでいくのです。
このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。また罪の自覚と赦しを繰り返していくと、高ぶった心は低くされ、谷底に落とされた状態からは引き上げられて、曲がった心は真っ直ぐにしてもらえます。このようにイエス様の十字架の死と死からの復活により頼んで生きてきた者は最後の審判の時、「お前は神の側について生きてきた」と裁き主から認められます。まさに神の救いを見ることになるのです。
最後に、本日のルカの記述から聖書の神は人間の歴史そのものと歴史のただ中で生きる人間に働きかける神であることについて述べておきます。ルカは洗礼者ヨハネが活動を開始した時を「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」であったと記しています。
ここから明らかなようにルカは、天地創造の神というのは人間の歴史にも働きかける神であるという旧約の信仰を受け継いでいます。旧約聖書を繙くと、誰々王の治世何年に神の言葉が誰々に降った、という言い方が沢山出てきます。神は天地創造を行った後は天の御国に引きこもって、あとは堕罪に陥った人間が勝手にしていればよいなどと御国で隠居生活を送っていたのではありませんでした。神は堕罪に陥った人間が再び自分のもとに戻れるようにしようと決意し、そのために時と場所と民族を選び、あとは人間の歴史の流れと共に歩み、絶えず自分の意思や御心を人間に発信し続けました。そしてその時が来た時、すると決めていたことを実行に移したのです。人間を罪と死に支配された状態から救い出すためにひとり子を犠牲に供することに踏み切ったのです。このような計り知れない知恵と力と愛を持つ神は、とこしえにほめたたえられますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン