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2022年1月2日(日)降誕節第二主日 主日礼拝
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストを指すと知っているでしょう。ただ、よく見ると、この「ことば」は漢字では「言」と書かれています。普通の「言葉」ではありません。普通の言葉ではない特別な言葉だから、違う言い方をしているのです。それでは、この「ことば」は普通の言葉ではない、「言」であるとすると、それはどんな「ことば」なのでしょうか?これはもう、日本語をこねくり回しても解決出来ない問題です。ギリシャ語の原文に立ち返って、その言語の世界の視点から事柄を眺めてわかるようにして、そして日本語の世界に戻ってわかりやすい言葉に直すしかないです。この言はギリシャ語でロゴスと言います。
ところで、日本語の世界から飛び出すと私たち日本人に関係ないことになってしまう、と思う人がいるかもしれません。特に今は新年で大多数の日本人は神社仏閣に参拝に行く時です。新年早々日本的でないことに手を染めてしまうと怪訝な顔をする人も出てくるかもしれません。しかし、これを見ていくと、事は日本とかギリシャとかを超えたこと、日本とかギリシャとかを全部含めてそれらを超えたことに関わっているとわかってきます。どうしてそうなるかと言うと、聖書の神の意思というのは民族を超えた普遍的なもので、それを神は人間に知らせる時にある特定の地域の人たちにその人たちが生きた時代の中で知らせたからです。それがたまたまギリシャ語の世界だったからギリシャ語云々という話になるのです。事をもっと広く見ると、天地創造の神は旧約聖書が形成される時代はずっとヘブライ語やアラム語を用いる人たちを通して自分の意思を伝えました。その人たちが住み生活する地域がギリシャ語の文明圏に組み込まれると、今度はギリシャ語を通して伝えるようになったのです。
本日の福音書の日課ヨハネ1章1~18節を見ると、イエス様のことを言い表わす言葉として言ロゴスの他に光フォースも出てきます。この二つは何度も出てきます。ロゴスは4回、フォースは6回。さらに、それらを指す代名詞が何回も出てきたり、主語を省いた動詞だけというのもあるので、ここはロゴスとフォースのオンパレードです。イエス様はロゴス言、フォース光であるというのです。私たちは、日本語で言葉、光と聞いてそれらの意味はわかります。しかし、ここの「言葉」は特別な言葉、言です。「光」も後で見るように特別な光です。じゃ、どんな言葉なのか?光なのか?もう日本語では太刀打ちできないので、ここから神が御自分の意思を伝えたギリシャ語の世界に入っていきます。それから日本語の世界に戻ります。
ヨハネ福音書の記者ヨハネはイエス様のことをロゴスと呼びました。彼はなぜそう呼んだのでしょうか?ヨハネは、あの十字架にかけられて死なれるも3日後に復活された方、その後1カ月少し自分ら弟子たちと共におられそして天の父なるみ神のもとに戻られた方、あのイエス様のことをどう表現したらいいだろうか?彼は福音書を書く時に考えました。あるいは既に考えついていたのかもしれません。ヨハネは旧約聖書を守るユダヤ民族の一員です。旧約聖書の預言を思い出し、イエス様と共にいた日々を思い出して出た結論が、イエス様とはロゴスなのだということでした。どうしてそういう結論に至ったのでしょうか?
ヨハネはイエス様の復活を目撃しました。それでイエス様は本当に神のひとり子で、今は再臨する日まで天の父なるみ神のもとにいながらも聖霊を介して私たちの身近におられるとわかっています。そして、彼が父なるみ神のもとにいるというのは、復活して初めているようになったのではなく、もともとは神のもとにおられたのだが神が前もって定めたように乙女の受胎を通して人間の姿かたちを取ってこの世に生まれ出てきた、そういうもともとは神のもとにおられた方なのだ。人間として生まれてきた時にイエスという名前をつけられたが、それ以前の父の御許におられた時の有り様はどんなだったか?イエスという名前をつけられる前の神のひとり子をどう呼んだらいいか?それを考えた結果、ヨハネはロゴスと呼ぶことにしたのです。それで14節で次のように言ったのです。「ロゴスは肉となって、私たちの間に住んだ。」
それではなぜ神のひとり子をロゴスと呼ぶことにしたのでしょうか?ギリシャ語のロゴスという言葉はとても広い意味があります。まず、紙に書き記して文字になる「言葉」や(昨今ではキーボードをたたくのが主流ですが)、口で話して音になる「言葉」を意味します。これは私たちが日本語で「言葉」と言っているのと同じです。この他にも、何か内容のある「話」や「スピーチ」を意味します。また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったらこういうふうに別々の言葉で言い表す事柄も全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語文化圏のある哲学の考え方として、世界の事象の全て森羅万象を何か背後で司っている力というか、頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた考え方もありました。日本語では「世界理性」とでも訳されるでしょうか。
このような森羅万象を背後で司るロゴスというのは、古代ギリシャの哲学の話です。それは、もともとはユダヤ教やキリスト教とは何のゆかりも縁もない、人間の頭で考えて生み出された概念です。聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を明らかにしたり伝えたりして人間はそれを受け取るという立場です。つまり、大元にあるのはあくまで神である、という立場です。哲学では人間の頭が大元ということになります。
こうして見るとヨハネは、神のひとり子イエス様というのは森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたようにみえてきます。しかし、ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をそのままイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、あくまで旧約聖書の伝統とイエス様が教え行ったことに立ってイエス様を捉えようとするが、このとてつもないお方を今自分が伝えようとしているギリシャ語世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。
では、旧約聖書のどんな伝統がイエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたのか?それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持つものとして登場します。まさに天地創造以前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の際にも父と同席していたと言われています。しかしながら、神のひとり子の役割は同席だけではありませんでした。ヨハネ福音書の1章3節をみると「万物はロゴスによって成った。成ったものでロゴスによらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に天地創造の大事業を担ったのです。どうやって担ったでしょうか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように神が発する言葉も天地創造になくてはならないアクターだったと気づけば、ひとり子をロゴス言葉と呼ぶことで彼も創造の役割を担ったことを言い表せます。 このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であると言っていたのです。ルカ福音書11章49節、マタイ11章19節にあります。
それならヨハネはなぜイエス様を「知恵」と呼ばなかったのか、という疑問が起きるでしょう。それは、アラム語というヘブライ語に近い言語の使い手であるヨハネがギリシャ語世界の人たちにどう言ったらイエス様のことを正確に伝えられるかを考えた結果です。知恵はヘブライ語でחכמהと言います。ギリシャ語でソフィアと言います。この、天地創造の時に既に父なるみ神のもとにいてその「言葉」として創造の業を担ったという途方もない方をギリシャ語の「知恵」と言ったら言い尽くせない、やはりあの方はロゴスでいいのだ、ということになったのです。
この世に生まれ出てイエスと呼ばれた方は実は天地創造の時に父なるみ神と共におられ、父と共に創造を行っていたというのは想像を絶することです。イエス様とは本来はそういう方だったとわかると、「はじめに言ロゴスありき」の「はじめ」というのはいつのことかもわかります。多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるでしょう。実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしの「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。このように時間をずっとずっと遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに言ロゴスとヨハネが呼ぶ神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。
ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう途方もない方であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。
この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」の名前で呼ばれるようになるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に送られてきてからです。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地創造が成って時間が始まった後もまだしばらくは父のもとにおられました。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に贈られてきました。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。
ヨハネはイエス様のことを光フォースとも呼びます。それがどんな光なのかを見てみましょう。4節を見ると「ロゴスには命があった」と言われています。「命」とは、ヨハネ福音書では死で終わってしまう限りある命のことではなく死を超える永遠の命を意味します。ロゴスは死を超える永遠の命を内包していた。これに続いて次のことが言われます。「ロゴスが内包する永遠の命は全ての人間の光であった、その光は闇の中に輝く光である。」新共同訳では「人間を照らす光」と言っていますが、少し注意が必要です。原文では「人間を照らす」とは言っておらず、ただ「人間の光」、人間は複数形なので全ての人間の光です。どうして「人間を照らす光」と言ってはいけないのか?闇の中に輝いているから暗い夜の証明のように照らすと言ってもいいではないか、と思われるかもしれません。しかし、ここは注意して見ていく必要があります。この光は単なる照明器具のような光ではありません。
同じことが9節でも言えます。新共同訳では「世に来て全ての人を照らす」と言っています。しかし、ここの動詞φωτιζωの正確な意味は「人を照らす」ではなく、「人間に輝きを与える」、「人間を輝かせる」です。それで4節の「全ての人間の光」とは「人間に輝きを与える光」、「人間を輝かせる光」です。10節から12節を見ると人間は、ロゴスであり光である方を受け入れる人と受け入れない人に別れてしまうことが言われています。受け入れる人は神の子になれると言っています。
それでは、人間を輝かせる光とはどんな光でしょうか?人間をどう輝かせるのでしょうか?それをこれから見てみましょう。それがわかるために、ここで言われている光と闇は普通言われる光と闇と違うものであることをわからないといけません。今あちこちで見られるイルミネーションを思い浮かべてみましょう。大体クリスマスの頃が一番多く見られますが、まだやっているところもあります。どれも冬の闇夜を照らし出して美しく華やかです。闇と光のコントラストを浮き上がらせ、私たちは闇の方は忘れて光の方に目を奪われます。闇というものを私たちは怖いもの危ないものと思います。光がない状態で暗闇の中を歩いたら何かにぶつかって転んでしまいます。また周囲に何か潜んでいるのではと思うと怖いです。しかし、この闇というものは、人を怖がらせたり危険に陥れようという目的も意図も持っていません。転ぶのは人間が懐中電灯を持たなかったり、照明のない所を歩いたという不用意不用心によるものです。闇はただ光がないという物理的な現象にしかすぎません。同じように光も人間を助けてあげようとか安心させてあげようという目的も意図も持っていません。人間がそれを利用して安全と安心を確保しようとするのです。イルミネーションも同じです。それを考案して飾り付ける人がこうしたらみんなが感動するだろう注目するだろうと考えて飾ります。イルミネーションの光自体はそのような目的も意図も持っていません。人間が自分の目的のために利用しただけです。
ところが、ヨハネ福音書の1章で言われる闇と光は違います。それ自体が目的と意図を持っています。闇の目的は、人間から造り主である神との結びつきをなくそうとすることです。闇がその目的を果たした出来事が創世記の3章に記されています。最初の人間が悪魔に巧みに誘導されて造り主である神に対して不従順になって神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。それで人間は神との結びつきを失い死する存在となってしまったのです。しかし神は、人間が神との結びつきを回復して、それを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に御許に迎え入れられる道を開きました。その道を、御自分のひとり子をこの世に贈って、彼に十字架と復活の業を果たさせることで道を開いて下さったのです。闇の力を上回る光が闇の中にいる人間に与えられたのです。人間がその光を受け取って持つことが出来るようになったのです。
ここで5節をみると「暗闇は光を理解しなかった」とあります。ここの訳は各国の訳で別れます。これはギリシャ語の動詞カタランバノーがいろいろな意味を持つからです。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書ですと、「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)は日本語と同じ「暗闇は光を理解しなかった」です。どっちが良いのでしょうか?もちろん、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。しかし、十字架にかけられて全ての人間の罪の罰を一身に請け負ったイエス様は、全ての人間の罪の償いを神に対して果たして下さいました。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、悪魔は私たちをもはや罪の罰に繋ぎとめることは出来なくなりました。もし十字架の出来事がなかったら人間はそれに繋ぎとめられるしかないのです。しかも父なるみ神が一度死なれたイエス様を復活させたおかげで、死を超える永遠の命の扉が開かれました。こうしてイエス様のおかげで罪の償いを受けて赦された者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。
悪魔は罪を活用して人間を永遠の命から切り離そうと企てます。しかし、それはイエス様の十字架と復活の業で完全に破たんしてしまいました。なぜなら、闇は死に至らせる力に過ぎないのに対して、イエス様の光は死を超えた永遠の命に至らせる力だからです。それなので5節の訳はやはり暗闇は光を支配下に置けなかったというのがピッタリではないかと思います。
そういうわけで、イエス様の光、ロゴスの光は、人間が永遠の命を持てるようにするという意図と目的を持つ光で、人間が受け取ることができる光です。受け取っても目の前が真っ暗になってしまう時もあります。受け取ったはずの光が見えなくなってしまうのです。しかし、それは私たちが勝手に見えなくなっているだけで、大元の光は相も変わらず輝いています。それは闇が支配下に置けない光だからです。どうしたらそれを私たちはまた見ることが出来るでしょうか?そういう時は、どこでイエス様に出会え、その声を聞くことが出来るかを思い出します。聖書のみ言葉をひも解くところでです。礼拝の説教を通してです。聖餐式に与る時です。罪の自覚から逃げず勇気を持って罪の赦しの宣言を受け入れる時です。そのようにしていつも洗礼の地点に立ち返ります。こうすることで一旦は閉じた私たちの目はまた開きます。
このようにロゴスの光は神との結びつきを回復させるだけではなく、回復した結びつきが失われないようにし一層強める目的も持っています。このような光を私たちは与えられているのです。どうかこの新しい年も私たちがこのロゴスの光を持って歩むことができますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン