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主日礼拝説教 2022年5月22日復活後第六主日 スオミ教会
使徒言行録16章9-15節
黙示録21章10、22節-22章5節
ヨハネ14章23-29節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.イエス様が約束されたのは平和か、平安か?
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束します。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されます。今私たちはウクライナに平和が戻るように願い毎日祈っています。ところで、国と国が戦争しなければ国民は平和に安心して暮らせるかというとそうでもありません。例えば国が複数の民族から構成されていて、民族間で紛争が起きれば、それはもう国同士の戦争と同じになってしまいます。また、そういう集団同士の紛争がなくても、国の経済が破綻するとか、国家権力が国民の権利や自由を制限したり締め付けたりしたら、もう平和に安心して暮らすことは出来ません。
イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は実は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読む人、礼拝の説教を通して聞く人全員に向けられています。イエス様は私たちが国内外の紛争や社会の動揺を免れて安心して暮らせると約束しているのでしょうか?残念ながら人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数にありました。キリスト信仰者といえどもいつもそうしたものに巻き込まれてきました。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?
そうではありません。イエス様が約束された「平和」にはもっと深い意味があり、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことがわかるために、この御言葉のルターの説き明かしを見てましょう。以下の通りです。
「ヨハネ14章27節で主が与えると約束した平和、これこそが真の平和である。それは、不幸がないので心が落ち着いているという平和ではない。それは、不幸の真っ只中にあっても心を落ち着かせる平和である。外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いていても心を落ち着かせる平和である。
それなので、『この世が与える平和』と『主が与える平和』には大きな違いがある。この世が与える平和とは、外面的な揺れ動きを引き起した害悪がなくなるという平和である。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶってもあるという平和である。そもそも、我々がいつもこうした害悪に取り囲まれているというのは逃れられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましや平安がある。これこそが主が約束した平和である。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心は外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸の時の方が不幸でない時よりも心の中で勇気と喜びが強まるのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)なのである。
人間の理性が把握できるのは「この世が与える平和」である。理性はその性質上、不幸や害悪があるところに平和があるということは到底理解できない。理性は不幸や害悪がある限り平和はありえないと考える。そのためそのような状態に陥った時、理性は心を落ち着かせる術を知らない。ところで主は、なんらかの理由で我々を不幸や害悪の中に置くということがある。しかし、決して忘れてならないことは、主は我々を必ず強めて下さるということだ。主は、良心の咎に苛まれた我々の心を晴れ晴れした心に変えて下さる。それで、我々の臆病な心は恐れない心に変えられるのだ。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世が怯える不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず揺るがない安心を持っていられるのである。」
以上がルターの教えでした。外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中に置かれても内面的には平和があるというのです。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、ギリシャ語のエイレーネーειρηνηという言葉が外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含んでいることによると思います。参考までに聖書の英語訳、フィンランド語訳、ドイツ語訳を見てみますと、エイレーネーを同じ言葉(peace, rauha, Frieden)と訳しています。それらの言葉もギリシャ語のように外面的なものと内面的なもの両方を含んでいるので、それらを用いても大丈夫なのです。興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束しているものはまさに内面的な平安(frid)です。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は日本語で「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と訳されていますが、スウェーデン語の訳はみんな「平和」(fred)でなく内面的な「平安」(frid)を用いています。
日本語もスウェーデン語と同じように「平和」と「平安」と分けてあるのに全部「平和」で訳しています。ヨハネ14章27節を「平和」と訳したら内面的な「平安」が見えなくなってしまわないか?この問題の解決は説教の終わりでお教えします。
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2.神との平和
ルターの教えから、イエス様が与えると約束した内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪の中に置かれても、内面的には勇気と喜びが失われず、むしろ増し加わり、それで揺るがない安心を持つことが出来ることだとわかりました。それでは、どうしたらそのような平安を持てるようになるのでしょうか?そんな平安を持てたら怖いものは何もなくなりそうです。誰もがも持ちたいと思うでしょう。
どうしたらそんな平安を持てるようになれるのか?答えは難しくありません。イエス様が与えるよと言っているものを、ありがとうございますと言って素直に受け取ればいいのです。なんだ、とあっけに取られてしまうかもしれませんが、実際そうなのです。そうすると今度は、イエス様が与えると言っている平安とは何か、それはどこにあるのか、それがわからないと受け取ろうにも受け取ることが出来ません。それで次に見ていきましょう。
イエス様が弟子たちに平安の約束をしたのは十字架にかけられる前日、最後の晩餐の時でした。この後に受難の出来事が起こり、十字架の死があって死からの復活がありました。イエス様が神の力によって死から復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間の罪に対する神の罰を一身に受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのだとわかったのです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。
このようにして神から罪の赦しを頂けると今度は、かつて最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった神と人間との結びつきが回復します。神との結びつきが回復すると今度は、復活の主が切り開いて下さった道、死を超える永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになります。神との結びつきをもって永遠の命に至る道を進むとどうなるか?それは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと良い導きを与えて下さるということです。そして、この世から去った後も、復活の日に目覚めさせられて永遠に神の御許に迎え入れてくれるということです。
このようにイエス様の十字架の死と死からの復活というのは、神がひとり子を用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、神の救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の時に人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込んだために結びつきは失われてしまいました。その失われたものが罪が赦されることで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を焼き尽くさずにはおられない神聖な方です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになります。実に神と人間の間の平和は、神自身がひとり子を犠牲に供することで打ち立てられたのでした。
人間は神のこの救いの業がわかった時、ああ、イエス様は本当に神のひとり子、メシア救世主だったんだ、彼が十字架にかけられたのは同時代の人たちのためだけでなく後世を生きる人間全てを救おうとして行ったことだったんだ、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂けて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。
3.心の平安
しかしながら、私たちが肉を纏って生きているこの世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。私たちを罪の赦しから遠ざけて、再び罪が支配するところに引き戻そうとする力に満ちています。例えば、私たちが苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか?神は自分を見捨てたのではないか?私のことを助けたいなどと思ってはいないのではないか?と疑うことが起きてきます。この時、一体自分には何の落ち度があったというのか、と神に対して非難がましくなります。また逆に、自分には落度があった、だから神は見捨てたんだと意気消沈することもあります。どちらにしても、神に対して背を向けて生きることになってしまいます。
そこで、自分には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのかと非難がましくなることについて見てみましょう。このことは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにみられます。神の御心に適う正しい良い人間でいたのにありとあらゆる悪い事が起きたら、正しい良い人間でいたことに何の意味があるのか?そういう疑問を持ったヨブに対して神は最後のところで問い始めます。お前は天地創造の時にどこにいたのか?(38章)一見、何の関係があるのかと言い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のことでした。自分は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは自分の手で造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、私の意思がお前たち人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それなので、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。
神の目がしっかり注がれていることを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて死んだ者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなこと出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はもうだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかけられ、復活させられたことを思い出しましょう。イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪は忘れてやる、過去のことは不問にすると言って下さるのです。
ここで忘れてはならないのは、神は全ての人間に目を注いでその境遇をわかってはいるがそれで終わりというようなただの傍観者ではないということです。神は、人間が自分との結びつきを回復してかの日には復活を遂げて永遠に神の御許に迎え入れられるようにと、それでひとり子をこの世に贈って犠牲に供することをしたのです。それで神は、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がどんな境遇に置かれてもこの道をしっかり歩めるようにとあらゆる支援を惜しまない方です。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのは、神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も神に祈ることも全部、私たちを力づけてくれる神の立派な支援です。
このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度ではありません。大事なことは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、この二つのおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。
次に、この世の力が私たちに落ち度があると思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないんだと思わせて、神から離れさせる場合を見てみます。これについても私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限りは、神は私たちのことを目に適う者と見て下さるというのが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望に転化しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われています(14章26節)。
私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは罪の赦しを神に祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。
以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、私たちの内で微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるものが現れても、その度、聖霊が出動して、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかということを思い起こさせて下さいます。その思い起こさせに自分を委ねてしまい、思い起こせばそれでよいのです。その時、心は安心と喜びを取り戻して神の御心に沿うように生きようと勇気も湧いてくるでしょう。
まさにこの時キリスト信仰者は、自分の内に大きな平安があることに気づきます。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。これでヨハネ14章27節のイエス様が約束されたのは「平和」なのか「平安」なのかという問いの答えが得られます。両方です!イエス様が私たちの救いのために十字架と復活の業を成し遂げて下さったおかげで私たちと神との間に平和がもたらされました。この平和を持てると今度は、外面的な揺れ動きにも動じない本当の心の平安がついてきます。イエス様は両方を与えると約束し、それは果たされているのです!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
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