2022年7月3日(日)聖霊降臨後第4主日 主日礼拝

礼拝説教

ルカによる福音書10章1〜16

「主の恵みのうちに与えられ遣わされる幸い」

2022:スオミ教会主日

説教者:田口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「すべてのひとのために」

 今日の福音書の言葉は、イエス様が宣教に「遣わす」ということについて語られています。実は9章の初めでも、イエス様は12人の弟子達を集めて、イエス様の御名による権威を授けて遣わしたということが書かれていました。その所と同じように、この10章の始めでも、イエス様が人々を遣わすところから始まっています。しかし今度は12人の弟子達ではありません。1節にありますように、別に72人。弟子達とは別に72人を選んで遣わすのです。これはルカのみに書かれています。このようにこの時、既に、12人の他にもイエス様は名も知られていない多くの人々を遣わしていたことがわかります。この72人という数は、このイスラエルの周辺を取り囲むようにある異邦人の国や民族の数を象徴しているともよく言われます。

 注目したいのは、1節「ご自分が行くつもり」だったという言葉です。先週の9章51節にあるように、イエス様はこのとき、エルサレムにまっすぐ向かって進んでいたとありました。ですから、人となられたイエス様は、すでに真っ直ぐと目を向けてエルサレムへ事実、向かってはいるのですが、この十字架までの3年間のその短い期間で、周りの取り囲むような全ての国々や民族のところ全てへ行きたかったが、行くことができなかったことがわかってきます。けれども、この72人の派遣と「ご自分が行くつもり」だったという言葉には、イエス様がこのエルサレムへ向かう本当の目的と思いつまり、イエス様の最大の目的である、「すべての人の罪の赦しのために十字架で死んでよみがえる」とうことそのものが、この派遣と言葉に表れていることがわかりますつまりこのところは、だからこそイエス様は、誰一人例外なく、全世界のためにこられ、全世界の人々のためにエルサレムに向かっている。そして、全世界の人々のために十字架にかかって死なれるという福音に結びつくでしょうつまり、先週の箇所で、イエス様は、ご自身を拒んだサマリヤ人が滅びることを望まなかったように、周りの72の国や民をもなおも見ているし、もちろん、そこにはサマリヤ人も含まれている。そのように、イエス様は、決してイスラエル人、ユダヤの民だけではない、全世界の人々、つまり、確かに私たち一人一人のためにもイエス様は来られ、私たち一人一人にも目と思いが向けられていた。私たち一人一人のためにエルサレムに向かい、十字架にかかられる。その幸いをまず第一に覚えることが出来るのです。

2、「恵みのうちにある派遣」

A,「キリストが遣わす」

 そのイエス様が目と思いを向けている異邦人の国々の人々、そのために72人は選ばれ遣わされるのですが、今日はさらに、その「遣わす」ということの恵みを見ることができるでしょう。もちろん目に見える地上の事柄では、託された教会が召し出し遣わすのですが、しかしそのキリスト者を用い流のは誰か、そしてその派遣がどこから生まれのかどこから来るのかということがここからわかります。それは何より、イエス様から生まれ、始まり、イエス様が選んで、イエス様が遣わすのです。先週の箇所でもありました。まず自分から、自分達の意志や決心や他の何らかの力によって、まず私たちの方から「従う」というのではありませんでした。イエス様は、まずイエス様の方から「ついてきなさい」「従いなさい」と召した弟子達に、「神の国を言い広めなさい」と遣わしていました。同じようにここでも、どこまでも神の国の働き、イエス様の働きは、人が、私たちが、ではなく、イエス様が選び、招き、召し出し、そしてイエス様が遣わすということが、この1節にわかるのです。つまり、派遣やそして宣教・伝道も、決して人や自分の思いや計画、自信や意志や決心から出たものではない、人は用いられるだけであり、つまり全ては恵みであるということを教えられるのです。

B,「キリストの名によって:キリストが行う」

 そしてその召される働きや使命も、1節では「ご自分の行くつもりの」とありますし、2節では、あえて「収穫の主」ともあるように、収穫でさえも主の働きであるということもわかるでしょう。つまり、主の働き、主のなそうとすること、主がなさることのために、72人は選ばれ、遣わされるということがわかるのです。それは、9章の始めも同じでした。弟子達はイエス様から「権威を授けられて

遣わされます。そして、その遣わされた所でも、弟子たちの力ではなく、「イエス様の名によって」とある通り、イエス様の力によって、悪霊が追い出されたり、病が癒されたりしたのでした。それは弟子達に力があるのではなく、イエス様の力が現れていることであったというメッセージです。事実、すぐ前9章の37節以下にある出来事ですが、イエス様が山に行っている間、子供が悪霊に憑かれているからと助けを求めてきた親に対して、弟子だけではできなかったのでした。逆に、49節以下では、弟子のヨハネは、弟子でない者がイエスの名を使って悪霊を追い出していたのを見て、仲間ではないのでやめさせたという場面があります。それに対してイエス様は止めさせてはいけないといいました。そして10章17節をご覧頂くと、遣わされ帰って来た72人が「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」とも言うのです。このように、イエス様の名が与えられ、遣わされ、イエス様の名が広められ、イエス様の名によって悪霊が追い出され、病が癒されていますつまり、すべては弟子たち自身の力や功績ではなくて、イエスの名、つまりイエス様がなさる業、計画、働きであることがわかるのです。そのイエス様のなそうとしている働きのため、召され用いられる彼らであるということなのです。

C,「平安があるように言いなさい。」

 今日のところから、イエス様によって「遣わされる」ということは、恵みであるというイエス様からのメッセージが私たちに語られています。このように何をするにもどこまでも、それがこのように宣教や教会の働きであっても、イエス様はどこまでも与える方です。つまり、イエス様は私たちに何かをしてもらう必要もなければ、聖書にあるように、仕えられる必要もありませんし、まして私たちが何か重いものを「背負わせる方

ではありません。事実、5のイエス様の言葉を見ても分ります。イエス様は、家に入ったら「平安があるようにと言いなさい」と言っています。何か重荷を負わせるような言葉ではありません。つまり、イエス様がなそうとする働き、イエス様が伝えようとすることは、「重荷」ではなく、「平安があるように」「シャローム」であることが分ると思います。イエス様は私たちに平安を与えるために来ました。それは遣わすということでも同じだとわかるのです。イエス様が召した人を、イエス様が選び、イエス様が遣わす。しかもイエス様のなそうとすることをさせるため、イエス様の名によって。すべてはイエス様の主導権なんだということです。ですからそうであるなら、「遣わされる」ということは、「イエス様にあって」という、イエス様への信仰、信頼があれば、どこまでも安心だけれども、逆に、イエス様を見失ったり、イエス様から受けるのでもない、イエス様の名によるのでもない、イエス様への信頼でもなくなる時に、イエス様以外のものへの信頼になるときにこそ、遣わされるということ、クリスチャンとして歩むということが、平安ではなくなる、重荷となるということだと言えるでしょう。

D, 「宣教は福音」

 イエス様は私たちをも遣わしています。この世へ。身近な隣人へ。社会や家庭へ、あるいは世界へ。しかしそれは、平安のうちにです。なぜなら、私たちもイエス様の名によって洗礼を授けられ罪赦され救われ、イエス様によって、イエス様の名によって遣わされているからです。イエス様から今日も受け、イエス様から受けるからこそ、私たちの新しいいのちの歩みがあり、キリスト者としての日々があり、そして平安があることを知っているからです。ですから、宣教というのは、ルーテル教会の、律法と福音の区別で言うなら、「しなければいけない」「律法」ではないのです。どこまでも宣教は福音です。第一の聖書箇所イザヤ書66章でもそこに「彼女」と繰り返されているのは、それは教会を意味しています。その彼女は、喜びに溢れているでしょう。「彼女と共に喜び楽しめ」とあるでしょう。重荷があっては、あるいは、律法が動機では、楽しみや喜びはありません。教会は、重荷と裁きではなく、平安と喜びが満ち、その喜びと平安で遣わされるところ。教会も宣教も律法ではなくて福音なのです。ぜひ、今日も、イエス様が救ってくださり、イエス様がイエス様の名において遣わしてくださっている恵みを感謝して、ここから遣わされて行きたいのです。

3、「一人ではなく」

 そして、更に幸いが書かれています。1節の後半には「ふたりずつ」という言葉があるのです。このようにイエス様は決して一人では遣わしませんでした。イエス様のなそうとする働きは確かにイエス様の働きと業があるのですが、同時に、私たち兄弟姉妹は、その神様の御心が行なわれて行くために用いられる、皆、互いが互いのための、イエス様から与えられ一緒に遣わされている助け手、パートナーでもあるということがこの言葉には示唆されているのではないでしょうか。もちろん人には皆、それぞれ、足りなさ不完全さがあるでしょうし、私自身にもあります。人と人の間のことも、クリスチャンといえども、いつでも完全ではない事実もあります。しかしだからといってそれを全く無意味とはイエス様はしません。創造の始めでも、神は、人は一人でいるのは良くないといって、助け手として、つまり、人は互いに助けあうためにパートナーを与えています。確かに堕落によって人も、人と人の関係も堕落しました。しかしその神様がパートナーを与えた御心は、尚も大事なこととして私たちにはあるでしょう。それは、主によって選ばれ主のなそうとすることのために「遣わされる」ことにおいてもイエス様は貫かれます。一人ではなく、ここでは二人で、あるいは、使徒言行録ではさらに三人以上の場面もあります。あるいは、家族や、友人、教会という大きな数でもそれは同じことが言えるでしょう。そのように私たちは一人で遣わされているのではない、ともに唯一の救い主であるイエス様への信頼を受け、互いに助け合い励まし合いながら遣わされているのですそれは今日の第二の聖書箇所ガラテヤ6章でパウロが伝えていることです。しかもです。これは決して二人だけの力でもない、そこにはイエス様の名のゆえにイエス様が働いてくださるのですから、つまり常に目に見える数「プラス1」です。二人のときは、ともにいてくださるイエス様もいて3人ですしかも見えないイエス様こそ、何よりの力、言葉を持って導き、働く、真のリーダーです。私たちの歩み、遣わされる、従うということ、宣教ということさえも、そのような幸いな派遣、全ては恵みであることが見えて来るのです

4、「収穫の主に祈りなさい」

 そのようにイエス様が、遣わす彼らに言った、遣わす言葉が、有名な2節以下の言葉になるでしょう。これはよく2節だけを取り上げられますが16節まで続いている長い言葉になります。2節だけをお読みします

「そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

 実りは多いのに、収穫のための働き手は少ないのだとイエス様は言っています。まずイエス様には多くの実りが既に見えているのです。それは尚も働き手が沢山必要なほどに実りがあることがわかるのです。その「実り」は、イエス様が与える救い、罪の赦しと永遠のいのちです。そして人々にその実り、救いを得させるのは、ルカの福音書でも見てきて分る通り、イエス様の名であり、イエス様のことば、福音です。使徒言行録でもこうあります。ペテロとヨハネは、金銀は私にはないが私にあるものをあげようと言って「イエスの名によって歩きなさい」といいました。そして、4章12節では、「イエスの名以外には、いかなる名前も与えられていない」とも言っています。そして使徒達と教会が伝えて行ったのは、まさにイエス・キリストの福音であったのでした。ですから「働き手

というときに、それはそのようにイエス・キリストのみことば、福音を伝える人のことを指していることは分ると思います。それが少ない。今はどこの教団や神学校でも同じような声をききます。しかしその時に、イエス様はそのことに対する答えと導きを与えてくれています。まず第一に、収穫の主が、収穫のために働き手を送ってくださるのだということです。これは大事なことです。今日も見てきました。召しや従うということ、それは人の自信や決心、人のわざではないと見てきました。主がみことばを持って召してくださるのだと。そして今日の所でも、主が、選んでくださり、遣わしてくださると。貫かれています。そしてこの2節でも、主が送ってくださると一貫しています。これは主が召し、主が送ってくださるのです。出エジプトの時のモーセもそうでした。モーセを選び、召したのは誰でもありません。モーセは同胞から殺しのことを問われ逃げてきました。召されたときも、彼は何度も拒みました。しかし主が召し、主のことばによってモーセは導かれ、主がエジプトに送ってくださったのでした。このように主の収穫の働き手も同じです。人のわざではない、人の自信や決心でもない。人が選び、人が募り、人が働き、人が説得し決心させるのではありません。主がなさるのです。何より、みことばをもってです。みことばにこそ力があり、みことばの力で、人は召され、選ばれ、主は人を送ってくださいます。ですから、イエス様の言うことは最もです。「祈りなさい」と。収穫の主に、働き手を送ってくださるように「祈りなさい」なのです。そして人の説得や促しではなく、みことばを伝えることこそ、人が主によって召されるための最善で最高のことであるともいえるでしょう。ぜひ、私たちは「祈りなさい」との進めにある通り、祈っていこうではありませんか。祈りに力がないように思わないで、「祈りなさい」と勧められているのですから、祈りに力があると信じ信頼してぜひ祈って行きましょう。

5、「イエスは裁くためではなく代わりに負い与えるために」

 尚もイエス様のことばは続きます。その遣わされるのは全くのイエス様の恵みであるのですが、しかしその前途は決して易しいものではないこともイエス様は伝えて行きます。3節では「狼の中に子羊を送り出すようなものだ」と。すべての人が受け入れるわけではなく、拒む人、受け入れない人もいるのだと、言うのです。そして16節では、こうもイエス様は言って結んでいます。

「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。

16節 

 イエス様が与える平安を受け入れない人、拒む人は必ずいると。そしてその受け入れない、拒むことによる報いの大きさも、イエス様は述べていることを見ることが出来ます。ここから神の裁きはイエスを受け入れるかどうかにあるということと、その神の裁きは確かにあり厳しいものであることを教えられるのです。けれども、皆さん、大事なことですが、イエス様はなぜ来られたとあったでしょうか。ヨハネ3章17節。「裁くためではない」とはっきりと書いています。先週のところ、弟子ヨハネはまさにそのように受け入れない人々に「天から火を降らせて、焼き滅ぼしましょうか」といいました。しかしイエス様は戒められたとあったでしょう。神の裁きは確かに必ずあるでしょう。しかし神がその一人子イエス様を世に与えたのは、その裁き、断罪をイエス様に負わせるためでしょう。私たちの代わりにです。そして事実、イエス様は、イエス様を受け入れない、罵り、十字架につける全ての人々の罪の身代わりとなり、十字架にかかって死ぬでしょう。全ての人に、つまり私たち一人一人に、その罪の赦しを与え、神の前にその十字架のゆえに、罪がないものとするためにです。そしてその後も今も、そのイエス様のゆえに、尚も、福音を教会で語らせ、伝えさせ、そのやがて来るその裁きの時も、尚も神はイエス様のゆえに、忍ばれているではありませんか。神は裁く以上に、この御子イエス様のゆえに、御子イエス様を与える程に、私たちをやはり愛してくださっているのです。

6、「イエス・キリストの恵みと平安にあって遣わされる幸い」

 クリスチャンである私たち自身でさえも、受け入れる受け入れないでいうなら、決して完全ではないことも教えられます。私たちは決して完全ではありません。受け入れられないこと、拒むこともあるのです。そのような時に本当に私たちに救いがないなら、ただこの裁きだけしかないなら、何と絶望的でしょうか。しかし、私たちはそのような時でも、このイエス様こそを知り、イエス様の十字架に立ち返り、イエス様にあって何度でも罪の赦しを受け、イエス様にあって新しくされ歩むことが出来ることはなんと幸いでしょうか。ここでもイエス様は、裁きのことを遣わす72人には説明しても、受け入れない人々にそのような罰や裁きのことを言いなさいとは言っていません。むしろイエス様が伝えさせるのは「平安があるように」と「神の国が近づいた」だけであることが見て分ると思います。私たちは裁きを証しするのではありません。裁き合うお互いでもありません。そうではない。私たちがイエス様から受けているもの、それは本当に不完全で神の裁きの座にあった私たちをイエス様が救ってくださった。イエス様のゆえに何度でも罪の赦しが与えられ、いつでもどんな時でもイエス様にあって平安が与えられる。そのことではないでしょうか。私たちもそのようなイエス様にこそ平安があるという証人として、恵みのうちに遣わされている一人一人なのです。それはイエス様の平安を知らなければ証しはできません。イエス様はも今日も宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と(ルカ74850節)。まず私たちがイエス様から平安を受け、平安のうちに遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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