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ルカによる福音書10章25〜37節
2022年7月10日:スオミ教会主日
説教者:田 口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「はじめに」
今日の所は、有名な「善いサマリヤ人」の譬え話です。このところは、父、子、聖霊なる神様が、私たちに、「わたしたちがなすべきこと」は何であるのかを、はっきりと示されているところでもあります。それは「神を愛し、隣人を愛しなさい」ということです。しかしこのところ文脈を見ると、9章の終わりやまた先週のところでも触れたように、イエス様は、エルサレムへまっすぐと目を向けて進み、何より、ご自身の十字架による救いを弟子達や人々に示し始めているところです。そのことを踏まえて見て行くことで、この有名な譬え話を通して、イエス様は何を私達に伝えたいのかが見えて来るのです。早速、25節から見て行きましょう。
2、「律法の専門家とイエスの問答」
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」25節
「律法の専門家」いわゆる「律法学者」のことです。彼はこの前24節のイエス様のことばを聞いていました。24節でイエス様は、これまでご自身とご自身のことばを伝え示してき来たこと、というのは、旧約の預言者達や王たちが見たいと願い見れなかったこと、聞きたいと願い聞けなかったことなのだと語っています。つまり、イエス様は、ご自身こそが、旧約の預言が約束してきた救い主である、ということをはっきりと示した言葉でした。それを聞いて、この律法の専門家は「試そう」として言うのです。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と。「試そう」としての質問ですから、彼自身は、全く分らないからと言う純粋な動機で質問をしているわけではなく、彼自身が心の中で思い描いて既に持っている答えを、想定して質問しているということを意味しています。イエス様は彼に答えます。
「イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると」26節
律法の書にどう書いてありますか?そう尋ね返します。そしてその律法の書をあなたはどう読むのかと。それに対してこの律法学者は聖書の申命記の言葉を引用して答えるのです。
「彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」27節
その彼の答えは決して間違いではありません。何よりイエス様の答えとも一致しています。マタイの22章37節以下を見ると、同じように律法学者から律法の中で一番大事なことは何かと尋ねられたときに、イエス様も同じようにこの申命記のことばから引用して答えています。神を愛すること、そして隣人を愛すること、それが律法の中で一番大事であり、マタイの福音書のことろでは、律法全体と預言者がこの二つの戒めにかかっているとも言っています。しかしこのところの律法学者の質問は少し異なり、「永遠のいのちを自分のものとするためにはどうしたら良いか」です。その問に対して、イエス様はこう続けます。
3、「イエスの答え」
「イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 28節
もし人が、永遠のいのちが自分のものとするために、何をすべきか、何をしたらよいかを求めるなら、神様の答えははっきりとしています。「心を尽くし思いを尽くし力を尽くし、知恵を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。そしてあなたの隣り人をあなた自身のように愛せよ」をそのまま実行することだ。そうすれば、あなたが、永遠のいのちを自分のものとすることができるのだと。
こう聞くと、おや?と思うかもしれません。私たちが教えられている、恵みのみ、信仰のみ、信仰義認と矛盾するのでは?福音と矛盾するのでは?と。しかし矛盾はしません。どうしてでしょうか?まず、ここで論じられているのは、福音である「与えられる救い」と区別する必要があります。そして、聖書が、福音と矛盾することを言っているのでもありません。この律法の専門家は、「永遠のいのちのために『自分が』何をすべきか」と尋ねています。つまり「もし私達が永遠のいのちを、「自分で」得ようとするなら」という問い掛けです。それに対する答えとしてイエス様が言っているのだということに注意しなければいけません。彼が言っているのは、自分で得ようとする「救い」ですから、イエス様が与えようとしている「救い」とは異なることを彼は言っているし、その彼の質問に誠実に答えるなら、イエス様の回答のとおりであるということなのです。しかしこのイエス様の言葉は、同時に一つの大事な真理も伝えているのです。それは何かというと、神ははっきりとこのことをするように望んでおり、神はご自身が聖であるように私達にも聖であることを命じているその「聖さ」がここにあるのだということです。そして、もしこれを完全に実行できるなら、聖であり、永遠のいのちを自ら自分のものとすることができるという、一つの事実です。そうなのです。律法は永遠に聖なるものです。そしてもしこれを私達が完全に守り行なうことができるなら、私達は聖であり救われるのです。
4、「聖なる神とその律法の前での私たちは?」
けれども、私達はみな自分たちの圧倒的な事実を知っています。それは、誰もそれを守ることができない。完全に実行することができないということです。ですから、律法を行なうことによっては誰も救われないというときには、それは、律法の側の問題、律法が劣るとか不完全ということではなく、私達の側、人間の側の圧倒的な現実、事実のことを言っているのです。私達はみな堕落しています。みな罪深い存在であり。神に反するもの、神の御心を行なえないものです。行いだけでなく、何より心において私達は神を愛することも、隣人を愛することもできないものです。ですから、彼のように、律法に、あるいは、自分の行いで、自分の救いや聖さを求める時には、神の答え、イエス様の答えは変わらずこの律法であるのですから、それは実は、どこまでも自分の不完全さ、罪深さを、私たちは示されてるということを、このところは見事に描いているのです。律法に自分の救いの根拠を求めるなら、それは自分の罪深さ、不完全さゆえに、必ずこの壁にぶつかるか、あるいは、躓いてしまうのです。
彼は、それでも
「しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
29節
ルカはここで「しかし彼は、自分を正当化しようとして」という書き方をしているのは大事なところです。ルカは、このようにその律法の黄金律の前に誰も正しい者はないのだということを、この言葉に既に示唆して記していることが分るのです。この律法学者も、それを実行しなさいとい言われることで、何か自分に引っかかることがあったことをも察することができるでしょう。しかし自分はいつでも正しいと思っている人ほど、正しくないことはなかなか認められないものです。そこで彼は、その隣人は誰なのかと尋ねるのです。
5、「隣人とは誰か?」
それに対してイエス様が答えるのが、この善いサマリヤ人のお話なのです。有名な話しですが、まず追い剥ぎに襲われるのは、ユダヤ人です。しかし同じユダヤ人の宗教的なリーダーであり、礼拝を司る祭司。あるいは、礼拝に仕えるレビ人、まさに自分たちの同士、同族、仲間であり指導者でもある人達は、死にそうな同士を見て、通り過ぎて行くのです。このとこでは、よく彼らに非難が行きがちのメッセージを聞くですが、しかしイエス様のメッセージは、そこではなく、「誰が隣人か」ということであることに注意が必要です。イエス様はここで、あるサマリヤ人が、その死にかけているユダヤ人を見て、かわいそうに思い、立ち止まって、助けたことにこそ、その「隣人は誰か」の答えをおいています。イエス様は問います。
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」36節
と。もう誰が見ても明らかです。彼も答えます。
「その人を助けた人です。」
と。そしてイエス様はいいます。
「行って、あなたも同じようにしなさい。」
このイエス様の答えは、この律法学者にとっては耳の痛い、かなり大きな壁であったことでしょう。なぜなら、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪いとよく言われますが、それ以上に、ユダヤ人はサマリヤ人を下に見て蔑んでいたからです。交わりもしません。ガリラヤに行くとき、あるいはエルサレムに登るときは、ユダヤ人は、サマリヤを避けて遠回りしていったと言われます。ですから、ヨハネ4章で、サマリヤをイエス様が通ったときに、イエス様がサマリヤの女に「水をください」とお願いしたことに、サマリヤの女は驚いています。ユダヤ人の男性が、サマリヤ人の女性に話しかける、ましてお願いするということはあり得ないことであったからです。ですから、このサマリヤ人を、隣人を愛する模範と示され、そのようにしなさいと言われたこと、そしてまさに敵、蔑む相手こそ隣人であり、その隣人を愛することこそ、これが神の求めておられる隣人愛の真理だといわれた時には、この律法学者は答えにつまった、いや答えられなかったと思われます。
しかし皆さん、これが神の聖、神が私達に求めておられる御心であり、聖さであるということです。そしてこれが真の隣人であり、隣人を愛するということです。つまり、自分が愛することができない人さえも、敵でさえも愛する。相手が敵であっても、自分に不利益をもたらすものであっても、好きでない人であっても、その人のためにかわいそうに思い、その人のために尽くす、行なう、助ける。そのことこそ、真の「隣人を愛すること」だ、とうことです。イエス様は、自分を愛してくれる人を愛するのは、強盗さえもしていると、言っています。自分を愛してくれる、よくしてくれる隣人を愛することはむしろ容易いのです。しかしイエス様は、聖書が求めている隣人愛は、それ以上のことであることを示しています。本当の隣人愛は、自分に敵対する相手さえ、それは拳をあげ、奪うもの、あるいは、嫌い、蔑むものにさえも向けられなければならない。愛しなさい。それが聖書が、神が人類に、私達に、求めている、隣人愛であるということを、イエス様ははっきりとこの喩えで示すのです。そう言われると、まさに律法のあまりもの聖さが私達に突きつけられ、同時に、その律法の聖さ、完全さの前にある私達の現実がはっきりと示されるはずです。
6、「そして福音へ:イエスはそれを成し遂げてくださった」
その現実。私達はそれをできないと。どこまでも罪人であると。私達はここで完全に打ちのめされるのです。しかし真のイエス様のメッセージは、ここからなのです。つまり同時に、何よりも大事な真理を気づかされるのです。イエス様は、ここでただそのように律法を示して打ちのめすだけで終わりではなく、何よりも福音を私達に語っているということをです。
皆さん。繰り返しになりますが、この背景、文脈を思い出してください。イエス様は、今どこに向かっているでしょうか。エルサレムにまっすぐと目を向けて進んでいます。エルサレムに何があるでしょう。何が待っているでしょう。イエス様はエルサレムの何を見ているでしょう。それは、ご自身がこれから背負う十字架の死と復活ではありませんか。周りの弟子達でさえもその時は何も見えていません。しかしイエスは、常にご自分は何のためにこられ、どこへ向かっているかは、一貫し、変わることなく、はっきりとしていて、そのことを真っ直ぐ見て、伝え、行い、歩んできたでしょう。イエス様のすべてのことには、十字架と復活があり、すべての人に、罪の赦し、神の国と永遠のいのちを与えると言う、福音こそいつでも中心にありました。その十字架で、イエス様は何をされるでしょうか?まさしく、この例えにあるこのサマリヤ人のすることでしょう。イエス様こそ、敵である全ての人、神を知らない、神を十字架につけろと、神を否定する全ての敵のために、つまり私達のために、その私達をかわいそうに思って、その敵のために、ただ助けるでだけではない、それ以上に、反抗する罪人である私たちのために、自分のいのちを十字架でささげることによって、助けるではありませんか。このサマリヤ人は、ただ私たちがすべき律法だけを示しているのではありません。「あなたはできないのだ」と罪を指摘しているだけでもない。何よりも、そのイエス様が善いサマリヤ人を通して示す、その私たちにはできない完全な愛の姿は、何よりもイエス・キリストご自身こそを示しているということなのです。
律法の聖さのまえに私達はただただ罪人に過ぎません。そのなすべき愛を自らでは果たせないものであるし、神が求める愛を決して完全には行えないものです。しかし、このイエス様こそ、聖なる方であり善いサマリヤ人の喩えが示すその方です。まさにその私たちにはできない聖なる律法を、聖さを、真の愛を、私達のために成し遂げてくださったのでです。
7、「それはキリストのゆえにわたしたちに:恵みの聖化」
そしてそれだけではありません。このサマリヤ人が、助けた人に多くものを与え続けることによって保護し回復させてくださるように、イエス様は私達にも、そのご自身の洗礼と聖餐とみ言葉を通して、そのイエス様がしてくださった聖、救い、いのち、すべてのことを、私たちのものとして、与えてくださっているではありませんか。そして、私たちが日々回復するために、イエス様が日々、私のものをすべてにない、日々、代わりにイエス様のものを、私達のものとしてくださっているではありませんか。そのように、私達は、ただこのイエス様にあってこそ、毎日毎日、神の前に、罪赦されたもの、回復されたものとされます。
そしてさらなる恵みがここにあるのです。その私たちへの罪の赦しは、この律法の黄金律を、すでに行なっているものともしてくださってもいるのです。しかしそれは私たちの何かではなく、どこまでもイエス様のゆえにです。ですからイエス様はヨハネ15章で伝えているでしょう。イエス様にしっかりとつながっていなさいと。そのようにイエス様に、結び合わされ、キリストにつながっているなら、キリストのものが私達のものとなって実、キリストご自身が実を結ぶと約束してくださっているでしょう。ですから、このところ、私達はまず第一に、この黄金律とも言われる愛の戒めと良いサマリヤ人の譬え話の前にあって、なおも罪人であり悔い改めさせられる。しかし、同時に真の善いサマリヤ人であるキリストにあって、その罪深いものが、聖とされ義とされる、と言う福音を、私たちに今日も指し示しているのです。
皆さん、イエス様が私たちに与えている天の宝である福音こそ、私たちに実を結ぶのです。私たちがそ今日も、み言葉に聞き教えられ、悔い改め、今日も、キリストに立ち返らされ、キリストにつながっているなら、私達は、今日から始まる新しい週も、キリストにあって、聖霊とみ言葉の働き、福音の力で、イエス様が望んでいること、できないと思えるような愛さえも、させられて行く、実を結んでいくのです。なぜならそれが「そうずれば実を結びます」というイエス様の言葉の約束だからです。今日の第一の聖書朗読である申命記30章でも11節、その神の戒めは「難しすぎることはない」と言っています。しかしそれは「私が天に登って取ってこよう」とか「海の彼方にわたって取ってこよう」とかではないとあります。つまり、私たちの側が自らの達成によって行うことができるということではないというのです。ではなぜ難しくないのでしょう。14節「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」とあります。つまりみ言葉が、福音こそが、できないと思われるその律法を行わせる源であり力であることを聖書ははっきりと伝えているでしょう。これが福音の力、福音の素晴らしさ、福音が日々与える新しいいのちの生き方なのです。私たちが自らなるのでも努力で達成するのでもない、キリストが私たちを聖く完全なものとしてくださる、私達が行なえないことも、キリストは、行なえるようにしてくださる、導いてくださるということなのです。新約聖書ヘブル13章20〜21節の祝福の祈りにはこうあります。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
ヘブル13章20〜21節
新改訳聖書では
「すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。」
とも訳されています。
8、「終わりに」
皆さん、神の聖なる律法の前に、私達、私自身がですが、ただただ、自分の不完全さ、罪深さを認めさせられるだけです。心を尽くし思いを尽くし精神を尽くして、神を愛することのできないものですし、隣人をも自分を愛するように愛するどころか、愛せない、むしろ自分しか愛せない。自分中心な存在です。しかし、だからこそ、イエス様はこの世へ来られました。人となられ、そんな罪深い私たち一人ひとりのために、十字架にかかって死なれました。まさに瀕死の、罪で滅びるしかない、私たち一人一人のために、イエス様は、私たちの真の良いサマリヤ人になってくださり、そのなすべき完全な愛を、イエス様が私たちにしてくださったからこそ、私たちは救われたのです。そのようにイエス様に救われて生かされたからこそ、私たちの日々新しい歩みがあるのです。今日もイエス様は私たちにはっきりと宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい。」と(ルカ7章48、50節)。今日もイエス様の十字架のゆえに罪を赦されていると宣言を受け、確信と平安をもってここから遣わされていこうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン