2022年7月31日 聖霊降臨後第8主日 主日礼拝 田口牧師から送られてきた当日の説教です。

今日の聖書のおはなし

ルカによる福音書12章13〜21節

「神の前に豊かになるように」

202231:スオミ教会礼拝説教

説教者:田 口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「はじめに」

 この12章でもイエス様は、エルサレムへと真っ直ぐと目を向けて向かっています。今日の箇所の前には三つの話があり、イエス様は、ファリサイ派のパン種の話など、これから、彼らの偽善や敵対に直面し、これから御自身のみならず、弟子達にも起こる艱難を伝えています。しかしイエス様は、その苦難を通してこそ神の御心が表され、神の国と福音に与る者たちへの本当の幸いがあるという恵みを伝え励ましています。それらのイエス様の教えの土台となっているのは「地上の事柄」ではなく「天の御国」であり、イエス様は、キリスト者は地上では艱難があり、人はキリストの名のゆえに弟子たちに害を加え殺すであろう。しかし、天の神が、その全てを知っていて神の国の約束を与え、イエスが神の前で認めてくださると励まし、その天からの賜物、贈り物である信仰と聖霊によって道は確かにさるのだと、何よりも天の神の国」を指し示しているメッセージでもあったのでした。今日のところでは、その群衆のなかにいた一人の人がきっかけになっていますが、そこでもイエス様のメッセージは、世の事柄や「人の前」の議論ではなく、やはり「神の前」神の国」を土台にし、神の国の視点で、人々に、弟子たちに、そして私たちに福音を、指し示しているのです

2、「仲介者」

「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』」13

 その人の問題は、家庭、兄弟の問題です。遺産を巡っての兄弟同士の争いがあったことがわかるのです。彼はイエス様にその仲裁に入って欲しいとお願いするのです。当時の人々が、このような問題をラビと呼ばれる律法の教師達に持って行って仲裁してもらうということは良くあったようです。しかしそれに対してイエス様はこう答えます。

「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』」14

 これを聞いて、おや?と思う方がいるかもしれません。「イエス様は仲介者、仲裁者としてきたのではないのか」と。あるいは、「神であるのだから裁判官でもあるのではないか、むしろ正しい裁判官であるのでは?」と、思うかもしれません。

 けれども聖書はこう言っていることを思い出したいのです。第一テモテ2章5節の言葉ですが、4節から6節まで読むとこうあります。

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」第一テモテ246

 確かに仲介者とあります。けれどもそれは「人と人との間の」仲介者とはありません。「神と人との間の仲介者」であるとパウロは教えています。それは、人と人の間のこと以上に人間にとって重大なこと、それは、すべての人が救われて、真理を知ることのための「仲介者」であることを伝えているでしょう。そしてその仲介の方法までパウロは述べてくれています。それは「すべての人の贖いの代価として」と。十字架の死と復活です。このように、パウロは、そのような方法で「神と人との間の仲介者」となるために、人となられたキリスト・イエスを指し示し、その人となられた神であるイエス・キリストによってのみ、神からの救いが私たちにあるのだと、教えているのです

 イエス様はここで彼と群衆に、まさにパウロが伝えた、「人と人との間の問題」以上に、もっと大事な「神と人との間のこと」、そして、そのことを通して、何よりご自身がそれを与えるために来られた、と言う、「天の御国」「神の国」「救いのこと」を伝えようとしているのがこのところなのです。イエス様はこう続けます。

3、「貪欲に注意しなさい」

「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』 」

 貪欲に注意して警戒せよ。イエス様はそういいます。貪欲とは、満足しない欲、あるいは満足を知らない欲とも言われます。それは人の心にあるものですが、それは得ても得ても、与えられても与えられても満足できない。十分ということをしらない。「足りない、もっともっと」となる欲です。それが過度になりコントロールが効かなくなることとして、現代ですと「中毒」とか「依存症」いう言葉も連想されます。この「もっと欲しい、満足できない。」ーそのように貪欲が人間の心を支配する、まさに、満足を知らない欲、貪欲というのは、人間の深い問題です。イエス様は、その遺産の分け前についての兄弟同士の争いに、おそらく、すでに富んでいる家族にあってもなおも争ってでも財が欲しいという、そのような貪欲を見ていたのかもしれません。そして、その貪欲は結局、神が与えてくださった家族という恵みの中で、争いという良くない結果をも生み出してしまっています。だからこそ、イエス様は、そのように神の前に何ら良いものを生まない貪欲に、注意し、よく警戒しなさいというのは、当然のことだと言えるのです。

4、「いのちは財産にあるのではない」

 けれども、このところのメッセージは、イエス様はそれをただ道徳や倫理、あるいは律法や戒めを理由や目的としてだけ言っているのではありません。その理由をこう言っています。

「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

別の聖書の訳ですと、

「なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 ともありますつまり、それは、単なる道徳や倫理ではない、むしろ、いのちの問題であるといいます。確かにお金は必要な大事なものです。そしてお金や財産が沢山あれば、いつでも食に困らず食べることができ、良い医療も受けられる、などなど、人々はいのちが、財産、お金、富にあるように思うかもしれません。事実、お金中心で世の中は動き、お金が人の人生の良し悪しを支え保証しているような価値観で、世の中は溢れてはいるのです。

 けれどもイエス様は、「いくら有り余るほど持っていても」「豊かでも」、「人の命は財産によってどうすることもできない」「人のいのちは財産にあるのではない」とはっきりと言います。どういうことなのでしょうか。それを説明するためにイエス様は例え話を話すのです。16節以下ですが、ある金持ちの話です。彼はお金持ちです。持てるものを持っています。そしてそればかりではありません。彼の畑は豊作です。さらなる富と豊かさ、発展、繁栄が豊作には現れています。けれども彼は「心の中で」、さらなる心配とそれに対する計画を立て、そして実行をします。まず豊作の作物、財産を蓄えておく場所がないと。心配、恐れです。そして、計画です。これまでの倉を取り壊して、もっと大きいの立てよう、そこに豊作の作物と財産を保管しよう。そのような計画を考え付きます。非常にできる優秀な人です。まさに金持ちになるべく富むべく知恵がある人です。そして彼が心の中で心配し彼が心の中で考え思い描いた計画に、今度は彼は「自分に言ってやるのだ」別訳では「自分のたましいに言おう」と、言わば自己陶酔し、そこに明るい希望を見ています。19節ですが、

「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。 」

 ここは肝となるたとえでイエス様は皮肉を込めて言っています。彼の言葉は誰かに言っているように見えるつまり、一見、複数人の会話のように見えるこのやり取りですが、しかし彼は「心の中で」、「自分に言ってやる」あるいは「自分のたましいにこう言おう」とあるように、すべて一人、彼自身の心の中のことです。そして彼は、自分のたましいに「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言っているのですこのように、貪欲の構造をイエス様は表しています。すべて自分自身の心の中の心配と、自分自身の予想、計画と期待と満足であると。けれども貪欲のさらなる事実は、満足を知らない欲です。結局、待っているのは、 「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と、自分に言い聞かせても、それでも安心できない、満足できないわけです。しかし、イエス様は、ここでただ、そのような貪欲の構造、人間の心の欲の底なしの様だけを言いたいのではありません。それだけが「注意しなさい」の理由ではありません。20節に、イエス様の「いのちは財産にあるのではない」ということの理由があります。

5、「いのちはどこに?」

「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」

 イエス様の言っていることはハッとさせられるのです。財産はもちろん一時の満足と安定は与えてくれて、一時の健康の維持にも力ともなるでしょう。しかし、究極的には、つまり死という圧倒的な現実を前にして、いのちを支えることはできないということです。いのちということは死ということと隣り合わせです。死があっていのちの意味、生きているということを考えることができるでしょう。生きることをもちろんお金はある程度補償はできるのです。しかし死を前にして、財産は全く意味がありません。いい葬儀やお墓は準備できるかかもしれませんが、どんなに財産があっても死を避けることはできないのです。しかしイエス様が言いたいのはそれだけではありません。そこでは「いのちは取り上げられる」と言っています。つまり、いのちを握っているのは、つまり聖書が「生きるのに時があり、死に時がある」と言っているように、生も死もすべて神の御手のなかにあって、神が定めている、神が与え神がいのちを取りあげる、取り去られるという、圧倒的な事実をイエス様は突きつけているでしょう。そう、それこそがいのちの支配者です。いのちは財産にあるように人は思うのですが、しかしイエス様にあって真理はそうではない、いのちの真理、それはいのちは財産ではなく、神の御手にあるということです。そして、そのいのちも死も、私たちはお金でも力でもコントロールできないのですしかも、その豊かな財産を死後どこかに持っていくこともできないのです。その時、その取り去られることが本当に起こった時に、イエス様が、「一体誰のものになるのか」と言っているように、そのような彼の心の中で心配し計画し用意していたもの、その財産も倉も、満足も、それらはその人の物にはならないのです。その人は神にいのちを取り去られて、その先にその財産を持っていくことができません。地上の財も富も死の先に持っていくことはできないのです。むしろ財産は他の人の手に渡ってしまうようなものですし、その人の手からまた他の人の手に、時にそれは敵の手に渡ったり、悪用されたりします。まさに、この場面です。お父さんが残した遺産を子供達が争って奪い合うという現実があるではありませんか。そしてその財産も形あるものは、やがては朽ちて消えていきます。地上の財産、そして貪欲は、そのような現実にあるものです。イエス様はいいます。人のいのちは財産には決してありませんと。人のいのちは、神の手に握られていると。だからとここで誤解してはいけない補足ですが、昔からそして今も世を騒がしているキリスト教の異端やカルトが良く彼らの常套手段で、律法的に脅迫するように、だからその財産は神に教会に全て捧げなさい、ということが、正当なキリスト教の教えではありませんし、イエス様のここでの教えもそのようなことを言いたいのでは決してありません。むしろ献金は、律法ではなく、恵みへの応答ですから、自由な心で喜んでささげるものであることは忘れてはいけません。ここでは決して律法のメッセージをイエス様は言いたいのではなく、ここで何より私たちに言いたいことがあるのです。こう結んでいます。

6、「神の前に富むこと」

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 ここでも「人の前」ではなく「神の前」とありますが、イエス様がいいたこと、それは「神の前に富むこと」の大切さです。では「神の前に富む」とはどういうことでしょうか?イエス様の山上の説教はこのことの意味がよくわかるところです。マタイ6章19節以下に同様のイエス様の教えがあります。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」マタイ6章19〜21

 自分のために蓄える目に見える形ある地上の宝。それはいずれ虫と錆で、傷物になる。盗人が穴を開け忍び込んで盗んでいく。それは事実でしょうしかしむしろイエス様は「神の前で富むこと」を言います。「富は天に積みなさい」と。別の聖書の訳ですと「宝は天に蓄えなさい」ともあります。それは虫もつかない、錆びることもない、盗人があけて盗むこともないと。やはり初めに言いました。イエス様はここでも「天」を人々に指し示しています。一貫しています。ルカ12章8節でも、「人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言う

と、イエスに「知っている」と認められることに、救いのすべてはあることを伝えていますそして、その知ってもらう道は何より信仰のことを意味しています。どんな艱難や苦しみ、それが死であっても、一羽のスズメを忘れないほどに、決して見捨てることも忘れることもなく、憐れみ、愛し、友と呼び、そして十字架で私たちのすべてを担われる神の御子キリストを、私たちが信じること、信頼することこそ、何より必要なことであると言うのが、イエス様が福音書を通して伝えるメッセージの核心なのですですから、まさに神の前で富むことは、何かというと、それは、信仰のことだと言うことです。宝を天に蓄えること、それも信仰です。信仰に生きることです。信仰にあって、神を信じ、その神からの救いを喜び安心するがゆえに、喜んで応えていく、つまり、神を愛し隣人を愛することです。引用したマタイの福音書でも、そうです。この19節の前には、主の祈りが教えられています。先週お話ししました、イエス様がこう祈りなさいと与えてくださった福音の祈りです。そして、その後は、断食や祈りをするのにも、人に見られるようにではなく、隠れたところの見ている天の父に見られ父に報われるようにと教えています。それも人に見られるためではない、人にどう見られるかどう思われるかでもない、ただ神への信仰による行いを教えています。そして21節の続きの結びは、神の国とその義とをまず第一に求めなさい、と、信仰を示しています。

 天に宝を積むこと、蓄えること、神の前で富むこと、つまり信仰、それがいのちの道、真理の道、救いの道であることこそ、イエス様が今日も、このところから、私たちに伝えるメッセージなのです。

 イエス様は一見、この人を、批判しているように見えるかもしれません。しかし最も大事なことをイエス様はこの人に伝えているのです。もちろん「人の前」では、この人の期待している通りの答えではありませんでした。けれどもまさにここにいのちがあるというイエス様の福音のメッセージが彼に語られたのです。それがイエス様の彼への愛であるともいえるでしょう。

7、「おわりに」

 幸いではありませんか。天に宝を積むことができる幸いに私たちがあることは。イエス様は、決して地上の必要はどうでもいいとは結んでいません。マタイの福音書の山上の説教の有名な言葉、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」も、信じなさい。そうすれば、それに加えて、「これらのもの

、つまり何を着ようか何を食べようかということを言っているのですが、それらのものはすべて与えられるとも、イエス様は言っています。大事なことは、信じることです。イエス様こそ私たちのいのちのすべてであり、救いであると。イエス様とイエス様の言葉こそ真実であり、恵みによって取り囲まれた人生であり、そのイエスの福音とその恵みこそ、新しい命の日々の歩みを本当の豊かにする宝であると、信じ、救いを確信することです。その信仰さえ、恵みとして与えられる賜物であると、聖書は教えています。その信仰こそ、喜び、平安、感謝が溢れさせ、何より神の前で富むこと、天に宝を積むことなのです。今日もイエス様は私たちにその罪の赦しと新生の福音と恵みを、そのまま受けるようにと、宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ、福音をうけ、今日も信仰を新たにされ、平安のうちに、私たちの救いの道、いのちの道に遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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