2022年8月21日(日) 聖霊降臨後第11主日 主日礼拝

スオミ教会礼拝説教

ルカによる福音書131017

「アブラハムの子と呼んでくださる主」

2022年8月21

説教者:田 口   聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「会堂にいた彼女」

 今日の箇所の直前では、イエス様は、いちじくの木の例えから「実を結ぶ」ということを教えました。それに続く、今日の癒しの出来事もまた、神の御子イエスが信仰者に結んでくださる一つの実を表すものとしてルカは記録しています。

 まず10節、会堂にいるイエス様ですが、イエス様は、安息日にはこのユダヤ人の会堂に来て、巻き物である旧約のモーセの書や預言書を開いて、神のみ言葉を解き明かしていましたが、この安息日にも同じように教えておられたのでした。しかしその礼拝の席には、11節です。

「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」11

 とあります。もちろん全ての病気がそうだというのではありませんし、私たちにとっては馴染みのない、また理解し難い言葉ではあるのですが、その病気は霊によるものであったことがわかります。「病の霊」の働きで、腰が曲がってしまって、伸ばすことができない、そんな状態を、彼女は患っていたのでした。しかもその時間があまりにも長いです。18年もの間、その霊による苦しみ、痛みが彼女を襲っていたのでした。

 しかし彼女は、この安息日に会堂の礼拝の席にいたのでした。そしてイエスが語る神の国のみことばを聞いていたのでした。つまり、彼女は、神にみことばを求めていた、つまり一人の信仰者であったのでした。ここでは、イエス様はそのことをきちんとわかっていることも書かれています。16節ですが、

2、「この女はアブラハムの娘なのです」16

「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」

 と言っています。「アブラハムの娘」つまり「アブラハムの子孫」であることを意味するとき、新約聖書のイエス様の場合、それはただ、血のつながりの子孫のことを意味していません。もしそうであるなら、全てのイスラエル人もアブラハムの子孫です。イエス様がアブラハムの娘、子孫というときは、アブラハムから連なる「信仰による義」の相続者を指しています。創世記15章6節ではアブラハムについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。つまり、アブラハムの時からすでに、義は主を信じる信仰にあったのであり、主はその信仰こそを見て、義と認めてくださったのでした。それは昔も今も変わりません。それはパウロもローマ4章3節、ガラテヤ3章6節でこの創世記の記録を指して言っている通りです。ガラテヤの方ではパウロははっきりとこう言っています。ガラテヤ3章7節

「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」

 と。このように、この病の霊に苦しむ彼女は、紛れもなく信仰の人であり、神の言葉を求めてこのところに座っていることを、イエス様はしっかりと知って受け止めておられることがわかるのです。「この女はアブラハムの娘である」と。

3、「病の霊、サタンが縛っている彼女」

 けれども、病気でした。しかも病の霊に憑かれていました。16節ではそれは「サタンに縛られていた」とも書いています。

 ここで不思議に思う方もいるのかもしれません。それは、信仰者なのに、サタンやそんな霊に憑かれているのかと。当時のユダヤ教の考えでは、「そのような人は、何か罪を犯したからだ、律法に背いているからだ、神の怒りと裁きの結果なんだ」、そのように決めつけられるのが一般的でした。それは現代でもよく聞くことでもあります。カリスマ系の教会や、熱狂主義的な教会、律法的に導く教会などでは、「そのような霊や病気は、信仰が足りないからだ。だから信仰をもっと強くしなさい。自分で信仰を奮い立たせて勝利しなさい」と教えられたりすることがあるのです。

 そうではなくても、いつの時代でも、災いや苦しみ、試練は、祝福されていない証拠として、「何かが足りないから、信仰が不完全だから、信仰が足りないから、こうなんだ。祝福されていないのだと。災いがあるのだ。」そう考える人は少なくないとも言われます。

 しかし、この彼女、この状態は、そうなのでしょうか?みなさん、イエス様はこの彼女をそう見ていません。その病と彼女の業や信仰とをつなげません。むしろ彼女のその信仰のみをイエス様は見て言うでしょう。

「この女はアブラハムの娘なのです。」

4、「神の御子による天の御国の最高の賛辞

 みなさん、この言葉は、神の御子による天の御国から人類への最高の賛辞であり賞賛の言葉でしょう。「アブラハムの娘なのです」と。素晴らしい言葉です。もちろん私たちの目から見るなら、人間ですから、誰でも不完全で足りないところのある信仰でもあり生き方でもあるのは当然です。しかし彼女は、周りの様々な冷たい目線や差別にも関わらず、安息日にこの会堂に、神の言葉にすがり求めて、神の言葉を受けるために、礼拝にやってきました。まさにそれだけ、そのままの信仰のみを、イエス様は見て、何も足りないとは決して言いません。むしろ逆に、最高の賞賛を持って、イエス様は、彼女の信仰を言うでしょう。「この女はアブラハムの娘なのです」と。そして、彼女がどうだから、何をしたらから、何が足りないから、こうなった、とは決して言わず、その原因は、ただ「サタンに縛られていたのです。」と、サタンの一方的な働きの中でそうなり、むしろ彼女はその病い苦しみと戦ってきたことを、イエス様はただ哀れんでくださっているのがわかります。みなさん、それが私たちの救い主であるイエス様なのです。そして、そこから、イエス様が私たちをいつもどう見てくださっているのかがわかるのです。そう、そのように、私たちのキリスト者として信じる日々、信仰生活というのは決して、私たちが何かをしなければいけないという律法ではない。信仰は、どこまでも、イエス様の憐れみ、イエス様の恵みであり、どこまでも福音によるのだと、わかるのです。

5、「祝福のはかりは律法ではない」

 つまり「災いがあり、病気があり、うまくいかないのは、それは自分の罪のせい、信仰が足りないせい、行いが足りないせいなのだ、だから祝福されないのだ」では決してないということです。そのような「祝福や救いを秤る見方」は、まさに福音書に見られる通り、ユダヤ人の律法による生き方、考え方その物です。しかし、現実はどうでしょう?キリスト者の信仰の歩みでも、当然、日々、サタンとの戦い、罪との戦いがあります。イエス様も、患難がありますと言いました。その中で、私自身の力では、負けるとき、勝てないとき、どうすることもできないときも必ずあります。まさに彼女のようにです。それらの事柄がすぐに解決ができず、18年、いやそれ以上、かかるときもあるでしょう。災いや試練の連続、うまくいかないことばかり、失敗ばかり、そのようなときも現実的にあるでしょう。そして、それが神の国や信仰に関することであれば、なおさらです。私たちが自分の力で、信じたり、敬虔になるとか、誘惑に勝利をしたり、神の国のことを何か勝ち取ったり達成することなどは全く不可能で無力なのです。信仰生活はそのようなものです。弱さと無力さがある。当然なのです。私たちは皆、堕落してから、肉にあってはなおも、罪の世を生きているし、なおも罪人であるのですから。救われて義と認められても、義人にして同時になおも罪人でもあります。聖書にある通り、古い人と新しい人の両方があるのですから。

 しかし、それは信仰がないからそうなっているのではありません。信仰が足りないからそのようなことが起こっているのでもありません。信仰の道はそのようなことが当然ある日々であり連続なのです。ですから、「問題がないから、罪がないから、いい信仰、いい教会、いいクリスチャン」ということでもありません。むしろそうだというなら、ヨハネの手紙第一の1章8〜10節からいうなら、私たちは神を偽っており、私たちにはみことばがないことになります。信仰とはそのようなものではありません。むしろその逆で、そのような足りなさ、不完全さ、罪深さ、その他、多くの苦しみや戦いの中、サタンの誘惑や攻撃の中で、日々、戦って生きていき、それでも日々、無力さ、罪深さを感じるのが誰もが通る信仰の現実であるのです。

6、「福音の実」

 しかし、そのような現実の中で、それでも主を信じて、神の言葉こそを求めて、赦してくださる主の罪の赦しと憐れみを求めて、どこまでも神の前にすがる歩みの幸いこそ、まさに今日のところにある通りであると証ししているでしょう。神の御子イエス様が、このような名もなき、しかもサタンに苦しめられている彼女、それでも礼拝に来て、神の言葉にすがる彼女の、その不完全さ、罪深さ、しかしそこに同時にある信仰を見て、「この女はアブラハムの娘なのです」と言ってくださる。そのように救い主イエス様が、認めてくださり、受け入れてくださる。そして、彼女自身が何かをしたではなく、イエス様が憐れんでくださり、まさにその言葉と力で働いて、人の想いをはるかに超えた癒しと救いを与えてくださり、その口に賛美と証しを与えてくださっているでしょう。それが私たちに与えられている信仰であり、神の生きた働きであり、新しいいのち、真の信仰生活であり、それは律法ではなくどこまでも恵みであるのです。そして、そのように全くの恵みによって、イエス様の方からまず彼女に、その信仰を賞賛するという一つの実を与え、さらには、癒しという実を与え、彼女にそのようなイエス様の実らせる実が実ることによって、イエスが彼女になさった「彼女のそのまま」が、今も、時代を超えて、福音書を通して証しされ、多くの人の福音の実のために、彼女のそのままが用いられていることがわかるのではないでしょうか。

 皆さん、それは派手でも劇的でもありませんが、まさにこれがイエス様が、福音が、私たちに実を結ぶということです。実を結ぶとは、律法的に私たちの力と行いで華やかな結果を、私が神のために一生懸命、実現すると言うことが実を結ぶということではありません。彼女は本当に不完全で苦しみの中、神にすがっているだけです。しかしそれが「そのまま」用いられて実は結んでいくのです。これが聖書が私たちに伝える。福音による実に他なりません。

7、「律法を基準とする会堂管理者」

 けれども、これと対照的な反応が、この後、描かれています。なんと会堂を管理する、会堂長はイエスに憤ります。しかもイエスに直接言わないで、群衆を巻き込んで扇動して、群衆みんながそう言っているとでも言わせたいかのように言うのです。14節

「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

 この会堂長も、福音書に見られるパリサイ人、律法の専門家たちの反応と同じです。律法、あるいは、律法に従う人の行いしか見えていません。彼らにとってはそれが基準です。いかに従っているか、どれだけ忠実に行っているかのその自ら、あるいは他人の行いが、全ての秤の標準であり、拠り所になっているでしょう。イエス様と見ているところが全く逆であり正反対なのがわかります。自分たちが、あるいは人が、どれだけ行うかに祝福と救いと義はかかっているのです。自分たちは行っている。行っていない人はダメなんだ。そのような論理で一貫しています。

8、「イエスの目は福音の目」

 けれども、イエス様の目と思いは全く彼らと逆なのです。それは、全ては天の神からくる。天から恵みが与えられるためにこそ、ご自身はそれを与えるものとして世に来られた。父子聖霊なる神の私たちへの思いは、その天の恵みを与えること、そして、人々はそのイエスご自身からそのまま受けること、受けることによって主の働きは全て始まり実を結ぶ、それがすべてである。そのような一貫した福音の目線であり思いなのです。ですから、イエス様は言います。15-16

「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」

 安息日の本当の意味について述べるイエス様の言葉を思い出します。マルコの福音書では

「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。』」マルコ2:27〜28

 と。ヨハネの福音書でも、イエス様は

「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ』 」ヨハネ5:17

 と言いました。会堂長も、パリサイ人たちも、「律法に自ら生きること、何をするか、してきたか、何をしていないか、してはいけないことをしているか、していないか。」が義や祝福の基準です。しかしイエス様は、その逆で、神が何をしてくださるのか。まさにどこまでも福音が基準なのです。神が与えてくださる。働いてくださる。その時が神の国であり、安息日の恵みであり、みことばの恵み、福音のすべてであると、イエス様はどこまでも一貫しているのです。

9、「福音にこそ招かれ、福音にこそ生きるために」

 私たちは、今日もこのみことばから、イエス様によってどちらに招かれているかは、すでに明らかです。もちろん、日々律法によって罪示されてここに集められていることでしょう。しかしそれはそのように罪を示され悔い改める私たちは、どこまでもその罪を赦され、福音を受けるために招かれているのです。イエス様は罪に打ち拉がれ、刺し通され、悔い改める私たちに対しても、今日も、「アブラハムの子よ、子孫よ」と、言ってくださり、罪を赦し、そのように私たちを見て喜んくださっているのです。それは私たちが何かをしたからではない。苦しみと試練の中、サタンとの戦いの中で弱さを覚える現実の中で、それでも神のみにすがってここに集まってきたその、そのままの信仰こそを何よりも喜んで、賛美して、「アブラハムの子よ、子孫よ。よく来たね。今日もあなたに与えよう。救いを。罪の赦しを。新しいいのちを。平安を。」と、そう言ってくださっているのです。

 事実、会堂長の目線や律法の言葉と、イエス様の福音と、どちらが本当に平安と光と喜びを与えるのか、どちらが本当の福音の実を結んでいくのか。皆さんにはもうお分かりだと思います。律法は人の前や理性では合理的で即効性がある理解しやすい手段にはなるかもしれませんが、律法は、人を、ただ恐れさせ強制で従わせ行わせることしかできません。何よりそこにはイエスが与えると言われた特別な平安はありません。しかし、まさに今日も「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と福音を宣言してくださっているイエス様から、福音こそを受け、福音によってこそ新しくされ、福音によって安心し遣わされていくときにこそ、どんな困難があってもそこに平安が私たちにあり、私たちは福音によってこそ、平安と喜びをもって、真に神を愛し、隣人を愛していくことができるのです。それは律法は決して与えることはできないものです。福音が与えるのです。その福音による歩みこそ、私たちに与えられたキリストによる新しい生き方なのです。

 今日もイエス様は宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と。そのイエス様の恵みを受けて、イエス様が日々、「アブラハムの子よ」と認めてくださっていることを賛美して、そしてそこにイエス様の福音が確かに働いてくださることを信じて、ぜひ今週も歩んでいこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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