2022年9月11日 聖霊降臨後 第14主日礼拝 本日は講壇交換日ですので礼拝は河田先生にお願いしました。

河田優 牧師(ルーテル学院大学・神学校チャプレン)

説教題

ルカ15:1‐10 「誰一人取り残さない」

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。

15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。

15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

(説教者は初めに)私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

ルーテル学院大学・神学校でチャプレンをしております河田です。本日は与えられた日課から、このように共に福音を分かち合う機会を与えられて感謝です。

本日は福音書の個所から「誰一人取り残さない」という説教題をつけさせていただきました。これは国連が呼びかけているSDGsの取り組みへのキャッチフレーズでもあります。

皆さんもよくご存じだと思いますが、まずはこのSDGsの取り組みついて簡単に紹介します。

国際連合は2015年から「持続可能な開発目標」のアルファベット頭文字を取って、SDGsと名付けた取り組みを始めました。それは、世界中の人々にとってよりよい、より持続可能な未来を築くための活動です。

まずは現代の世界にある課題を17の項目としてまとめます。そしてそれらの課題の解決を目指して、継続して具体的に取り組んでいくのです。

この17にのぼる項目を少し紹介すると以下のようなものです。

貧困をなくそう

飢餓をゼロに

すべての人に健康と福祉を

質の高い教育をみんなに

などです。

それぞれが現在の世界の諸課題であることは一目瞭然なのですが、ここで気づかされることはそれぞれの諸課題というのは、なにがしかの形で関連し合っていることです。

たとえば、貧困と飢餓の問題は密接に関連していますし、そのために社会の中で福祉が整えられていく必要があるでしょう。その時には人権が重んじられますし、平等が唱えられ、誰もが正しく学ぶ機会が与えられて行かなければならないでしょう。

つまり、ここにあるように一つ一つの課題は、相互に関連しているのです。

ですからSDGsの取り組みとしては、これらの課題のいくつかだけを選択して解決していくのではなく、これらの課題のすべてに目を向けつつ、それらの課題の中に生きざるを得ない人たちの誰一人取り残すことなく働きかけていくことを目指しているのです。

このことは、すべての課題が解決に向かうことは、一つ一つの課題の取り組みの結晶であるし、逆に言うとその課題の中で誰か一人の人が取り残される限り、すべての課題の解決とは言えないこととなるのです。

今回の説教題はこの「誰一人取り残さない」というSDGsのキャッチフレーズからつけさせていただきましたが、それは本日の日課、特に「見失った羊のたとえ

としてよく知られているこの聖書個所を考えるうえで大きなヒントになると思ったのです。

それでは、聖書個所を振り返りましょう。

今日の福音書はまずファリサイ派の人びとや律法学者たちが、徴税人や罪人と一緒に食事をしているイエスに対して不平を言うところから始まっています。

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。

15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

ここに登場する徴税人や罪人は、律法によると神の救いに相応しくない人たちとされていました。そのような人たちと食事をするとは何事か、けしからん、というようなことです。イエスは新しい教師として人々を教え、導いているが、律法学者たちは、自分たちが重んじる律法に適わないイエスの行為にいら立っているのです。

そこでイエスは「失われた羊」のたとえを語るのです。

ある羊飼いが登場します。この羊飼いに100匹の羊が飼われています。ところがある時、そのうちの一匹がこの群れから迷い出てしまうのです。

15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

イエスが語るこのたとえ、失われた羊を捜し求める羊飼いはイエスご自身のことでしよう。そしてこの羊飼いに飼われている羊たちはこの時代の人々のこと、特にユダヤ人たちを表しているでしょうが、私たちがこのたとえを聞くとき、この羊とは今を生きる私たち自身のこととして受け止めることができるでしょう。

この羊の群れから一匹の羊が抜け出し、羊飼いは野原に他の羊を残してまでも、その失われた一匹の羊を捜しに行くというがこのたとえです。

4節には「見つけだすまで捜し回る」の言葉があります。これは、羊飼いは失われた羊をけっしてあきらめない。最後には必ず捜し当てる。ということです。そしてイエスはご自分こそ、そのような羊飼いであると告げるのです。迷子になった一匹の羊を自分の姿になぞらえる私たちは、この言葉に大きな慰めを受けるのです。

また、このたとえの面白いところは、いなくなった羊とは特に優れていた羊とも何とも書いていないことです。この羊は、他の羊に比べてみて羊飼いから特別扱いを受けていたわけでもなさそうです。名もなき小さな存在でしかなかったのです。

でも羊飼いは、他の99匹の羊を野原に残しておいても、この一匹を捜し出すのです。

私たちの生きる世界では、むしろこのようなことはあり得ないことではないでしょうか。

99匹の羊が残されてしまうと言うことは、その羊たちにも危険が迫ると言うことです。ばらばらに迷い出るかもしれません。居なくなった羊は特別な羊ではなかったのですから、冷静に考えると99匹を守り、迷子の羊を諦めてしまう方がより賢いやり方と思われます。

ただその中で、このイエスの教えが私たちの心に響いてくるのは、この羊飼いは、たった一匹の羊のことがどうしても心配で、決して一匹でも自分の前からいなくなってしまうことが悲しくて寂しくて、この羊を捜しに行かずにはおれなかったということです。

そのように考えたときに、この迷いでた一匹の羊の救いは、野原に残った99匹の羊の救いにもつながることが分かります。迷い出た羊は特別ではなかった。ちっぽけな存在だった。でも羊飼いは見捨てなかった。大切な存在として愛しぬいた。つまり残された99匹の羊たちも束にして数えられる羊ではなくて、一匹一匹がこの羊飼いに愛されている羊なのです。

今度はいつ、この自分が迷い出てしまうかもしれない。でもこの羊飼いはそのような名もなき羊を最後まで捜し続けてくださる。ここに大きな喜びがあります。

そしてそのことが律法によっては救われないとされてきた徴税人や罪人たちと共に食事をすることだとイエスは語るのです。そして誰一人取り残さないことがすべての者の救いであることをイエスは教え、まさにその羊飼いこそ私であると語るのです。

本日、読まれたテモテへの手紙にはパウロが自分のことを記していました。

彼はかつて、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。

律法の面では正しい者であったでしょうが、神の目から見れば主イエスのもとから外れた羊、けっして神の宴席に招かれることのないであろう罪人であったでしょう。

しかし、パウロも復活のイエスに捜し出され、そこで出会い、捕らえられ、その生き方が全く変わってしまうのです。

主の福音を世界中に伝える使徒としての働きを担う者とされるのです。

彼は次のように告白します。

1:14-15「私たちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私は、その罪人の中で最たる者です。」

罪人として最たるものであるパウロを主イエスはけっして諦めなかった。彼を捜し出し、捕らえ、ご自分の羊とされるのです。

まさに「誰一人取り残さない」、その思いは主イエスの思いなのです。

そしてこのたとえに語られていることは、主なる神が私たちに向けられた思いであるのです。

羊を自分の姿になぞらえたとき、私たちは時折、主のもとから遠く離れ去っている自分の姿に気づくことがあります。いと小さき自分、信仰の弱い自分、この自分のことを主は思い返してくれるだろうか、そのような不安に陥るようなこともあるでしょう。

しかし、この失われた羊のたとえは、そのようなあなたのことをけっして諦めない。ご自分のもとに連れ戻すために最後まで捜し出してくださる主の姿を私たちに教えているのです。

そしてイエスはこのたとえを次のように結ばれます。

15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、

15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

驚くべきことは、この「喜ぶ」という言葉の主語は見つけ出された羊ではなくて、見つけ出した羊飼いにあるのです。

私達は思います。「見つけ出された羊はさぞ喜んだことだろう。」

これは神様の救いをいただいた小さき自分自身の喜びを重ね合わせてそのように考えるのです。

しかし、イエスは「あなたを見つけ出した喜びは私の喜びである。」と告げます。

このように小さなわたしを見つけ出し、ご自分のもとに連れ戻すことをご自分の喜びとしてくださる、そのお方こそ私たちの主です。私たちはこのお方を私の羊飼いとして従ってまいりたいのです。

あなたが主の姿を見失い、悲しみにある時も主はあなたを捜し求めておられます。そしてあなたが主の姿を再び見つけたときは、あなた以上に主は喜んでくださいます。「誰一人取り残さない主」はすなわち「あなたを決して取り残さない主」であり、すべての者の救い主なのです。

(説教の最後に)人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

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