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主日礼拝説教 2022年9月25日(聖霊降臨後第十六主日) アモス6章1、4-7節、1テモテ6章6-19節、ルカ16章19-31節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくご自分で創作した話を用いて教えています。何を教えているのでしょうか?
まず、金持ちがいて贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていた。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書のは実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。
ラザロという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。この話を聞いた人たちはきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それすら叶わない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けを待っている人がいたことを知っていたことになります。しかし、それを無視して贅沢三昧な生活を続けていました。
さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので葬式が挙行されました。16億6千万円位する国葬級ではなくとも、さぞかし盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も書いてありません。きっと遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。
ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事はほんの序論にすぎないと言えるくらい、本論がここから始まるのです。金持ちは、盛大な葬儀をしてもらった後は永遠の火に毎日焼かれなければならなくなりました。ラザロの方は、天使たちに天の御国のアブラハムのもとに連れて行かれました。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。
金持ちは、聖書の観点から見て、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、神に服従せず富に服従したからです。それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方です。つまり、二重の罪というわけです。もし、富にではなく神に服従して、富の主人になって、それを神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。
以上が本日の福音書の箇所の要旨です。これを読む人はキリスト信仰者であってもなくても、ああ、イエス様は利己的に生きてはいけない、困っている人を助けてあげなければいけない、と教えてるんだなと思うでしょう。ところで、利己的に生きてはいけない、困っている人を助けなければいけないというのは、別に聖書の神の掟を持ち出さなくても、誰にでもわかる道徳的な教えだと思われるかもしれません。それに、良いことをさせるため、悪いことをやめさせるために天国や地獄を持ち出すのは時代遅れのやり方だ、今はもっとスマートな議論をすると批判されるかもしれません。このように本日の個所は道徳的な教えにしかすぎないように見えてきます。
しかしながら、本日の個所のイエス様の教えの中心は、利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ、ではありません。もしそれが中心なら、別にキリスト教なんかいりません。本当に中心にあるものがあって、そこから、利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ、という規範が派生して出てくるのです。その中心にあるものを把握しないと、本日の個所は別にキリスト教でなくてもいい道徳論になります。
それでは中心にあるものとは何か?それを見つける鍵は、この話の最後にあります。金持ちがアブラハムに言います。「父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」「悔い改める」というのは、ギリシャ語のメタノエオーという動詞です。神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きるようになるという方向転換を意味します。うなだれて反省しまくっているのとはニュアンスが違います。これに対してアブラハムが答えます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」「死者の中から生き返る者があっても」とありますが、正確な訳は「たとえ死者の中から誰かが復活しても」です。以前の説教でもお教えしましたが、「生き返り」と「復活」は違います。「生き返り」は蘇生ですが、「復活」は神の栄光に輝く復活の体を着せられることです。「その言うことを聞き入れはしないだろう」も正確な訳は「納得しないだろう」とか「確信に至らないだろう」です。何のことかと言うと、先ほど述べた「悔い改め」、「方向転換」する位に納得しない、する位の確信を得られないということです。それでこの最後の部分の正確な訳は以下に掲げます。因みに「モーセと預言者」と言うのは神の掟が集大成されたモーセ五書と全ての預言書のことで、大雑把に言って旧約聖書のことです。「もし、モーセの律法や預言書に記されていることに耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても、方向転換をすることはないだろう。」
このアブラハムの言葉の中にイエス様の教えの中心があるのですが、それを解き明かす前に、一つ大事なことを確認しておきます。それは、キリスト信仰の天国と地獄はどういうものかについてです。これは、以前の説教でもお教えしたことです。
この個所は普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと一緒にいると理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」です。ギリシャ語ではハーデースという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナと言い、文字通り「地獄」です。
「陰府」と「地獄」の関係について少し見てみます。黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした殉教者たちが最初に死から復活させられます。その次に、それ以外の人たちが復活させられます。この者たちは前世での行いに基づいて裁判を受けます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4ー6節)。これが最後の審判です。この後で天と地が新しく再創造されて今の私たちの天と地に取って代わり(21章1節)、神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。このように神の国とは復活を遂げた者たちが一堂に会するところで、キリスト信仰で天の国、天国というのはこのことです。
そうすると、天国とか地獄というものは、将来、最後の審判や復活や天地の再創造が起きる時になって迎え入れられるところ、投げ込まれるところになります。それなので、「陰府」というのは、それらが起きる時まで死んだ者が安置される場所です。今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と教えています。ルターは眠りの場所を「陰府」と言っていませんが、復活の出来事が起きる前には、そのような眠りの場所があるのです。
そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の海に投げ入れられるかはまだまだ先のことで、今の天と地が存在する今の段階ではどこかで安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われます。でもそうなると、最後の審判や復活や天地の再創造が起きていなければならない。ところが、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判は来ていません。そうすると「地獄」でなく「陰府」が正確と思われます。しかし、金持ちはもう眠ってはおらず地獄の火で焼かれています。まだ最後の審判は起きていないのに。一体これはどういうことでしょうか?
この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVは、このハーデースを陰府ではなくhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見ると、原文では地獄ではなく陰府を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳せざるを得ませんでした、そう断っています。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、別のEinheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltという訳で「陰府」です。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、「地獄」とはしっかり区別されています。
どうしてイエス様はこの個所で、地獄と考えられる場所を「陰府」と言ったのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、事の順序にこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、最後の審判と復活が起きて今ある天地がなくなった後のことです。全人類が対象となる、天国への迎え入れか地獄への落し入れかの選別が起きた後のことです。ところが、金持ちはアブラハムにラザロを父親の家にいる兄弟のもとに送って下さい、そうすれば彼らは悔い改めますから、などと頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまったら、最後の審判と復活が起こったことになってしまいます。その場合は、今の天も地も父親の家もなくなって、兄弟たちも裁きの座に引き渡されて、ラザロを送ってあげるどころではなくなります。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。それでイエス様は火の海を地獄ではなく陰府と言ったと考えられます。こうしたことは、自由な創作をすれば起きると思います。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで事の順序にはこだわらなかったのでしょう。
これから、その大事なこと、イエス様の教えの中心に入っていきますが、その前に天国と地獄についてもう一つだけ述べておきます。聖書の立場では人間は死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、ということにすると、聖書には例外もあるということも覚えてよいかと思います。つまり、最後の審判や復活の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人たちがいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記下2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもその一人と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、最後の審判や復活の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうか?これはもうそこにおられる父なるみ神だけがご存じです。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。
日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった人が今天国から見守ってくれているという言い方をよくします。「天国」というキリスト教的な言葉を使うのですが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。その日まで眠りについているという考えもありません。それなので亡くなった方とコミュニケーションを取り続けます。そこに祟りとか呪いということを持ち出す輩につけ入れられる危険があると思います。しかし、亡くなった方が安らかに眠ってしまったら、コミュニケーションは取れないし、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と大方の日本人は心配するでしょう。でも、キリスト信仰では天と地と人間の造り主である父なるみ神が唯一のコミュニケーションの相手であり見守ってくれる方なので何も心配はいりません。
それでは、イエス様の教えの中心に迫ってみましょう。アブラハムの言葉「モーセの律法と預言書に耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても、方向転換はしないだろう。」実はこれは、イエス様の言葉です。アブラハムの口を借りて言わせたのです。それで教えの中心はここにあります。この言葉は逆に言うとこうなります。「モーセの律法と預言書に耳を傾けるのなら、誰かが死者の中から復活したら方向転換するだろう。」どうしてそのようなことが起こるのでしょうか?
律法というのは、神が人間に与えた掟ですが、それはイエス様やパウロが教えたように、人間がいかに神の意志に反するものであるか、人間の神に対する罪性を明らかにする鏡のようなものです。律法を神から授かったイスラエルの民は、それを守ることで神から認められて永遠の命に与れると考えました。そうではなかったのです。律法は、人間の心の中まで入り込んで人間が神の目に相応しくないものであることを明るみに出す神聖な光だったのです。
人間は、律法のこの役割を知った時、絶望と悲しみに襲われます。しかし、旧約聖書には預言書があります。そこには神から大いなる慰めがあるという約束、それと罪のゆえに陥った悲惨な状態から復興できるという神の約束が記されています。なかでもイザヤ書53章は、人間の神の意志に反する罪を人間に代わって償ってくれる者が現れる、その者は自分を犠牲にしてそうしてくれる、神もその者の償いで十分と認めるという預言があります。
このように律法と預言書に耳を傾ける者は、悲しみと絶望を持つが同時にそれらを超える喜びと希望があると信じる者です。そこにイエス様の十字架と復活の出来事が起きると大変なことが起きます。イエス様はイザヤ書53章の預言通りに、人間の罪を全て引き受けて神の神罰を受けられました。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。神のひとり子が自分を犠牲に供したのです。完璧な罪の償いでした。さらに神は想像を絶する力で一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命、復活の命があることをこの世の示されました。そこで人間が、これらのことは神が自分のためにして下さったことだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この罪の償いを自分のものとすることが出来、復活に至る道に置かれて復活を目指して道を歩み始めます。道の歩みではいつも変わらぬ神の守りと導きがあり、たとえこの世から別れる時があっても、復活の日まで眠りにつけ、その日が来たら復活の体を着せられて造り主である神の御許に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所です。
こんな大きなことをして下さった神に対して信仰者はただひれ伏して感謝するだけです。その時、神の意志に沿うように生きるというのが当たり前になっています。神を全身全霊で愛する、隣人を自分を愛するがごとく愛することが当たり前になるのです。そこでは、律法は永遠の命を得るために守るものではなくなっています。先に永遠の命を保証されてしまったので、それに相応しい生き方をすることが後からついてくるのです。これが方向転換の正体です。
このようにキリスト信仰者は、神への感謝から神の意志に沿う生き方を志向するのですが、現実に生きていくとどうしても自分の内に神の意志に反する罪があることに気づかざるを得ません。神の意志によく注意するようになるので、信仰者になる前よりも敏感になります。気づいた時は失望します。怒りに変わることもあります。しかし、まさにその時、心の目をゴルゴタの十字架に向けられれば、神のひとり子の犠牲による償いは揺るがずにあることがわかります。その時、怒りはヘリ下りに変わり、自分に対する失望は神に対する感謝に転化します。自分が復活の道から踏み外していないことがわかり、永遠の命の保証も大丈夫であることがわかります。再び神の意志に沿うように生きようと志向します。このようにキリスト信仰者は方向転換を何度も遂げながら進んでいくのです。
そうすると、キリスト信仰者でない人たちはどうなるのでしょうか?律法や預言書に耳を傾けることもないので、イエス様の十字架と復活の出来事を伝えても何のインパクトもなく、神に向かう方向転換もできないまま固定されていまうのでしょうか?
その心配は必要以上に抱かなくても大丈夫かもしれません。どうしてかと言うと、信仰者は、自分の場合どのようにしてイエス様の十字架と復活がインパクトを持つようになったかを思い出してみて下さい。洗礼を受ける前、ひょっとしたら旧約聖書はそんなに繙いていなかったという人が案外多いかもしれません。しかし、それでもイエス様の十字架と復活がインパクトを持って洗礼を受けるに至ったという事実は否定できません。洗礼の後でそのインパクトを眠らせないために旧約聖書をもっと繙くようになるということもあります。
それでは、そのような人はどうやってイエス様の十字架と復活がインパクトを持つようになったのでしょうか?私が思うに、多くの人は自分で気づくか気づかないか、大体次の3段階の問いのプロセスを辿ったと思います。まず第一段階で、自分は造り主に造られた存在であるか? a)造り主などいない、b)造り主に造られた。bと答えたら第二段階に進む。そこでの問いは、造り主と自分の関係はどうか? a)何も問題ない、b)何か問題がある。bと答えたら第三段階に進む。そこでの問いは、造り主との問題をどう解決するか? a)自分の力で解決する、b)自分の力で解決できるか自信がない。ここでbと答えたら、イエス様の十字架と復活がインパクトを持つ可能性大です。また、どこかの段階でaと答えて先に進めなかった人も、後日何かのきっかけで考えや見方が変わって一つずつbと答えるようになるかもしれません。私たちキリスト信仰者はそのようなことが起こるよう祈らなければなりませえん。また、彼らがb、b、bでいいんだと確信持てるためにも、私たち自身イエス様の十字架と復活のインパクトを眠らせないように生きていかなければなりません。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン
聖書研究会
テーマ「心で信じて口で公けに言い表してどうやって救われるのか?」 聖書箇所 ローマ10章1~13節