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ルカ17章11-19節
2022年10月9日
(いずみ教会共同体講壇交換説教)
浅野 直樹
「誰よりも信頼できるお方」
暦は10月の第二週、いつのまにか一年の終盤にさしかかっています。教会の暦も聖霊降臨後の主日が18週となりました。終わりへと向かう暦にあわせて、きょうの福音書もそれをほのめかす一節で始まっています。
11節「イエスはエルサレムへ上る途中」とあります。イエスがエルサレムへ向かう、これは聖書では何度か出てきますが、とても象徴的なひとことと言えます。イエスにとってのエルサレムというのは、十字架を指していますので、イエスはいよいよ十字架へと向かうというということを、この言葉から聞き取るべきなのです。
エルサレムへと向かうとき、イエスはサマリアとガリラヤのあいだを通っていきました。そこで十人の重い皮膚病を患っている人とイエスは出会います。「重い皮膚病」と訳されています。口語訳聖書のときはらい病と書いてあったり、ハンセン氏病と書き換えられたりしましたが、聖書学者によるとここに出てくるツァーラートという単語は、必ずしも特定の病気に限定することはできないということで、「重い皮膚病」という訳になっています。最も新しい訳の教会共同訳では、ちょっと奇妙な訳になっていて「規定の病」と訳されていました。訳する人たちがこの一言にとても悩まされ、苦肉の策で訳したんだろうなと思えます。
12節「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま」とあります。遠方から立ったままイエスを出迎えたのです。近づいてはいけない、近づいたら感染してしまうと思われていたので、彼らは遠くにいたのです。イエスの時代がそうだっただけでなく、近代の日本でも、らい病についてはそういうふうに言われ続けてきました。そこから差別や偏見が生まれました。けれども今はほとんど感染しないことがわかっています。
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。彼等は遠くのほうから声を張り上げて懇願しました。イエスはその人たちを見るとひとことこう言います、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。「治れ」と言葉をかけるとかはいっさいなく、ここにあるのは、ただ「祭司に体を見せなさい」でした。そして彼等十人は、イエスのいうとおりにしようと祭司のところに出かけていく途中で癒されたのです。聖書には「清くなった」というルカの言葉を記しています。ただれた皮膚がきれいになったということでしょう。イエスによって癒しの奇跡が起こったのです。
ここでわたしたちの疑問は、なぜイエスは「祭司にみせなさい」と言ったのかです。当時のユダヤ社会では、ユダヤ教の議員、祭司、律法学者といった人たちというのは、一般庶民からしてみれば絶大な権力者でした。神様のことをいちばんよく知っていて、いちばんちゃんととそれを守って、そしていちばん神様に対していちばんきちんとしていた人たちだったのです。いわば神様の代理人。なんでもできる人、なんでもわかっている人なのです。医者であり、弁護士であり、大学の教授なのです。
祭司もそうした権力者の一人でした。祭司に見せて祭司が皮膚の状態を確認し、「治った」と宣言すれば、それが診断書となり、完治した証拠になったのです。ですからイエスはこのように言ったのです。
まだ皮膚がただれて治っていない状態のとき、彼等はイエスに、「わたしたちを憐れんでください」と願い出ました。病人の「憐れんでください」は、「私の病を癒やしてください」と同じです。まだ癒やされていない、そういうタイミングでイエスは、「祭司に体を見せなさい」と言うのです。まだ良くなっていないと思っている段階から、イエスさまはもうすでに「あなたがたは癒やされた」と言っているのです。このことはとても大切です。なぜならここに信仰の実態がよく表れているからです。信仰を持つ、洗礼を受ける、そして教会生活を始める。これは人生における大変化です。ただそれによって私たちの日頃の生活が大きく変わったでしょうか。悔い改めて心を入れ替えたことで、すぐ腹を立てていた自分が次の日から急に優しい性格になるかというと、そうでもないでしょう。自分が自分を知る限りにおいては、私たちはなんら変わらないのです。洗礼を受けて「あなたは救われました」と牧師から宣言される。救われたという実感は、洗礼を受けたそのときは喜びを感じることでしょう。けれどもそうした喜びがいつまでも続くわけではなく、再び普段の日常を送ることになります。日常においては救われているという実感も特にないでしょう。けれども主イエスは私たちに向かって「あなたの罪は赦された」、「あなたは救われた」とすでに宣言しておられるのです。まだ皮膚がただれているにもかかわらず、「祭司に体を見せなさい」と宣言したように、「あなたの罪は赦された」、「あなたは救われた」というイエスの言葉はもうすでに実現しているのです。
一人だけがイエスのところに戻ってきて、「先生、治りました」と感謝の言葉を伝えに来ました。ほかの九人もおそらく治ったのでしょう。けれども喜びと感謝の応答をしたのは一人のサマリア人でした。皮膚病が治ったとしても、ユダヤ人にしてみれば近づきたくないサマリア人だけでした。ここからもう一つの出来事が始まります。
彼らは皆癒されました。全員が祭司のところに行って皮膚が清くなったことを見せた、はずです。そして治ったことの証明をもらったのです。イエスは、治ったら私のところに戻ってきて神様を賛美するように、などと言ってはいません。戻って報告に来なかったからといって、別に責められるわけでもありません。ただ18節をみると、「この外国人のほかにはいないのか」と言っているので、ユダヤ人がだれも戻って来なかったことをイエスが残念がっている様子が伝わってまいります。
注目はサマリア人に集まります。皮膚病が癒されても、ユダヤ人からすれば穢れていると偏見の目で見られていたサマリア人です。イエスの足許に彼はひれ伏して感謝をしました。ひとえに嬉しかったからです。そのとき彼は自分がユダヤ人から差別を受けているとか、嫌われた民だということもすべて忘れていたのではないでしょうか。ただひとえに癒された喜びを素直に表して、それがイエス様のところに戻ってきて「ありがとうございます」という言葉となったのです。その喜びの大きさはどれほど大きかったことでしょう。
イエスはサマリア人にこう言いました、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」このように聞くと、サマリア人にはイエスをきちんと信じる信仰があったのだ、そんなふうに思えてきます。わたしたちが信仰というとき、それは聖書を読んで学んだことがあるとか、主の祈りを言えるとか、使徒信条をちゃんと唱えることができるとか、そんなことを考えるかもしれません。信仰という日本語が、そういうふうに思わせるのです。新しい聖書協会共同訳でも同じです。「あなたの信仰が」となっています。
ところがもうひとつの聖書があって、これはもう少し聖書学的見地を重視した聖書で、岩波書店が訳した新約聖書というのがあります。それをみるとちょっと違っていてこう書いてあります。「あなたの信頼が、あなたを救った」。信頼という言い方だと宗教的なニュアンスがそれほどなく、少し違った見方ができます。サマリア人にとっても聖書は大切な書物であった点は同じですが、聖書をどこまで読み込んで理解しているかとか、どういう解釈をしているかということよりも大切で見落としてはいけないこと、それはこのサマリア人がイエスのことをとことん信頼していたということなのです。「イエス様、どうか私を憐れんでください」と真剣に願い、大声で神様を賛美して、イエスの足許にひれ伏す姿から、サマリア人がイエスを心底信頼していたのだとわかります。
誰よりもサマリア人を受け入れるイエス、そして誰よりもイエスを信頼し感謝をささげるサマリア人。この両者の在り方のうちにこそ、信仰とは何かが表れています。形式ではなく、血筋でもなく遺伝でもなく、はたまた社会の常識やしきたり、特定のものの見方ではありません。無条件に受け入れていくイエスの愛に信頼すること、それが信仰です。そのイエスを素直に信頼する心が、私たちを主イエスと結びつけてくれるのです。
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