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主日礼拝説教 2022年10月9日(聖霊降臨後第18主日)むさしの教会 聖書日課 列王記下5章1~3、7~15節、第二テモテ2章1~15節、ルカ17章11~19節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
説教題「キリスト信仰のかたち」とはわかりそうでわかりにくい題と思います。「かたち」とは何ぞや?一昔前、日本のことを論じる本だったか記事だったか、「この国のかたち」なんていうものがありました。「かたち」という言葉でこの説教者は何を意味しようとしているのか?日本語で自分が何を言おうとしているのか、はっきりさせる際に自分が知っている外国語で言い換えたらどうなるか考えるのはいい訓練になると思います。英語のformではありえない。頭に浮かぶのはessenceです。「本質」とか「真髄」です。フィンランド語やスウェーデン語なら「核心」を意味するydinやkärnaが浮かびます。ところが、もし説教題を「キリスト信仰の本質」にしたらどうなるか?神学校の教授や牧師がそういう題で説教したら、信徒の皆さんは、ふんふん、なるほど、と聞き入るでしょう。私のような一信徒が同じ題を使ったら、何を大それたことを!と思われてしまうでしょう。それで「かたち」などという怪しげな言葉を引っ張り出した次第です。
それでも、この説教の原稿が出来上がってみると、やっぱりキリスト信仰にとって本質的なことについて語っているじゃないかと思いました。それで題を「キリスト信仰にとって本質的なこと」にすれば「キリスト信仰の本質」よりも低姿勢かなと思ったのですが、この日本福音ルーテルむさしの教会は説教題を前々週に知らせなければならないのでもう手遅れでした。そういうわけで、本日の福音書の個所はキリスト信仰にとって本質的なことを明らかにしているので、それを皆さんにお教えしたく思います。
イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所は、エルサレムのあるユダヤ地方の北、ガレリア地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。
さて、一行がある村に近づいた時、10人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はどうしたかと言うと、その場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに体を見せに行きなさい、とだけ言います。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10人の男たちは、イエス様が命じられたのだから、と言う通りにただちにエルサレムに向かいました。
すると出発後ほどなくして、10人はみな病気が治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10人のうち9人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム訪問の目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが1人だけ、律法に規定された治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア地方のサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に贈って下さった神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の治癒診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。
本日の個所がキリスト信仰にとって本質的なことを明らかにしていると言う時、その本質的なこととは何かと言うと、2つのことがあります。まず、律法の規定を行って神から義とされ救われるというのではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされ救われるということ。それと、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この2つがサマリア人の行動から見て取れます。ところで、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起きていません。なので、キリスト信仰のかたちがもう表れているというのは気が早いと言われるかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。
この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみましょう。一見するとこの言葉は、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからだ、ということになってしまいます。それだったら、戻ってこなかった9人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだ、と言うべきです。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。これに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。それで、この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみることにしましょう。
マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ9章では、12年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを救った(後注)」と言います。この言葉をかけられてから女性は健康になります。マルコ10章52節とルカ18章42節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願するところです。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。
本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意します。これはギリシャ語の現在完了です(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語のより少し意味が狭く、「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味が主です。それで「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今日この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。
これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?普通は、癒された時に救われたと考えます。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間的な目から見て境遇が良好であるということと同義ではないのです。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。
そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。
さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は9人には言われませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、他の事例と同様に癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。
先ほども申しましたが、レビ記14章には、重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その3節をみると、祭司が治ったと診断した場合、祭司は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。儀式の詳細な内容には立ち入りませんが、いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとしてあります。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(14章20節)。つまり、「清い」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。
ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないか、と思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。
ここでもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。病気のような目に見える状態はなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯して、かからなかった人は罪を犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は、本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間はずっと死ぬ存在であり続けたということから明らかです。使徒パウロは罪の報酬として死がある(ローマ6章23節)と教えています。人間が死ぬということが、人間が罪を持っていることの表れなのです。
さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないでに戻ってきてイエス様と神を賛美したことを褒めます。そうすると、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要の和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったからです。先ほど見たように、モーセ律法には「重い皮膚病」が治った後で神との和解のためにする「清めの儀式」がありました。実はそれだけでなく、律法には人間の罪を償って神との和解が得られるために様々な儀式とそこで捧げられる生け贄の規定が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記16章、23章27ー32節)。
しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(10章1ー4節)。
そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので、神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、復活の日までひと眠りした後で目覚ましてもらって、神の栄光に輝く復活の体を着せられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。
こんなに大きなことを実現して下さった神はなんと素晴らしい方であることか!キリスト信仰者はこの神に心から感謝するようになり、これからは神の意志に沿うように生きようと心に決めます。神の意志は十戒に集約されています。イエス様はそれをさらに二つの掟に集約しました。神を全身全霊で愛することと、その愛に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。キリスト信仰の中で律法の作用の仕方が大きく転換しました。かつて神の意志というのは、それをすることで神から義とされ救われるというものでした。ところが、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖いだして、一足先にさっさと神との和解をもたらして下さったのです。人間は先を越されてしまったのです。そうなったらあとは、この受け取ったものを手放さないようにしっかり携えていくしかありません。
ところが、現実に生きていると、自分にはいろいろ神の意志に反する罪があることに気づかされることが起きてきます。神の意志に沿おうと志向しているので、かえって信仰者の方が神の意志に敏感になり、自分の内にある罪が気づきやすくなります。その時キリスト信仰者は、神との結びつきは弱まってしまったか、あるいは失われてしまうかと心配します。もし神がせっかくひとり子の犠牲に免じて罪を赦してくれたのに、こんなことでは復活と永遠の命に向かう道から外されて自分は行き先を失ってしまうのではと不安に陥ります。
まさにそのような時、神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前の罪の赦しはあそこに打ち立てられて今も微動だにせずにそのままである。お前がイエスを救い主と信じているのはわかっている。我が子イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦される。お前の信仰がお前を救ったのだ。これからは罪を犯さないように。」この時キリスト信仰者の心には信仰に入った時と洗礼の時の感謝が蘇り、これからは神の意志に沿うようにしなければと再出発します。この罪の自覚と赦しをキリスト信仰者はこの世の人生の間ずっと繰り返します。やがてそれが終わる日が来ます。復活の日です。ルターも言うように、キリスト信仰者が完全な信仰者になるのは、この世から別れて復活の栄光の体を着せられた時です。
このように、律法の規定を行って救われるということではなくて、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われるということ、それと、先に救われてしまったことで全身全霊が感謝で一杯になるということ、これらキリスト信仰を形作る2つのことは本日のサマリア人の行動から見て取れます。キリスト信仰の本質が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後で、キリスト信仰者はどう立ち振る舞うかを本日のサマリア人の出来事を例にして前もって教えているのです。
救われたら律法に戻らない
救われたら大きな感謝が生まれて、救ってくれた主のもとに戻る
感謝は神の意志に沿うように生きようとする心を燃え立たせる
皆さんの心がいつも神への感謝で満たされますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
後注 θαρσειは「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと健康になりなさい、とこれから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。