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2022年10月23日(日)聖霊降臨後第20主日 主日礼拝 聖書日課 エレミヤ14:7~10・19~22(旧1203)、第二テモテ 4:6~8・16~18(新394)、ルカ18:9~14(新144)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前の通り、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人は、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。占領された国民の中に占領国に仕える人たちがいたということです。どうして仕えたかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように言いました。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が同胞の裏切り者とみなされて憎まれていたことは驚きに値しません。
ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際の徴税人とは少し様子が違うのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確実なものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。
もちろん本日の箇所の徴税人は、たとえの教えの架空の人物です。しかし、徴税人のグループが洗礼を受けにヨハネのもとに行ったという歴史的事実からすると、今日のように改心した徴税人が実際にいたことは否定できないのです。ルカ19章のザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決断をします。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。
以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければ、そういう気運があったことが読み取れます。
本日の福音書の箇所でイエス様は祈りについて教えています。二つの全く対照的な祈り方が出ています。一つは宗教エリートのファリサイ派の人の祈りで、自分は神が定めた規定をちゃんと守っていますと神に報告します。私は周りにうようよいる罪びとたちと全然違うことを感謝します、などと醜いエリート意識そのものです。子供が先生に「先生、ボクは~君みたいに悪い子じゃないよ、いい子だよ」というのを大人にしたらこうなるのでしょう。もう一つは徴税人の祈りです。自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが祈りの全てです。なので、胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。ファリサイ派の人の祈りは神に対して自分を高く見せる祈り、徴税人の祈りは低く見せる祈りと言って良いでしょう。
先週の福音書の箇所は「やもめと裁判官」のたとえでした。それも祈りについて教えるところで、神に対して祈り願い求めることを絶やしてはならないという教えでした。神に対して祈りを絶やさないというのは、十戒の第一の掟「私以外に神があってはならない」を守ることです。ルターも教えたように、祈ること願いごと、喜びや感謝、悲しみなど全てのことを創造主の神に祈り打ち明けるべきである、他のものにそうしてはならないというのが第一の掟のポイントです。神を全身全霊で愛するというのも同じです。「愛する」などと聞くと恋愛を連想してしまい、神を愛するなんてどうしたらいいかよくわからないと言う人もいます。要は神以外に祈らない打ち明けない、それだけ神を信頼してやまないということです。だから、祈りを絶やしてはいけないのです。
そこで、先週と本日の祈りの教えには興味深い関連性があることに気づきましょう。「やもめと裁判官」のたとえは弟子たちに対して述べられました。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは誰に対して述べられたでしょうか?「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18章9節)です。ここで「正しい」という言葉に注意します。ギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)で「義」を意味する言葉です。「義」とは、「神の目に適う、神に相応しい」ということです。どういうふうに「目に適う」「相応しい」かと言うと、最後の審判の時に神のみ前に立たされても全然問題ない、地獄の炎に投げ込まれる心配はないという位に神に相応しいということです。14節を見ると「義とされて」と言われています。ディカイオオ―という動詞が使われていて、これはさっきのディカイオスを動詞にしたものです。これを「義とされて」と訳したのだから、ディカイオスも「正しい」ではなく「義なる」と訳すべきだったと思います。「正しい」と言ってしまうと、少し人間的すぎてこの世止まりではないかと思います。「義」とは、この世とこの次に到来する世の双方にまたがる、神的な「正しさ」です。人間的な「正しさ」とはスケールが違いすぎます。イエス様がこのたとえを話した人たちは、自分たちはそういう義の者である、他の者はそうではないと見下している人たちでした。この人たちは誰なのでしょうか?ファリサイ派でしょうか?実はそうではないのです。
「やもめと裁判官」の最後のところでイエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、最後の審判の日、果たして、やもめのように祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問は、たとえを聞いていた弟子たちにされました。この質問のすぐ後で今日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえを話します。ここでは、自分は神に相応しいと自信満々な者たちが相手です。つまり、このたとえが向けられた相手は、弟子たちの中で自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると自信満々な人たちだったのです。果たして私が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか?というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる人たちに向けて話されたのです。
そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の教えを、さらに一歩踏み込んだものになっています。たとえ最後までひるまずに祈り続けたとしても、もしファリサイ派の人のように祈ってしまったら、せっかくの絶えざる祈りが何の意味もないものになってしまうのです。
洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないために洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねました。そして、本日の徴税人の場合は「何をしなければならないか」という問いはなく、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけでした。神から罰を受けるとはどういうことか?それは、この世の人生を終えた後で復活の日に復活に与れず、復活の体も永遠の命も与えらえず、神の御許に迎え入れられなくなってしまうということです。しかも、問題はこの世の次の段階に限りません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、どんな道を歩んでも神から守りと導きは得られません。たとえ罰は将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっているのです。歩む道を変えなければならないのです。
「私は罪びとです、神に背を向けて生きてきました」と認めて、「神さま、どうか罰しないで下さい」と憐れみを乞うた徴税人。その彼が神に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者つまり義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。これとは反対にファリサイ派の人は、宗教的な規定をしっかり守っているので何も心配することはなく、神に憐れみを乞う必要もありません。
自分では神に背を向けた生き方をしているなどとは思いもよりません。しかし、百点満点のはずの彼が神のみ前に立たされても大丈夫な者にならなかったのです。これは一体どういうことでしょうか?本日の個所の終わりでイエス様は、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる、と言われます。これだけ見ると、人間は神の前で偉そうにしてはいけない、謙虚でなければならない、と言っているように聞こえます。それでは、ありきたりの道徳論です。ここは道徳教育みたいなことを言っているのではありません。ここは人間のあり方、でき方を根本から問い直さなければならない大きな問題があることを言っているのです。これがわからないと、この個所はわからないのです。
私たちは徴税人が「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」と、神に憐れみを乞う祈りをするのを聞いて、彼がそう祈るのはもっともなことだと思うでしょう。私たちの場合は、同胞を裏切ってまで私腹を肥やすようなことは縁遠いことなので自分には関係のない祈りに聞こえるでしょう。加えて、神の意思を表している十戒に照らしても、自分は盗みも偽証もしないし、ましてや不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。つまり、自分は聖書の神の意思を結構守れているのではないか?ところが、イエス様は何と教えていましたか?たとえ殺人を犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わっていると教えました。
以前にもお教えしましたが、フィンランドやスウェーデンには「罪」を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」に分けて言い表す言
葉があります([ス]gärningsynd、arvsynd、[フィ]tekosynti、perisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いでいる罪です。この受け継いでいる罪があるから行為に現れる罪も起こるという、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。具体的な形の罪を犯さない人でも、置かれた環境や境遇が違っていたら具体的に犯していたかもしれないのです。
マルコ福音書7章を見るとイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうのかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にしているのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。だから、本日の個所のファリサイ派の人が自分は週に二回断食してる、購入物の10分の1を神殿に捧げている、などと祈っても、それをすることで汚れは除去できておらず、神の目に罪のない相応しい者にもなっていないのです。本人はその気でいるので気の毒なのですが。それでは、人間は一体どうしたら神から切り離された状態に終止符を打てて、神に相応しい者となれるのでしょうか?
これを人間の力ではできないとわかっていた神は、それを神の方でしてあげようと、ひとり子イエス様をこの世に贈られました。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで神罰を人間に代わって受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はイエス様のこの身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠
の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間のために開かれました。神のもとに至る道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。こうして人間は、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しい者とされ、神との結びつきを持って歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので、順境の時でも逆境の時でも変わらない助けと良い導きを神から得られます。この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きている以上は罪や汚れた悪い思いを持っているということです。この点は、信仰者も信仰者でない者も同じです。ところが、キリスト信仰者の場合は、神がイエス様を用いて成し遂げて下さった罪の赦しを受け取ったので、神からそういう者として見てもらえます。キリスト信仰者は、そのように見ててもらえることを畏れ多く感謝し、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうすると神の意思に一層敏感になります。まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という徴税人の祈りはキリスト信仰者こそ祈らなければならないものになります。しかし、何も心配はありません。私たちは自分の内にある神の意志に反するものに気がつく度に、心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あそこに首をうな垂れたあの方がおられす。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫になっていることがわかります。父なるみ神は私たちを本当に憐れんだので、ひとり子を犠牲にするのを厭わなかったのです。神は罰しないで本当に赦して下さることを、私たちがわかるようにイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。
ところで、徴税人の祈りにはイエス様の十字架の言及はありません。まだ十字架の出来事が起きる前なので、それは無理もありません。しかし、イエス様はもうすぐしたら十字架と復活の出来事が起こると知っています。その時が来たら、徴税人の祈りを祈る者は心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ、神から罪を赦されていることがわかります。この意味で徴税人の祈りは、神から罪の赦しを得られて神に相応しい者とされる祈りなのです。これぞまさしく、最後の審判をクリアーできる祈りなのです。
そういうわけで、キリスト信仰者にとって「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りは、イエス様の十字架と復活の業があるおかげで、なくてはならない祈りです。イエス様を救い主と信じてこれを祈る限り、イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されるのです。イエス様を信じない人は、誰かの何に免じて罪が赦されるということがありません。それで、全て自分の力で罪の償いを神に対して果たさなければならなくなります。しかし、それは不可能です。このことを、本日の個所のファリサイ派の人の祈りが明らかにしています。自分を高くする者は低くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることがわからず、人間の知見と努力で解決できたと思った瞬間、お前には本当の罪の償いはないと言われて蹴散らされてしまうことです。自分を低くする者は高くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることを知って茫然として足がすくんでしまった瞬間、イエス様のおかげで神の御手が自分を離さずしっかり支えてくれていることです。
キリスト信仰者が復活の日の神の御許に迎え入れられる地点に向かって歩む道にはいつも罪の自覚と赦しの繰り返しがあります。しかし、最後の審判の時、神はこの繰り返しのことを、それはお前が神に相応しい者、義なる者として相応しく生きた証しと認めてくれます。その時、繰り返しは終わります。
本日の使徒書、第二テモテ4章6-8節のパウロの言葉は、この世を去る時が近づいたことを自覚した彼が、そのような生き方を総括する言葉になっています。それをもう一度お読みして本説教の結びとしたく思います。
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」
兄弟姉妹の皆さん、パウロの言葉の次の部分が私たちにとって重要です。
「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」イエス様の再臨というのは、最後の審判があったりするので怖いものに感じられます。しかし、その日は、お前は神に相応しい者、義なる者として相応しく生きてきたと認められる日です。また、罪の自覚と赦しの繰り返しが終わる日です。義の栄冠はその象徴です。だからキリスト信仰者にとっては主の再臨は怖い日ではありません。待望の日です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン