スオミ教会・家庭料理クラブの報告

11月のスオミ教会・家庭料理クラブは12日、晩秋にしては暖かい陽気の中で開催しました。今回は「オーツのリング・パン」Reikäleipä とそれにあわせてサーモンスープも作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、パンの生地を作ります。生地をよく捏ねてから暖かい場所において一回目の発酵をさせます。生地はあっという間に大きく膨らみました。パンを形作るタイミングです。生地を三つに分けて皆で一生懸命に丸めて、手とめん棒で平らに伸ばして真ん中に穴を開けます。鉄板にリングパンをきれいに並べて二回目の発酵をさせます。

パンを発酵させている間にサーモンスープの準備に入ります。野菜の皮をむいてレシピ通りに切ります。もちろんサーモンも。サーモンと野菜を鍋で煮込み始めて、発酵したリングパンをオーブンに入れます。少し経つと教会の中はサーモンとディル、焼きたてパンの香りで一杯になりました。

出来上がったサーモンスープをお皿に盛りつけ、焼きたての香ばしいパンにマーガリンを塗って、一緒に頂きます!サーモンスープは味付けも上手くできて皆さんおかわりもされて、お鍋は空っぽに。スープとパンを味わいながら、フィンランドの70年代の有名なテレビドラマ「嵐の岬のマイヤ」の主題歌を皆さんで聴き入りました。その後で、フィンランドのパンや聖書に出てくるパンの話についてのお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回は待降節(アドベント)の期間の12月10日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブの話2022年11月12日

今日皆さんと一緒に作った「リング・パン」Reikäleipäはフィンランドの伝統的なパンの形の一つです。このような「リング・パン」は私の実家があるフィンランドの西の地方では普通に作られました。私の母や祖母もいつもこの形のパンを作りました。母や祖母が作ったパンは普通はライ麦のパンでしたが、今では生地にオートミールや大麦や野菜などを入れるようになってパンの種類はどんどん増えました。このようなパンは健康にもよいのです。

フィンランドではパンは昔から毎日の食事の一部でした。今は消費が減ってきましたが、それでもフィンランド人の食事の中でパンはまだ重要な食べ物です。例えばフィンランドではパンは栄養価の高い食品として推奨されます。また、フィンランドでは毎年9月に「パンの週」と呼ばれる行事があります。その週は学校やお店でパンが健康に良いことが宣伝されます。「パンの週」には毎年テーマもあります。今年のテーマは「パンはどこで育つか?」というテーマでした。テーマの意味は、今パンを家で作らずに店で買うようになったフィンランド人に原料の麦を作ることや粉にするまでのプロセスを知ってもらうようにすることでした。人々が食物連鎖の意味やその重要性をもっとよく分かって国産の食料品の価値も高めるという狙いもあります。今年は学校でも「パンはどこで育つか?」という絵の教材を通して麦からパンになるまでの段階を教えたりしました。パンを自分で作っていた昔の人にとって、そうしたことは当たり前のことでした。

今年の夏に私は一つの小説を読みました。その小説は1800年代後半のフィンランドの西にある多島海に住んでいた漁師の家族の生活についてでした。小説の名前は「嵐のみさきのマイヤ」です。「嵐のみさきのマイヤ」はテレビドラマにもなり、主題歌はとても素敵な曲でした。小説の主人公はマイヤという女性です。この小説の中でもパンの重要性がよく出ていたので、それを少し紹介したいと思います。

マイヤの家族が住んでいる多島海の土地は不毛で麦などの食物を育てるのは簡単ではありませんでした。その上に天候の影響で収穫が少ない不作の年もよくありました。マイヤの家族には子どもが四人もいてパンの為の麦は足りるかどうかという心配がよくありました。家族の生活は貧しかったでしたが、パンを作る日は皆にとって大喜びの日でした。その日、子どもたちは蒔きオーブンの近くでパンが焼きあがるのを目をキラキラさせて待ちました。温かい焼きたてのパンの上にバターを塗る時はとても幸せな気持ちになりました。その時お母さんのマイヤは喜びに溢れていつも天の神様に感謝の祈りをささげました。

マイヤは一生懸命に家族が幸せになる為に働きました。しかし、作物が不作の年にはパンを焼く日は少なくなり、子どもたちに古くなった固いパンしか食べさせられないのは辛いことでした。そのような時でもマイヤは神様の助けがあることを信じて祈りながら働き前向きに生活していました。マイヤは、パンは神様が与えて下さるものと分かっていたのです。それは、聖書の中にパンについての教えが沢山あるからです。

旧約聖書の「列王記上」の17章にある、預言者エリアとやもめの話はその一つです。昔イスラエルに雨がずっと降らなかったため、麦が育たず、多くの人々は飢えに苦しんでいました。その時、一人のやもめは息子と一緒にとても貧しい生活をしていました。預言者エリアはやもめのところに行きました。やもめには小麦粉一握りと油少ししかなく、これはパン一回分の材料でした。やもめは、これを食べたら息子と死ぬのを待つしかないと思いました。

CC2.0, 著作権 Lawrence Lew, OP

はじめにエリアはやもめに「水をくださいと」お願いしました。やもめが水を持ってくると、今度は「パンを一切れ持って来て下さい」とお願いしました。息子と自分のための一回分のパンの材料しか持っていなかった女性はエリアのお願いを聞いて怖くなったでしょう。残りの小麦粉と油でパンを作って、それを渡したら、もう自分たちのパンは無くなってしまうからです。

しかし、エリアはやもめに「心配しなくてもいい」と言い、最後の小麦粉と油でパンを作って持ってくるように命じました。そして、その後で彼女と息子のためにパンを作りなさいと言ったのです。やもめは、なぜそのようにしなければならないのか、と聞きました。エリアが答えて言いました。「天の神様が、『私が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることはなく、瓶の油もなくならない』とおっしゃって下さったのだよ。」これを聞いたやもめはどうしたでしょうか?彼女はエリアの言うことを信じてその通りにしたのです。すると小麦粉と油は本当になくならず、やもめと息子とエリアの3人にずっと足りたのです。このようにやもめは神様の言葉を信じて、やもめと息子は神様から命をいただいたのです。

私は、この話を読んだり聞いたりすると、いつも不思議な感じがします。これは神様が私たち人間にできないことをする奇跡です。神様はどうしてこの奇跡を起こしたのでしょうか?私は、それは神様はこの奇跡を通してどれだけ人間を愛して守って下さるかを示そうとしたのだと思います。神様はいつの時代の人々も、現在の私たちのこともみんなご存じで私たちを見守ってくださる方です。神様の愛はイエス様の十字架の出来事で一番よくあらわされています。神様の人間に対する愛は、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油は無くならない」と言うように、いつまでも続くものです。

パウロは新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の中で神様の愛について次のように教えています「誰が、キリストの愛から 私たちを引き離すことが出来ましょうか。艱難か。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」8章35節です。その答えはこうです。何があっても、どんなことが起こっても、「私たちの主キリスト・イエスによって示される神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。」8章39節です。

神様は、約束されたようにいつも私たちを守って下さいます。このことを忘れず日々を感謝の気持ちを持って過ごしていけたらと思います。

新規の投稿