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2022年12月4日(日)待降節第2主日 主日礼拝 聖書日課 イザヤ11章1~10節、ローマ15章4~13節、マタイ3章1~12節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課の箇所は洗礼者ヨハネの活動開始についてです。これは旧約の日課イザヤ書11章と使徒書の日課ローマ15章と結びつけて見ると内容がとても深くなります。限られた時間で全部をお話しすることはできませんが、特に今日大事と思われることをお話ししようと思います。
洗礼者ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年です。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その年を数え入れて15年目なのかどうかは定かではありませんが、いずれにしても西暦28年か29年の出来事です。このように洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。
洗礼者ヨハネのスローガンには二つのことがありました。一つは「悔い改めなさい」、もう一つは、悔い改めなければならない理由として「天の国が近づいたのだから」でした。まず「悔い改め」とはどういうことか見ていきます。「悔い改め」と聞くと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、もとのギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)にはもっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改める、生き方を方向転換して神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。それなので、この説教ではこれからは「悔い改め」という言い方はしないで、「神のもとに立ち返る」という言い方をしますのでご了承ください。
次に悔い改めなければならない理由としてある「天の国が近づいたのだから」を見ていきます。「天の国が近づいた」ということは何のことでしょうか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が「天国」と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地のいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?
「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国でしょうか?「ヘブライ人への手紙」12章に次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされないものとして現れるのが「神の国」です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時、神の国が見える形で現れることが預言されています。
このようにキリスト信仰はこの世には終わりがあるという立場をとります。しかし、終わっても終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が到来する、それで今のは終わるということです。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。この壮大な天地大変動の時にイエス様が再臨して審判を執り行うのです。イエス様が行う審判のことが今日の洗礼者ヨハネの言葉、麦の殻は永久に消えない火に投げ込まれるという言い方で言われています。これとは逆に神の国に迎え入れられる者はパウロが第一コリント15章で言うように「復活の体」という創造主の神の栄光を映し出す体を与えられて迎え入れられます。黙示録21章4節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。 この将来到来する神の国と審判を行う者については今日の旧約の日課イザヤ11章でも預言されています。どのように預言されているか見てみましょう。
まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡したことを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒廃し民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できました。しかし、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、それがダビデ家系に属する者として生まれたイエス様だったのです。
そのイエス様が最後の審判で裁きを行う時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も助言も力も知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。
「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」というのは、旧い世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされるということです。「「この地の貧しい人」というのはヘブライ語の辞書を見ると、貧乏な人たちでなく「神の前にへりくだった人たち」のことです。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢い」というのは辞書を見ると、「口から吐かれる息(ברוח)」で、それが強風のように神に逆らう者たちを永遠の死に吹き飛ばすという意味になるでしょう。
最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼できること、頼れること」という意味です。最後の審判者はいでたちからして、文字通り正義を体現して信頼しきって大丈夫な方だということです。
6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩のような美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。それはあたかも水が海を覆い満たしているのと同じであると。このように「神の国」では、神を知らないことが存在しないので、神の意志に反する罪も存在しません。ここで野獣や猛獣が草食動物のようになっていますが、新しい世の有り様がかつての天地創造の最初の状態に戻ったことを表しています。創世記1章30節を見ると、堕罪が起きる前、獣もみな草を食べていたことが言われています。
10節「その日」、つまり新しい世が到来する時です。それは、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時です。その時、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言ってますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、ユダヤ民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。(この10節をパウロが本日の使徒書の日課ローマ15章12節で引用しています。双方をよく比べて見るといろいろ違いがあることに気づかされます。これは、パウロが引用しているのはギリシャ語版の旧約聖書だからです。ヘブライ語の方は諸民族の動きに焦点が置かれていますが、ギリシャ語の方はエッサイの芽つまりメシアのイエス様の動きに焦点が置かれています。)
最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。
さて、そんな夢のような国が2000年前に洗礼者ヨハネが「近づいた」と言ったのです。これは一体どういうことなのでしょうか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?ヨハネの時代から今までを振り返ってもそんなことは起きなかったではないか?
実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それなので、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が終わって新しい天と地が再創造される日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、神の国を人々に体験させられる方が来られる、その方が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。
そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。神の国が近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主である神に背を向けていた生き方をいい加減やめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。
ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書24章21-22節、26章20-21節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、神の怒りと裁きから助かるためには、神の意思に反する罪を犯してしまったと正直に認めて赦してもらわなければ、と人々が考えたのは無理もありません。皆こぞってヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。
人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考えたと思われます。しかし、ヨハネの意図は全く別のところにありました。彼が言うように、罪の問題の解決のために自分よりも強力な方がもうすぐ来られると。つまり、神の国に迎え入れられるために神の怒りと裁きから助けられるのはその方である、自分はその方が成し遂げる解決を人間が受け取ることが出来るように、そのために人間を罪の自覚と告白に導く役割を果たすということだったのです。それがイエス様の到来に備えて道を整えるということだったのです。
それでは、イエス様はどのように罪の問題を解決して下さったのでしょうか?それは、彼が神から贈られた神聖なひとり子でありながら、否、神聖なひとり子であるがゆえに、これ以上のものはないという位の神聖な犠牲の生贄になって私たち人間の持っている神の意志に反する罪を私たちに代わって神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。イエス様は私たちに代わって罪の神罰を受けられたのです。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦し神罰を受けないで済むようにするという手法を取ったのでした。そこで人間が、このことはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いを自分のものにすることができます。それでその人は罪を赦された者と神から見なされるようになります。
しかしながら、洗礼を受けたとは言っても、人間はまだ肉を纏っているので神の意志に反する罪を内に持っています。それでは、洗礼の後はどうしたらいいのでしょうか?それは、罪の自覚を持ち、神に対してそれを告白して、神から罪の赦しを頂く、これを繰り返していくことです。自覚と告白のたびに神は洗礼の時に与えた聖霊を通してゴルゴタの十字架にかけられたイエス様を私たちに示して下さいます。そこに罪の赦しが確実にあることを教えて下さいます。この時人間は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちに満たされて罪の言いなりにならないようになる力を頂きます。これを繰り返していくのです。繰り返しをすることで神は、あなたが罪に反抗する生き方をしていると認めて下さいます。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。先ほど申したように人間は洗礼を受けても罪を内に持っています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの中で生きることになり、罪の自覚と告白と赦しの繰り返しの人生が始まります。罪から浄化されるプロセスに入るのです。やがて、このプロセスが終結する日が来ます。肉の体に代わる、神の栄光を映し出す体を着せられる復活の日がそれです。
終わりに、ヨハネが結びなさいと命じている「悔い改めに相応しい実」とは何かについて述べておきます。この説教では「悔い改め」とは「神への立ち返り」のことだとしたので、「神への立ち返りに相応しい実」です。これはいろいろな内容を含みますが、何にしても、この「実」を考える際に忘れてはならないことがあります。それは、「神への立ち返り」とは何かを覚えていることです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神の罪の赦しのお恵みの中で生きることがそれです。その中で生きるとは、罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることを繰り返して生きることです。これが神への立ち返りです。ここからどういう「実」が実るのかを考えるのです。
私は、ローマ12章から後に書いてあることにその具体的な内容があると思います。今日の日課はその15章ですので、今日はそれに限定して「実」の内容を見てみます。日課は4節からですが、この区切りは良くなく、1節から見るべきです。「実」を理解するカギは7節にあります。パウロの言葉を借りると、次のことが「実」であることがわかります。
キリストは、もともと神の民・ユダヤ民族に属さない異邦人であるあなたがたを受け入れた。それは、神の栄光がこの世で一層明らかにするためであった。だから、あなたがたもキリストに倣ってお互いを受け入れなさい。そうすることで神の栄光がこの世で一層明らかにされるのだ。このように、キリストに倣ってお互いを受け入れることで神の栄光をこの世に現わすことが「実」なのです。
そこでキリスト信仰者がお互いを受け入れるというのはどういうことかが1節からの箇所にあります。
力ある者は、ない者の弱さを辛抱してあげること、自分のことだけを考えないこと、隣人にとって何が良いかを考えて隣人を強めてあげられるようにすること、隣人が蔑みを受けたら代わりに受けてあげること。つまり、キリストがあなたにしてくれたことを思い起こして、相手にも同じようにしてあげること。このようにキリストのことを思い起こして、仲たがいなどせず、皆で思いを一つにすること。これが「実」です。
「思いを一つにしている」は、次のように出来ていれば、そうなっていることになります。お互い同じ復活の希望を持っているのだ、それでお互い同じ喜びと平安を持っているのだとわかって、それで一緒に、この罪の赦しのお恵みの神に感謝し、一緒に神を賛美すること。これが「実」です。そうすると、今まさに皆さんがしているように、心から礼拝に参加することが実を結ぶことになるとわかるでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン