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「神との和解」 2023・2・12(日)
マタイ福音書5章21~34節
今日の御言葉は、有名な「山上の垂訓」と呼ばれる、マタイ福音書5章です。 1節の始めを見ますと、「イエスは、この群衆を見て山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで口を開き教えられた。」とあります。「山に登られた」とありますが,ガリラヤ湖を望む高原の小高い丘であります。ここを読む毎、私はイスラエルの旅でこの場所に立った時の事を思い出します。周りを木々に囲まれた森のような下で、世界中から訪れるクリスチャンが皆な手を取り合って輪になって祈り合っています。教会が建てられ眼下にガリラヤ湖が広がって素晴らしい所です。この場所でイエス様は弟子たちに大切な教えをなさったのです。さて、今日の聖書は5章21節からです。実は17節から20節までのところでは「十戒」についての大変きびしい教えです。律法の中心は十戒です。そして、今日の聖書の21節から48節までは、その十戒の中の五つだけを取り上げて語っておられます。その一番初めに「殺すな」という戒めについて教えられています。21節から見ますと「あなた方も聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」人を殺す、と言うことはどんな意味でも決して許されるものではありません。ところが現実の世界を見てください。戦争という名のもとに多くの人々が殺され家を壊され、人の生活が破壊されています。しかも、何年も続いている。次にイエス様は何と言われたかというと、22節「しかし、わたしは言っておく、兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院に引渡され『愚か者』と言う者は火の地獄に投げ込まれる。ここで、イエス様は誰でも怒った者は裁きに合う。と言われました。怒った者は殺したも同然だ、とは言われてない。しかし、両方とも裁かれるのだ、と言っておられます。ここには人を憎んだら、とは言われません。怒ったら、と言うのです。怒ることは憎むことよりもっと悪いことは言うまでもありません。もし、そうであるなら私たちはどうでしょうか。たびたび怒ってしまいます。頭に来た!とか、腹がたつ!と感情的になってしまいます。そうすると、イエス様の言葉からすると、私たちもたびたび殺人に等しい罪を犯している。怒ったから、と言って殺人にまで発展する事はありませんが、イエス様は同じように裁きを受けるのだ、と言われます。大変きびしい言葉であります。人を殺した者が裁きにあうことは分かります。当然です。しかし、怒った人が裁きにあう等と言うことは私たちには、とても考えられない。この当時、ユダヤ人の間では怒った者は裁判にかけられた、というのです。しかもその怒りと言うものは、いつまでも忘れない怒りであります。そこのところが大切な事です。怒ると、どうして殺した、事と同じになるのか、理屈ではない。どちらも神の裁きにある、ということです。普通の常識では考えられない、ことでありますが、ただ信仰を持っている者だけが信じる事のできることです。信仰者にとってはどちらも神の前に行われることでことでありまして、怒られた人も又神によってつくられた兄弟であり一人一人尊い人格を持った人でありますから、従って、怒ったら神に対して責任を取らねばならない事だからです。イエス様が神の目を持って人間に対して鋭く神の世界、信仰の世界から言われるのです。神に対しての責任からして、神の裁きを受けるのだ、ということ。神の裁きということが信仰生活の中で何か古い事のように思われて、私たちの実感として、どれ位あるのか問われているわけです。私たちは神のことを第一にする、と言いますが神様の生きた働きがはっきりと実感として、受けとめられた生活であるか、どうか問われています。「裁き」というのは、神が私たちの中で、私たちのすること、なすことに正しく判断なさる、自分に都合のいいような、曖昧な事はなさらない方である、という事です。神が「私の中に生きておられる」ことを信じる、ことであります。神の裁きがある、と言っても、いつもびくびくして、生きるということではありません。神が生きておられる、 このこ事を信じて生きることです。この事をイエス様は、この教えの中ではっきりさせたい、と思われているのです。
次にイエス様は言われます。「兄弟に向かって、愚か者、と言う者は議会に引き渡されるであろう。」そうすると、怒るというのは「兄弟に対して愚か者」と言うことと同じになります。しかも、「愚か者」と言ったら議会に引き渡されるのですから、怒った者が裁きに会う、というのは、やはりユダヤ人たちの裁判にかけられる、ということであります。ユダヤで議会というのは国会のようなものです。この当時ではユダヤ人たちの生活の中心になっていた所です。祭司が議長になって、全部で71人で構成されていました。いずれにしろ、怒ったり、愚か者と言う者は何れかの社会的制裁を受ける、という時代であったのです。イエス様は、そういうユダヤの現実社会の事実を取り上げて、御自分の考えと神の子の権威を示そうとしておられます。その後、又、又凄く厳しい言葉を言われます。「ばか者、と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」と。これは大変な事であります。なぜ、イエス様はこれ程まで、厳しく言われるのでしょうか。どんな意味がそこにあるのでしょうか。この事は5章21節から5章の終わりまで十戒の内の五つの戒めを引き合いに出して同じ形式で言っておられます。みんな通じる事です。その形式は「あなた方も聞いているとおり、と『十戒の戒め』をあげて、しかし私は言っておく、と宣言して厳しいイエス様の常識では考えられない厳しい言葉をもって踏み込んで宣言しておられます。例えば、「敵を愛しなさい」と言われる。43~44節を見ても同じ形式です。あなた方も聞いているとおり「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイが、この福音の中で証し示そうとしたのは、そうした「厳しい言葉を宣言される、お方が来られた」という事であります。このお方は律法に対してさえ「わたしは言う」と言って全く同じ権威を持っている事をお示しになったお方でありました。4章17節で、イエス様はガリラヤ伝道を始められる時、「天の国は近づいた」と言われた。天の国、つまり「神の国が来た」ということは文字通り大変なことであります。それは、「神の支配が来た」ということだからです。今まで、この世界は誰が支配していましたか。ヘロデ王ですか、ローマ皇帝ですか。或いはこの世を支配しているのは政治家ですか。いや、やっぱり金が支配しているのだ、と言うかもしれません。律法学者の律法かもしれません。ところが、いまや、神が支配されることになった。と言うのであります。神の御子が神の国をもたらす時が来た。このお方は神の支配を口にし、神の支配をもたらし、実行し、ついには十字架の死と復活をもって、証明する、そういうお方が言われているのです。「わたしは言う」と、ここに権威があるのです。それは、ただ口先で「神の国は来た」と言われるのではありません。このお方の全生涯を通して、実行されて行く背景があるのです。その背景は神の御子イエスの歴史であって、天の御父が、彼と共に従順を通して復活まで共に行かれたものです。「わたしは言う」と言われる言葉の力はここにあるのです。それは、神の御子であられるイエス・キリストの歩まれた道、でわかる、ということです。それを、もとにして「わたしは言う」と言われるのであります。5章から7章までの「山上の教え」の全ての言葉がこれにかかっているわけです。私たちの「兄弟に対して愚か者」と言うなら地獄の火の裁きを受けねばならない。これを言われたら絶望してしまうでしょう。そういう絶望してしまう弱い立場の者の事をみな知った上で、それに対する救いをも、もたらして下さる、十字架の死をもって、その罪を身代わりに受け、復活して、永遠の生命を与えて下さる、その用意をされて告げておられるのであります。イエス様は神の裁きの厳しい宣言を誰に語っておられるか、と言いますと、山上の説教を聞いている人々、特に弟子たちに語られている。もっと言いますと、この言葉は神によって生きる信仰をもった人々、つまり後の教会生活をする信仰者、すべての人々に向かって言われる言葉であります。
だから、マタイは兄弟という言葉を度々使っています。それは、教会の中の兄弟でもあります。信仰者の間で「ばか者」と呼ばわりするような者は地獄の火の裁きである、ということです。教会ではお互いに愛し合う兄弟姉妹です。従ってキリストにあって罪があることを知らされ、キリストによってそれが赦された、ことを知って互いに愛し合うのであります。それならば、「殺さない」ということは勿論のこと、「怒らない」ことも兄弟に対して「愚か者」と言ったりしない生活ができるのは教会の中であります。ところが、現実には信仰者は教会の枠を超えた、この世の只中に生きている、そこに生けるキリストも共に働いて下さる。パウロは、ローマ人の手紙の中で4章8~15節に次のように書いています。「私たちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死にます。だから、生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のもの、なのです。キリストは死んだ者と、生きている者の主となるために死んで、復活されたのです。それだのに、あなたは、なぜ兄弟を裁くのですか。なぜ、ばかにするのですか。キリストは兄弟のためにも死なれたのです。」イエス様は腹の立ついやな奴のためにも十字架に死なれたのです。私たちは、どうしても赦せない恨みでイエス様を苦しめてしまったのです。そこで、次にマタイ5章23~24節を見ますと、イエス様は仲直りをせよ、と言っておられる。前の方で怒る者は裁きにあう、と言って後の方では恨みを受けるなら供え物をする前に和解しなさい。と言っています。「殺すな」という戒めから話がこのように進んできた。よく考えてみると裁き、と和解とは決して関係がないもの、ではない。むしろ裁きは当然、和解を求めるはずでありましょう。裁きは裁きだけで終わるはずがありません。何故ならそれでは何の救いもない、結果は破滅に向かうだけだからです。戒めは「殺すな」ということであっても、滅びに終わるはずはないのです。「殺すな」と言って、ただ殺さなければ良いと言うものではない。その戒めが深刻に扱われれば扱うだけ救いに近づくことになるはずであります。重要な事は、それが礼拝と結びついている、ということであります。「殺すな」という戒めを考えた、そこから「怒るな」ということになって、それを礼拝の前に持って行けばどうなるでしょう。イエス様は、わたしは言っておく、と言って「愚か者」という者は火の地獄に投げ込まれる。23節で、突然、だから「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを、そこで思い出したら・・・・」と書いてあります。「そこで思い出したら」とあります。祭壇の前では私たちに隠されていた多くの事が突如として頭に浮かんでくる、と言うのです。礼拝の話が語られて行くのです。礼拝では今まで考えていなかった事が急に思い出される。つまり、神の前に、あらゆる意味で自分の罪の深さを、改めて思わされる、というのです。それで、礼拝に於いて一番初めに罪の告白をいたします。実際に礼拝に於いて、思い出す事は、恨みや、憎しみ、自分のした事、罪として告白すべき、いろいろな事であります。そういうことを、ここで思い出す、ことは何のためか、と言いますと、自分が犯した罪によって神の裁きに会わねばならない、という問題があるからです。もし、そうであるなら、それは怒った時と同じです。怒ったら裁きに合うのだ。そしてついには神の裁きに合うという事になるはずであります。そこで、礼拝に於いて裁きを受けねばならない立場にある、自分が神から赦していただくことであります。つまり、神との和解と言っても良いでしょう。なるほど、私たちは罪を赦されているにちがいない。罪を赦された、と言うのはいつでも赦しの言葉を聞いている、ということです。絶えず、礼拝の度に赦しの声を聞き、それを信じていることであります。洗礼を受けて信仰に入っている、と言うことは、いつでも悔い改めて、神からの恵みを新たに信じる用意が与えられている、ということです。ある人が言いました。「神の赦しを真剣に求める者は兄弟に向かって、行った正しくない事をも考える。このような思い出しこそ、神礼拝が私たちにもたらす祝福である」と。どこまでも、まことの赦しは、神からのみ出るのであります。神との和解が人との和解へと変えて行くところに祝福があるのです。 アーメン
人知では、とうてい測り知る事の出来ない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。