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「永遠の命に至る水」 スオミ教会2023年3月12日(日)
ヨハネ福音書4章5~42節
今日の聖書は、イエス様とサマリヤの女がヤコブの井戸で出会われた、有名な話です。 まず、4章からまとめて見てゆきますと、バプテスマのヨハネが領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられた。そのためバプテスマの弟子たちによりイエスの弟子たちがの方が増えてゆく。すると、どうなるかユダヤ教のファリサイ派の連中がイエスの方に競争相手としてトラブルを起こしかねない。そう思われたイエス様は危険を感じられて洗礼を授けることを一切やめてガリラヤ地方へ行く決心をされたのでした。ガリラヤ地方へ行くにはサマリヤ地方を通って行かねばならなかった。サマリヤに「スカル」という町がありました。イエス様はそこへおいでになりました。そこには、ヤコブの井戸があった。そこへ「サマリヤの女」がわざわざ「井戸の水くみに来た」というのであります。ここに「わざわざ」とあります。これは、ちょいと近所の井戸に「水くみに来た」といったものではない。近くにはいくつもの泉もあるのに、」2キロも3キロも歩いて来るという、特に聖なる井戸の聖なる水を求めて来た出来事であります。現在ここにはギリシャ正教の聖ヨセフ教会が建てられています。教会の建物の中から階段でずうっと地下に降りて行きますと直径3m程の井戸があります。実際イエス様が座られた井戸です。私も前にこのヤコブの井戸へ行き自分で水くみ用の竿にバケツを下げてくみあげました。とても冷たいおいしい水でした。4月のはじめの頃でしたが気温30度以上のとても暑い日中でした。6節を見ますと「イエスは旅に疲れられ、そのまま井戸のそばに座っておられた。「正午頃であった」とあります。暑さの中イエス様は旅の疲れで、口も渇いておられましたから、ここの水をくみに来た女に「水を飲ませて下さい」と乞われたのです。9節では、サマリヤの女は言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに飲ませてくれ、とおっしゃるのですか」と女は驚きました。どうして、女は驚いたのでしょうか。まず、一つには見たところユダヤ人のラビのように見える男である、あなたが「女のわたしに」声を掛けるということ自体に驚きました。ふつうなら家族以外の見知らぬ男の人から女に向かって声を掛けられること自体あり得ないことでした。ユダヤ教の学者が女性に話すことは最も恥ずべき事と信じていたからです。しかし、もっと驚くことは「あなたはユダヤ人でありながら、サマリヤの私に水を乞う」ということが又驚きでした。ユダヤ人とサマリヤ人との間には紀元前722年にサマリヤがアッシリアという大国に滅ぼされる、ということがあって、又ユダヤもバビロン大国に滅ぼされる、という悲惨な歴史が始まって以来、ユダヤとサマリヤの両方の間に神殿をめぐって激しい憎しみの間柄にありました。ですから、サマリヤの女は、ユダヤ人である、あなたが「水を飲ませてくれ」と乞うのですか・・・、これは内心たいへんな驚きです。イエス様はそうした全ての事情を知った上で、この女と関わってゆかれるのであります。福音書記者は「ユダヤ人はサマリヤ人とは交際しないからである」と記しています。ここに「交際する」と訳される言葉には「一つの品物を共に用いる」という意味が含まれましたから。さらにサマリヤの女は言います「主よ、あなたは汲む物をお持ちにならない」ではないか。それなのに不浄の身である女に、つまり汚れている身である女の使う釣瓶やバケツやコップといった品物を共に使うということは禁じられているのではないのですか、と言うのです。これが女の最も驚いたことでした。ここから、イエス様はサマリヤの女との間に絶妙な会話がなされて行くのでした。恐らく実際にはもっといろいろな話し合いが交わされたことでしょう。福音書記者は独特の手法でまとめているわけです。3章の始めにニコデモという偉い人が夜こっそりイエスのもとを訪れる話があります。3:2「ラビ、私どもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています、神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを誰も行うことは出来ないからです。どうして、そのようなしるしが出来るのでしょう」と問うているのにイエスは謎めいた、神秘な短い言葉で語られる。「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」そうすると、相手の方はその言葉の深さを理解できない、それで頓珍漢な返事をする。年取った者がもう一度母の胎内に入って生まれることでしょうか。それに対してイエスは答えられる。「水と霊とによって、生まれなければ神の国に入ることはできない。」ますます分からない。風は思いのままに吹くと答えられる。イエスは深い意味で教えてゆかれる。こういう形でイエスの深い神秘な啓示が開かれてゆく、とい手法であります。イエス様とサマリヤの女との対話も全く同じであります。はじめに「水を飲ませて欲しい」というイエス様の呼びかけにサマリヤの女の方は驚きます。私たちの信仰生活の生涯の中でも考えられない驚きや奇跡をイエス様は何度も起こしておられるのではないでしょうか。驚きの中で更にイエス様はサマリヤの女に言われた。「なに!私が誰であるか、神の賜物が何であるかを知ったらお前さんの方から頼み込んでくるはずだ」と変なことを言われる。そこで女は「なにさ!自分の方から水をくれ、と言っておいて変なことを言う、あなたはどこからどうして水を手に入れるのですか」と疑問が出てくる。そこから会話は絶妙に発展してゆきます。10節では更に大切な言葉が進みます。それは「水を飲ませて下さい、と言ったのが誰であるか知っていたならばあなたの方からその人に頼むようになり、その人は生きた水を与えたことだろう。」ヤコブの井戸の水は確かに渇いた口を潤してくれる。が又渇くあろう。しかし、その人の与える水はそうではない。「生きた水であって、尽きる事がないのだ。」この生きた水は14節の終わりで示される、それは「永遠の命に至る水」のことである。私たちは、もうこれが一つの霊的なものの象徴であることを悟ることができるでしょう。では「生ける水」とか「イエスの与える水」とか「永遠の命に至る水」とは何のシンボルなのか、ということです。旧約聖書を読んできたユダヤ人やサマリヤ人には少なくとも二つのことは、すぐ分かることでした。第1は「水」と言うとき、神様からの啓示或いは神様の言葉のことです。水は神様が授けて下さる知恵の象徴であります。今日の会話のところで言いますと、サマリヤの女はイエスのことを「預言者である、とお見受けします」と言っています。そう言って次に礼拝の場所の違いが問題になりイエスは教えられます。神は霊である、だから霊と真理を持って礼拝をしなければばらない。25~26節では女はこう言います。「私はキリストと呼ばれるメシアが来られる時、私たちに一切の事を知らせて下さいます。」するとイエスは言われた。「それは、あなたと今、話している、この私である」。この瞬間サマリヤの女はどんなに驚いたことでしょう。29~30節で、その様子がわかります。女は「メシアが来られた」と叫んで人々に伝えたのです。ですから「イエスが与える水」と言うのは何よりも「一切を知らせる神からの言葉、そのものである」という事ができる。もう一つは旧約聖書からの象徴で「神の霊」を「水」ということで表していることです。ヨハネ3章5節でイエスはニコデモに向かって言われた。「水と霊とから生まれなければ神の国に入ることはできない」。同じようにヨハネ7章37節では、もっとはっきり分かるようにイエスは祭り終わりの大事な日に立って言われた。「誰でも、渇く者は私のところに来て飲むがよい。私を信じる者は聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。これは信じる人が受けようとしている御霊を指して言われたのである。」イエス様とサマリヤの女との出会いの最後にはこの女は救いとなる」「生ける水」を得ることになりました。そして、まことのメシアに出会って希望に満ちた喜びに変えられました。
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毎日毎日、人目を忍んで日照りの長い道のりを、ひっそり水をくみに来るその罪ある女は、もうこれからは心の中の真の渇きをすべて満たしてくれる尽きることのない「生ける水」を得ることが出来たのであります。私たちは、イエス様が与えて下さっている「生ける水」をどう受け取って生かされて行きましょうか。私たちは、この世で物質によって生きている、空気も水も食べ物も、これにたよって一生懸命です。この世では物質によって生かされています。しかし、この世にいつまでもいるわけにゆかない。魂だけの霊の世界です。物質は何もない、頼りにはならない世界です。霊の世界で「永遠に生きる」ものを聖書は示してくれているのです。霊の世界での「生ける水」は神様から特別にあらわされた御言葉であります。神様からの御霊が注がれることであります。神様が神の救いの御旨を人間に知らせて下さり、それを人間が受けて新しく変えられる、それがすべて、この「生ける水」、それは神の言葉、愛の世界であります。イエスというお方は私たち人間の魂が救いを喘ぎ求めている渇きを満たして下さるのです。イエスは又私たちに神の救いと神の知恵とを与えて救いの喜びを味わせて下さいます。その象徴は、まことの「生ける水」「永遠の命に至る水、神の愛、神の言葉であります。ヨハネは3章34~36節でこのことを記しています。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が『霊』を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手に全てを委ねられた。御子を信じる者は永遠の命を得ている。」私たちは毎週の日曜礼拝に於いて教会の中心であるイエス・キリストから神の言葉を聞きます。神の言葉の霊の力によって、神の救いに至る永遠の命を与えられています。ペテロは第1の手紙で1章22~23節に次のように書いています。「あなた方は真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから清い心で深く愛し合いなさい。あなた方は朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち神の変わる事のない、生きた言葉によって新しく生まれたのです。」サマリヤの女は、まことのメシア、キリストに出会って全く新しくされ、永遠の命の魂に生かされる人生へと変えられました。私たちも神の言葉が私たちを霊的に新しくされ永遠の命の魂へと生かしてくれるのであります。
アーメン
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