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マタイ福音書の16章に、イエス様が弟子たちにこれからエルサレムで起こる自分の受難について予告した時、それを否定したペトロを叱責する場面があります。 その時イエス様がペトロに言った言葉、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16章23節)。ペトロをサタン呼ばわりして、失せろ!と言うのはとても厳しいお言葉です。
先日フィンランドのトゥルク市にあるSLEYのルター教会の礼拝説教を聞いていると、T.ニスラ牧師が、今回説教を準備した時、ひとつ新しい発見をしたと言って以下のことを教えました。
「引き下がれ」(フィンランド語訳では「どけ」)はギリシャ語原文では、ヒュパゲ(行け/立ち去れ)オピソームー(私の後ろに)である。「引き下がれ」と訳したら、オピソームーの意味が消えてしまう。オピソームーは大事な句である。イエス様がペトロとアンドレに「私について来なさい」と言った時に使われた(正確には「私の後ろについて来なさい」マタイ4章19節)。「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言った時にも使われた(正確には「私の後ろについて来なさい」マタイ16章24節)。それなので、マタイ16章23節は本当は、「私の前に立ちはだかるのをやめて私の後ろにつけ」という意味になる、ということでした。
イエス様は神と人間の失われていた結びつきを回復するために十字架の死の受難を受けて復活を遂げるという使命を帯びていました。それを否定しようとするのは結びつきを邪魔する悪魔と同じ立場になってしまいます。ペトロよ、即刻その立場から離れて、私の後ろにつけ、お前は私の前に立ちはだかるのをやめて私の後に従ってついてくればよいのだ、ということなのです。そして、十字架と復活の出来事の後、イエス様の後ろについていくというのは、彼が打ち立ててくれた罪の赦しのお恵みから外れないようにその中に留まって生きるということになります。そうすることで私たちは復活の初穂であるイエス様に続いて復活を遂げるのです。
言い訳がましくなってしまいますが、私の辞書(ギリシャ語・スウェーデン語)がオピソームーを、基本は「私の後ろに」だが、マタイ16章23節は「私のもとから」と訳していいなどと言うので見落としてしまったのでした。本当は、「私の前に立ちはだかるのをやめて私の後ろにつけ」なのに、「私のもとから立ち去ってしまえ」になってしまったのでした。イエス様の本意は過ちをした人を遠ざけてしまうことではなく、ご自分の後につき従わせて罪の赦しのお恵みに与らせることなのでした。
どうして辞書がそんな理解を示してしまったか少し考えてみました。旧約聖書のヘブライ語ではよく「行け」という命令形の「レーク」が次に来る文の導入的な役割を果たします。例えばサムエル上16章、次主日の日課なので見てみると1節「レーク(行け)エシュラ―ハカー(私はお前を送る)」。「私はお前を送る」が主で、「行け」はそれに注意を喚起する飾り言葉のようなものです。イエス様のペトロ叱責も同じように考えてもいいのではないだろうか?もちろん、イエス様とペトロはアラム語で会話していますが、動詞「行く」はヘブライ語もアラム語も同じ「ハーラク」です(命令形は違いますが)。同じようにイエス様の「ヒュパゲ」(行け)も、次に来る「オピソームー」(私の後ろに)の導入的なものとみなして、強調点は「私の後ろに」に置かれるという具合に。
そのように考えると辞書を書いた人たちは「ヒュパゲ」にこだわりすぎて、「立ち去れ、私の後ろに」とつじつまがあわなくなって、「私の後ろに」ではなく「私から」に訳したほうがいいなんていったのではないかと思われた次第です。