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主日礼拝説教 2023年3月26日(四旬節第五主日) 聖書日課 エゼキエル37章1-14節、ローマ8章6-11節、ヨハネ11章1-45節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。この出来事は、先週の日課の出来事、生まれつき目の見えない男の人の目を見えるようにした奇跡の出来事と共通点があります。先週の個所でイエス様は、男の人の目が生まれつき見えないのは神の業が現れるため、と言いました。今日の個所では、ラザロの病気は神の栄光のためである、と言います。病気や障害が神の業のため、神の栄光のため、などと聞くと、大抵の人は、目が見えるようになること、死んだ人が生き返ることが神の業、神の栄光の現われであると理解すると思います。ところがそうではないということを先週お教えしました。
少し振り返りますと、旧約聖書の預言者イザヤの時代から人間の霊的な目が見えるようになる時が来るという預言がありました。目の見えない男の人の場合は肉眼の目が見えないことが問題だったのですが、人間の本当の問題は霊的な目が見えないこと、それがイエス様とファリサイ派の人たちとの対話からわかります。実にイエス様は肉体的な目が見えるようになる奇跡の業を行うことで、霊的な目を見えるようにする力が自分にあることを前もって思い知らせたのです。
人間の霊的な目が見えるようになるのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事をもって始まりました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを持ててこの世を生きられることになり、永遠の命に至る道に置かれてその道を進むことになるという、肉眼の目で見えないことが見えるようになるのです。
このように、生まれつき目が見えないのは神の業を現すためと言う時、肉眼の目が見えるようになることが神の業の現われであるという理解は理解はまだ浅く本当の理解ではありません。奇跡の業は霊的な目が見えるようになる前触れ的な出来事で、その目が見えるようになることが本当の神の業を現すものなのです。それが深い理解で本当の理解です。
本日のラザロの生き返らせも同じです。死んだラザロを生き返らせたことが神の栄光の現われであると言ったら、それは浅くて本当の理解ではありません。では、ラザロを生き返らせることで神の栄光が現れると言ったら、何が神の栄光なのか?今日はラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解ができるようにしましょう。
深い本当の理解に入っていく前に、理解に役立つ予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を詳しく記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神であるというのがキリスト信仰です。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。
復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。
そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。
それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみましょう。
イエス様がやって来たと聞いてマルタは彼に会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。つまり、ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。
それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタは自分でハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」の場合だと今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。
そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。
それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる人は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりはなくならず、復活の日が来たら永遠の命そのものを持つことになります。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そうすることが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。
イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?
これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にも見られたのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。
マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは同じ現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。現在完了などと言うと、中学高校の英語の授業みたいで嫌だと思われてしまうかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語のとは違うので忘れて大丈夫です。むしろ忘れた方が都合がいいです。マルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟ることができて信じるようになりました、ではないのです。その場合は、エピステウサになります。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。
このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。それを明らかにします。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。
しかしながら、復活には、死の引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているという観点に立ちます。そして、罪は人間誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。神としては、人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげたい、そのためには結びつきを持てなくさせてしまっている罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部受け負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせる、そのようにして人間の罪の償いを彼に果たさせたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。同時にそこに至る道を人間に切り開かれました。それでイエス様は復活と永遠の命を手に持っていらっしゃる方なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この世を去った後は、それこそ復活の日に眠りから目覚めさせられて永遠の命と復活の体を与えられて神のもとに永遠に迎え入れられます。
マルタはこのような復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活させて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しのお恵みにしっかり留まるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼に復活の目覚めをさせる力があること、この2つを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
以上、ラザロの生き返らせの奇跡の業は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の業の両方をもって、イエス様こそが復活と永遠の命を手中に収めており、それを私たちに与えて下さる方であることを示したのでした。これが、この奇跡の業が現す神の栄光です。これがこの奇跡の業の深い本当の理解です。
最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つ目は、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書を見ても皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。
もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている地方に行くのは危険です、と押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。
「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」
分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある。明るさと暗さが危険とどう関係するか考えてみなさい。太陽が照る日中は明るいから転んだり何かにぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、あなた方がこの世の光である私を見て、私もあなた方の内にいると言えるくらいに私と結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。当時の弟子たちと違って私たちはイエス様を肉眼の目では見れませんが、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を霊的な目れれば、イエス様というこの世の光を持てていることになり、守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになり危険に晒されてゴールに到達できないということです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン