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釈義学の研究者が競うようにして実際のイエスを再構成した結果、福音書に描かれるイエスと異なるイエスが無数に輩出します。 イエスの発言が福音書の趣旨と再構成された趣旨とで180度正反対というものもある位です(例として思いつくのは、80年代頃までイエスのたとえ研究の世界的権威であったJ.エレミアスのマルコ4章12節の解釈、現代世界の釈義学の重鎮の一人J.クロッペンボーグのマルコ12章1~12節の解釈。著名な研究者や権威ある教授が提唱したとなれば、市井の人は信じざるを得ません。学術的なイエスと聖書的なイエスのどっちを信じればよいのかと悩む人も多く出ました。人によっては伝統的なキリスト信仰を覆してやったと前衛的な気分に浸った人もいたかもしれません。
ここで注意すべきことは、研究者が打ち出す歴史的イエスは学術的な手法を用いて構成された像で、研究者が用いる手法や前提にする方法論が異なれば結論も変わるということです。研究者がどれを選び、それをどのように用いるかは研究者のイデオロギー的立場にも左右されます。異なる立場の研究者が異なる手法を用いれば、当然結果も異なってきます。時間が経てば、新しい見識に基づいて新しい手法や構成が生まれます。そのように学術的なイエス像は性質上、限りなく仮説に近い限定的・時限的なものなのです。そのようなものが学会で多くの賛同を得れば仮説の域を脱して理論に近づけますが、反論や異論が出るようになれば仮説に逆戻りです。そういうことを延々と繰り返すのが学術の世界です。信仰は異なる世界の話です。そういう仮説とも理論ともつかないものに信仰を基づかせてしまったら、信仰も限定的・時限的なものになってしまいます。死を越えて永遠に導いてくれるものでなくなります。それでは、信仰は何に基づかせたらよいのでしょうか?
キリスト信仰は「使徒の教え」に基づく信仰です。「使徒の教え」とは、イエス様の教えと行動、彼の十字架の死と死からの復活を目撃した使徒たちの証言が土台にあります。使徒には、目撃が復活後だったパウロも含まれます。これらの使徒たちが目撃したことに基づいて旧約聖書を理解し教えたことが「使徒の教え」です。この「使徒の教え」は新約聖書の使徒書簡集の中にあります。「使徒の教え」を凝縮して箇条書きのようにしたものが「使徒信条」です。キリスト信仰はこの「使徒の教え」を受け継ぐ信仰です。この使徒的伝統に立つ教会がキリスト教会です。教団や神学校によっては、例えば、復活などないと教えるところもあるそうですが、そうなるとそれはもう「使徒の教え」を受け継いでおらず、使徒的伝統にも立っていないことになります。
新約聖書には使徒書簡集の他にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書があります。それらは西暦70年の後に完成したというのが釈義学会の定説です。使徒書簡集の大半は70年の前に書かれました。ということは、福音書を書いた人たちは「使徒の教え」を受け入れてその視点に立って書いたことになります。実は福音書には4つの他にもトマス、ユダ、ペトロ等の福音書もありました。それらが聖書の中に入れられなかった理由は、「使徒の教え」に立っていないと判断されたからでした。そういうわけで、4つの福音書は「使徒の教え」というフィルターにかけられた書物と言っても過言ではないのです。それなので、福音書のイエス様を理解したければ「使徒の教え」なしでは理解できないことになります。「使徒の教え」に習熟しながら福音書を繙いていけば、時限的でない限定的でない、死の力に打ち勝つ真の聖書的なイエス様に一層出会えるのです。ところが逆に、「パウロはこんなことを言っているが、イエス様はそんなことは言わないだろう」というような使徒とイエス様を分離する議論は、学術的な議論と同レベルになり、信仰は時限的・限定的なものへと堕していきます。(了)