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主日礼拝説教 2023年6月25日(聖霊降臨後第四主日)
聖書日課 エレミア20章7-13節、ローマ6章1b-11節、マタイ10章24-39節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の旧約の日課はエレミア書20章の預言者エレミアの告白、福音書はマタイ10章の終わりにあるイエス様の教えです。エレミア書の方は、かつて栄華極めたダビデ・ソロモンの王国が神の意思に反する生き方をして内憂外患に陥り、最後は東方の大帝国バビロンに滅ぼされるという、その動乱の時期の紀元前7世紀終わりから6世紀初めにかけての頃のことです。神は、国に迫る危機を国民に知らせて神に立ち返るようにしなさいとエレミヤに命じます。エレミアはその通りにするのですが、国民はこぞって彼に反対し、人心を惑わす者として迫害してしまいます。本日の個所でもそのことについてのエレミアの苦悩と神への愚痴が述べられています。
マタイ福音書の方を見ると、イエス様は自分のことを救い主と信じる者が将来迫害を受けると預言しています。エレミアもイエス様も、神から人々に伝えなさい、自分の信仰を知らしめなさい、と言われてその通りにすると命にかかわる大変な目に遭うと述べています。しかし、両者とも、神はその者たちの魂を救うと言われます。
そこで本日の説教では最初に、神が魂を救うというのはどんな救いかを見てみます。その時、「魂」とは何かを考えなければなりませんが、これがなかなか難しいです。魂と似た言葉に「霊」もあります。これもわかりそうでわかりにくい言葉です。旧約聖書のヘブライ語で「魂」と訳されるもとの言葉はネフェシュ、「霊」と訳される言葉はルーァハです。新約聖書のギリシャ語で「魂」と訳されるもとの言葉はプシュケー、「霊」と訳される言葉はプネウマです。「魂」と「霊」ははっきり区別されるものですが、聖書の中では時たま重なっていることもあります。今回は「霊」の方は見ずに「魂」の方を中心に見ていきます。
神が魂を救うとはどんな救いか?それは、キリスト信仰では「魂の救い」が「復活」と結びついていることに気づけばわかります。その結びつきは本日のエレミヤ書の日課の個所にも見ることが出来るのでそれを見てみます。終わりに、マタイの個所が提起している問題、すなわち、人前で自分はイエス様を救い主と信じると公表すればイエス様もその人のことを天の父なるみ神の御前で自分に属する者であると認めてあげる、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定するということについて少し考えてみます。この日本でイエス様を救い主と信じることを公表することにはどんな難しさがあるか、それをどう乗り越えていけるかということについて考えてみます。
「魂」という言葉にはいろいろな定義があると思います。聖書に出てくる「魂」を理解しようとしたら、その言葉が出てくる箇所を全部見て、どんな文脈でどんな使われ方をしているかを見て意味を捉えることが重要です。先ほど申しましたように、「魂」という日本語に訳されるもともとの言葉はヘブライ語でネフェシュ、ギリシャ語ではプシュケーです。ネフェシュが出てくる箇所を全部洗い出す、同様にプシュケーが出てくる箇所も全部。しかし、それはなかなか大変な作業です。新約聖書だったらいつかそれをしてみようという気が起こりますが、旧約聖書だったらちょっと尻込みします。分量が多いのでこの年齢で始めたら命が一つだけでは足りないのではないかと思います。それで、ここで申し上げることは本当に氷山の一角のさらまた一角の一角にも満たない定義だということをどうかご了解頂き、話を進めてまいりたいと思います。
本日の福音書の日課のイエス様の教えの中で「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(10章28節)という箇所があります。人間には体の部分と魂の部分があるということです。体の部分は殺されて腐敗してしまっても、殺されず腐敗しない部分がある。それが魂ということになります。ただし、その魂も神は滅ぼすことが出来る。「地獄で」と言っているので最後の審判のことを言っています。しかし人間には魂を滅ぼすことは出来ない。人間が滅ぼすことが出来るのは体の部分まで。人間が人間を滅ぼそうとしても、殺せるのは体までで魂は殺せない、なので人間は人間を完全には殺せない、滅ぼせないということです。逆に神は最後の審判の時に体と魂の両方を殺せる、完全に滅ぼせると言われるのです。
魂は人間の目で見えない部分です。体は目で見える部分です。体は手や足など肢体があり肉体があり骨や内臓があります。みな目で確認できます。しかし、魂は目で確認できません。体は死んだら腐敗してしまいますが、魂はそうならないで残ります。もちろん、神に守られていればの話です。そこで、その目で見えない魂は人間のどんな部分なのか少し旧約聖書をもとに見ていきます。
詩篇130篇をみると、「わたしの魂は望みをおき、わたしの魂は主を待ち望みます」と言われています。手足と違って神を待ち望む器官がある、それが魂となります。この場合は魂は日本語の「心」に置き換えることが出来ます。詩篇23篇を見ると、「主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせて下さる」(2~3節)とあります。「生き返らせて下さる」などと言うと、死からの復活を連想させてしまいますが、ここは文字通りの復活ではありません。ヘブライ語の動詞ユショベーブは、疲れ切った状態から回復させるというような、元気回復、リフレッシュの意味です。元気回復するのは手足を含めた人全体です。つまり、ここでは「魂」が人全体を言い表す使い方です。さらに詩篇121篇では、主が「あなたの魂を見守ってくださるように」と言われます。この場合、体も含めた人全体を言い表しているとも言えるし、また、体とは別に魂だけに特化して守りをお願いしているとも言えます。その場合は魂は日本語の「命」に置き換えることができます。
さて、聖書の「魂」は、人全体を言い表したり、「命」や「心」にも置き換えられる言葉であることがわかってきました。本当は聖書の使い方の例をもっと沢山調べた方がいいのですが、この程度でも方向性が見えてくるのではないかと思います。方向性というのは、日本語の「魂」という言葉を聞いて頭に浮かんでくるものに耳を傾けず、あくまで聖書に出てくるネフェシュやプシュケーに耳を傾けるということです。
そこで、魂は肉体が消滅してもあるということについて。肉体が消滅して、肉体のような見える形は持たないが何かその人が残っていることになります。肉体を持たない人格のようなものです。ここでキリスト信仰の中で大事な事柄、「復活」の出番となります。復活とは、使徒パウロが教えるように、死の眠りから目覚めさせられて、肉体の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられる、ということです。体は肉から復活の体に変わっても、人格は変わりません。それなので「私は吉村博明である」という自分が続きます。目覚めた時、この世で纏っていた朽ち果てる体にかわって神の栄光に輝く体を纏っている自分に気づくのです。
本日の福音書の個所の終わりでイエス様が「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っています。これも聖書の「魂」が復活と結びついていることを示すところです。「命」と訳されていますが、もとの語はギリシャ語のプシュケー「魂」です。だから、本当は「自分の魂を得ようとする者は、それを失い、わたしのために魂を失う者は、かえってそれを得るのである」と言っているのです。「わたしのために魂を失う者は、かえってそれを得る」と言うのは、明らかにキリスト信仰者が迫害にあって命を落とすことです。そうすると、あれっ、さっきイエス様は魂は殺されないと言ったではないかと言われてしまうのですが、ここは「魂」が「命」に置き換えられるところと考えればよいでしょう。迫害で命は落としても、肉体のない人格は復活の日に復活の体を着せられるまで神に守られて眠りについている、なので「魂」は殺されてはいないのです。そして復活の日に復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられる。その時の命は「永遠の命」です。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」とはまことにその通りです。
逆に、イエス様が自分の救い主になっていない者は、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにしておらず、罪から贖い出された状態にもありません。そのような者が永遠の命を持てるようにしよう、しようと努力しても、最後の審判の時に罪が償われておらず罪からも贖い出されていない状態のまま神の御前に立たされることになってしまいます。それは非情に厳しいと思います。「自分の命を得ようとする者は、それを失う」というのはまことにその通りです。しかし、神がひとり子イエス様を用いて果たして下さった罪の償いと罪からの贖いは、神が私たち人間に受け取りなさいといつも提供して下さっているのです。今からでも受け取るには遅すぎることはありません。
エレミアは、神から宣べ伝えなさいと言われてその通りにすればするほどひどい目にあってしまうという悲劇の預言者でした。果たして、国は滅び人々は占領国に連行されてしまいます。しかし、神は悔いる民に憐れみを示して祖国帰還を実現するという希望の預言も残します。神は罪に汚れた民をただ罰して消滅させてそれで終わりという方ではない。新しく生まれ変わらせ建て直して下さる方でもあることがはっきりするのです。だから祖国滅亡しても自暴自棄にならず、神を信頼して建て直しの時を待つのが正しい生き方です。
エレミアのメッセージは、神の御言葉を宣べ伝えたり人々に信仰を証しすることで迫害を受けることになっても、それですべてが終わりではないというものです。今日の日課の個所もそうです。神は必ず、その者に報い補償をして下さる。それは、およそ神の御心に沿うものとして行ったことは無意味、無駄なものは何一つないという神の約束を意味します。この考えは旧約聖書、新約聖書の随所に見られます。
7節から10節は、神が宣べ伝えよと命じた通りにすると、どれだけ散々な目に遭うかという複雑な心境が吐露されます。ところが11節で、神は迫害者よりも偉大なのだという確信を述べます。その根拠が12節と13節で言われます。「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。」
ここで注意しなければならないことがあります。「わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを」の「復讐」という言葉ですが、ヘブライ語・英語の辞書によれば、人間がするものなら「復讐」でいいが、神がするものならば「報い」、「補償」にするとありました。そこで、何の「報い」、「補償」になるのかと言うと、最後の審判の時に行われる正義と不正義のアンバランスの大清算です。神に立ち返る生き方をした者がしなかった者から受けたあらゆる仕打ちや損害に対して、それこそ神の正義の尺度に基づく補償、賠償が行われる。この世でないがしろ中途半端にされてしまった正義が最終的に実現するということです。逆に、仕打ちや損害を与えた者たちには正反対の報いが待っているということです。ローマ12章でパウロが復讐は私たちがするのではない、神に任せよ、と言うのも同じです。最後の審判で正義が最終的かつ完全に実現する大清算が行われる、だから今は敵が飢えていたら食べさせよ渇いていたら飲ませよ、という行動規範が生まれます。それで相手が心を改めたら、悪事が止むのでこちらも安心でき、相手も地獄の炎に堕ちなくてすむので両方にとってウインウインになります。しかし、もし相手が心を改めなかったら、それは将来自分に降りかかる悲惨を自分で一生懸命積み重ねることになります。
エレミアが神の補償を見ることになると言う根拠が次に来ます。日本語訳にはありませんが、ヘブライ語には「なぜなら」と根拠を言っています。「なぜなら、自分の訴えをあなたに委ねたからです」。訴えをあなたにお委ねしますので、あとはお任せしますということです。パウロの、復讐は自分でしないという考えと同じです。訴えを全て神に委ね任せたので、あとは最後の審判の時に補償してもらえるということです。
13節の「貧しい人の魂」の「貧しい」ですが、辞書では「抑圧された者、虐げられた者、迫害された者」の意味があります。金銭的な貧しさだけではありません。エレミアが置かれた立場がまさにそうでした。ところがエレミアは、神に褒め歌を歌え、賛美をせよ、と読者に勧めます。なぜなら神は虐げられた者であるこの私の魂を悪を行う者の手から救い出して下さったからだ、と言うのです。ヘブライ語では動詞は完了形なので「救い出して下さった」と訳します。これは面白いことです。なぜなら、今まさに迫害の渦中にあるのに自分の魂は既に神の手中にある、体の部分は痛い目にあっているが魂の部分は神の手中にあって守られている、だから迫害のさ中にあっても神に褒め歌を歌い賛美をするのが当然だと言うのです。
このことは本日の福音書の日課の中で、神は私たちの髪の毛の数も全て数えて把握していると言われていることと同じです。キリスト信仰者にとって、これは神の手中にあることがこれだけ完璧であることを言っているのです。神の手中にあって私のどこも神の手からこぼれ落ちていない。そのように守られるから、最後の審判と復活の日をクリアーできる。まさに、今日の説教題「神は信仰を守り告白する者を最後まで責任をもって面倒を見てくれる」のです。
このような、今は理想的な状態にいるとは言えないのに、その状態にあるのと同然だということは本日の使徒書の個所ローマ6章にもあります。洗礼を受けた者がイエス様の死だけでなく復活にも結びつけられているということです。復活は将来のことですが、洗礼でイエス様の死に結びつけられて罪の体が葬られた、それで罪が自分をもう支配できない状況が生じた。あとはその状況に入り込もう、入り込んだら今度はそこから出ないようにしっかり留まろう、そのようにして生きるだけである。それが「罪に対して死に、神に対して生きる」ということです。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、片方の手はこの世を掴んでいるが、もう一方の手は復活を掴んでいるということになります。あとは肉の体から離れれば、両手は復活を掴むことになります。パウロが「フィリピの信徒への手紙」の中で早くこの世を去りたいと願ったのはこのためです。しかし、彼はキリスト信仰者には神から託された使命、課題があり、それを果たさずにこの世を去ることは許されないこともわかっていて、そこにジレンマを感じていました。このジレンマはパウロだけでなく全てのキリスト信仰者に共通のものです。
本日の福音書の個所でイエス様は、人前で自分はイエス様を救い主と信じる者であると公表すれば、イエス様も天の神の御前でその人のことを自分に属する者であると明言する、しかし、もし人前でイエス様を否定したら、彼も天の神の前でその人を否定すると述べました。その場合、日本の潜伏キリスト教徒たちのことをどう考えたらよいのか?彼らは、踏み絵を踏み檀家制度に組み込まれ、人前では仏教徒を装いましたが、隠れた所では代々密かに洗礼を授け、主の祈り、使徒信条、天使のマリア祝詞、十戒を唱え祈りました。週の7日目は仕事を控え、クリスマスと聖金曜日は大事な日であると心に留めました。これは、イエス様が教えられたことと照らし合わせてどうなのか?信仰を守り通したことになるのか、それとも信仰を公けに言い表さなかったことになるのか?
この問題について、何年か前の説教で帚木蓬生の小説「守教」から大事な視点を得たことをお話ししました。どんな視点かと言うと、一つは、潜伏キリスト教徒たちは神父から、殉教は聖職者がすることである、信徒は何百年たとうが宣教師は再び必ず来日するから、その日に備えて信仰を絶やさないようにして将来の教会の再建の種を残しなさいという使命を託されました。もう一つは、隠れて信仰を続けることは実は命がけで勇気が要ることだったということです。もし、見つかって奉行所に引っ張って行かれたら、申し訳ありません、棄教しますと言っても何の助けにもなりません。拷問と死刑が待っています。小説の中では、見つかって連行されたキリスト教徒たちは棄教しようがしまいが結果は同じだからと、役人たちに向かって、あなたたちも神に造られた者だから神を拝まなければなりません、などと伝道します。まさに聖霊が語るべき言葉を与えた場面です。
そこで、現代日本でイエス様を救い主を信じると公けにせよというイエス様の命令を守るとどうなるかについて考えてみます。私たちの場合はキリシタン禁教の時代のように命に係わることはないと思います。潜伏キリスト教徒のように表向き仏神教徒を装って信仰を隠す必要も理由もありません。教会もあります。聖職者もいます。信仰を公けにすることで公権力から処罰もされません。ただし、キリスト信仰者が圧倒的少数派の社会に生きていますから、賢明に立ち振る舞わないと圧倒的多数派の中に埋もれて埋没してしまう危険があります。圧倒的少数派であるがゆえに声をあげなければならない、イエス様の命令が一層重要になると思います。
その時、自分が救い主と信じているイエス様がどんなお方であるか、どんなイエス像を提示するのかを考えることも重要です。現代社会ですと、イエス様を人権推進者ヒューマンライツ・ヒーローのように提示することは世の注目を集めると思います。マイノリティーに寄り添うイエス様、などと言ったら、世間からとても肯定的、好意的に見られるようになります。もちろん人権に反対する人にはウケないでしょうが、今の社会の趨勢は人権推進なのでイエス様をそのような方として提示するのは時流に適っていると言えます。イエス様は、信仰を告白すると迫害が起きるのは不可避と言われましたが、ヒューマンライツ・ヒーローなら大丈夫です。心配ないでしょう。
これに対して、私と私を派遣するミッション団体はそういう時流からみるとかなりズレています。イエス様を提示する時は、「創造主の神のもとに行ける唯一の道である」とイエス様の「唯一性」を強調します。今時このようなことを言うと反発を受けることが多いです。イエス様はそんなに狭い考えの持ち主ではない、と。「唯一の道」と言ったのはイエス様本人なのですが..。このような提示の仕方の方がイエス様の預言が現実性を帯びてきます。そうであれば、髪の毛の数を全て数えられる位に自分は神の手中にあることが身近になります。そうであれば、エレミヤの告白、主が私の魂を救って下さったということも身近になります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン