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以下は、第1ヨハネ5章4節「世に勝つ勝利は我らの信仰なり」のルターの説き明かしです。
『信仰の奥深い業と力は、見えないことを見るということにある。さらに、感じることを見ない、圧迫するもの苦しめるものさえも見ないということにある。翻って、不信仰は感じることだけを見、感じないことは一切信用しない。それゆえ神が事を成し遂げると、信仰はちっぽけなことと関りを持たず、この世が仰天するようなことに関りを持つようになるのである。
例えば、この世は死に耐えられない。死を恐れ、その下に屈服してしまう。反対に信仰は屈強で、この世をしゃぶりつくす死の前に立ちはだかる。信仰は、あの命の引き裂き屋を飲み込んでしまうのだ。さらに、この世は肉の思いを抑えることが出来ない。肉はこの世の隅々まで支配している。常に肉の思いのままに全ては起こる。だから、この世は肉的なのだ。反対に信仰は肉、つまり堕ちた自然に体当たりして倒し、それを監督下に置く。
人間は誰一人としてにこの世の反対や侮辱に最後まで耐えることは出来ない。この世が人間を占拠して勝利者になってしまうのだ。反対に信仰はこの世を見下して足蹴にしてしまうのである。同じように人間は誰一人としてちっぽけな罪に対しても反抗できない。罪は良心に噛みつき、もう地獄に落ちるしかないという位に揺さぶり尽くす。この世全てがその人を慰めようとしても何の役にも立たない。しかし、信仰は真の英雄である。それは全ての罪に勝利する。たとえその罪が全世界が犯した位の大量の罪であってもだ。』
(以上)
「見えないことを見るのが信仰」というのは、ローマ8章24~25節、第2コリント5章7節、ヘブライ11章1節を思い起こさせます。死に対する勝利は第1コリント15章、肉を監督下に置く信仰はローマ6章と8章。不信仰は感じることだけを見てしまうというのは、湖の上を歩けたペトロが波風を見て溺れてしまう出来事そのものです。信仰と不信仰を対比させる象徴的な出来事だったのでしょう。これらの他にもまだいろいろあると思います。このようにルターの説き明かしは聖書のいろんな箇所が編み上げられて出来ていると言えます。さすが「聖書を読みぬいた男」と言われるだけあります。キリスト信仰者としての私たちの成長を助ける説き明かしはこのようにして出来ると思います。因みに「信仰」とはイエス様を救い主と信じる信仰です。お忘れなく。