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田口 聖牧師(日本ルーテル同胞教団)
マタイ13章1〜9節、18〜23節
「「種まく人の例え」が伝えるキリストの福音と恵みの宣教」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の「種をまく人の例え」。この例え話そのものは、18節以下のイエス様自身の解説もあるので理解できることかもしれません。しかし、イエス様がこの譬えを語ることで、何を伝えようとしているのかについては、難しさもありますし、誤解される部分もあるかもしれません。私は教会学校で育ちました。教会学校などでも例えそのものは絵を用いてわかりやすく説明するのですが、その子供へのメッセージは、とかく、律法的な教えに終始してしまい、そのように教えられてきたように思います。つまり、「このような根付かない土地や種のようなあなたではダメなんだよ。その土や種のようなの心を持っていてはダメなんだよ。だからあなた方自身が、この良い土地のような、身を沢山結ぶような、土や種に、良い心になりましょう、自分で頑張って種を大きくし変えましょうね。そのように、あなた方がみ言葉に従って、しっかりと何十倍、何百倍の実を結ぶようにならなければならないんですよ。」と、理解させられきたと思います。つまりここは私たちへ課せられた律法としてイエス様は教えているんだと。どうでしょうか?皆さんは、そのように教えられてきたでしょうか?あるいは、そのように理解していた思っていたということはないでしょうか?しかし、それは誤解、間違った教え、理解であり、イエス様はそのようなことを私たちに伝えたいのではないのです。むしろ、ここでもイエス様は、私たちに恵みとそこにある幸いを伝えていると言うのが今日のメッセージになります。
まず、1〜9節までですが、イエス様はおそらくペテロの家を出て、湖の岸に座っていました。そこに大勢の群衆が集まってきました。イエス様が行くところ行くところ、話を聞くために大勢の人が集まってくる日々でしたから、この日もイエスの噂を聞いて、群衆が集まってきたのでしょう。そこで、3節以下の話をイエス様はするのですが、最後に「耳にあるものは聞きなさい」と言う言葉で結び、群衆には譬え話だけで終わります。
そして今日の聖書箇所は、18節以降のその例えの解説にいきなり飛んでいます。しかし、その省略された10節〜17節の文脈もこの例えを理解する上で重要です。弟子たちも、譬え話だけで終わったことに疑問を抱いたようでイエスに尋ねました。10節「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と。それに対してイエス様ははっきりと答えます。11節からですが、
「11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。 12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
彼らは見にくる。聞きはする。しかし、見ていない。聞かない。そして理解できないのだと。そしてそれはイザヤの預言でも証しされていた現実なのだと、イエス様は答えたのでした。イエス様は、聞きに集まる人々の現実をきちんと見抜いていました。ヨハネの福音書の6章でも、五つのパンと二匹の魚で、5000人以上の人々を養うという奇跡の後に、さらにイエス様についてまわる群衆に、対して、「あなた方がついてくるのは、パンを食べて満腹したからだ」と、彼らが着いてくるのは、イエスの福音を、理解し受け取り、信じたからではないと見抜いていました。ここでもイエス様は自分のところに集まる人々の現実を見抜いて、その現実を伝えているのが、種をまく人の例えであったのでした。
それは何か冷たいように感じられるかもしれませんが、それは、イエス様が群衆を見捨てたという意味で、そのように語っているのではなく、ここでは、イエス様にはきちんと目的があって語っているといえるでしょう。それは11節で、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないから」とあり、18節以下で、その譬えの解き明かしを弟子たちに教えているように、何よりも、この例えは、群衆というよりは、むしろ弟子たちに向けられていると言うことを理解しなければならないのです。つまり、私たちに当てはめるのなら、まさにキリストの証し人として、福音によって召し出され、福音を証しし伝えるために世に遣わされているクリスチャン一人一人、そしてその教会に向けられている言葉なのです。
イエス様は、弟子たちをイエス様の方から「ついてきなさい」と召し出して、共に生活し、共に歩んできました。そして、絶えず聖書から神の国を教えてきました。しかしもちろん、弟子たちでさえ、この時に、完全に神の国の福音を悟っていたのではありません。むしろ彼らでさえも悟らず、十字架の直前まで「誰が一番偉いか」と論じたり、イエス様が彼らに、自分は十字架にかけられて死ぬことや復活することを伝えても、彼らはその意味も全くわからず、そんなことはありえないとさえ言いました。彼らが全てを理解し悟るのは、復活の後、聖霊を受けてからでした。しかしご自身と共に歩んできた、その弟子たちでさえ、悟るに遅く、自らでは理解できないことを知っているからこそ、イエス様は共に歩み、そのように、絶えず、繰り返し、聖書から神の国を教えてきたのです。そして、それは、やがて彼らが福音の意味を、聖霊によって目を開かれ悟り、その福音の「種をまく人」として遣わされていくためであるでしょう。
A, 「教会も宣教も、人間の期待するような右肩上がりではない」
しかし、まさにその遣わされていく、その種をまく働きは、人間が期待したり計算したり、思い描きやすい、いつでもうまくいき、右肩上がりで、絶えず成功する、というようなものでは決してありません。それにも関わらず、そのように人間が期待したり計算したりするように、体の目や人間の価値観に合い、数字的にわかるように、絶えず右肩上がりでうまくいき成功していくことが、イエス様の祝福のはかりであり基準なんだ、それが真の教会の姿なんだと、当たり前のように、当然のように、口にする教会は少なくありません。そのような教会や伝道の考え方は、合理的で、人々を刺激しやすく、わかりやすく、律法的に駆り立てて教会を導くことはとても容易ではあります。しかし、イエス様がそのように見ていないことは、まさに今日のところを見てわかるのです。そう、種を蒔いても、どこまでも、自分中心で、神に背こうとし、信じようとしない人間の性質や世の現実には、その種が成長をするのを妨げようとする現実がある、イエス様はこの例えでその現実をまさに私たちにまず最初に伝えているでしょう。そのことを、18節以下で、イエス様は弟子たちに解説しています。
B,「教会、宣教は困難の連続:涙とともに種を蒔く」
福音を伝える働き、それは教会、そしてクリスチャン一人一人に与えられているイエス様の恵みであり特権です。しかし、詩篇126篇5〜6節に
「5涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
とある通りに、それははじめは涙を持って蒔く働きです。その言葉はイエス様をも表しており、イエス様のご自身の宣教そのものが、不理解と拒絶、裏切りと苦難と死でした。それは、弟子たちも同じように遣わされ、弟子たちも経験することそのものでした。福音を伝えたり、証ししても、一生懸命説明しても、その反応は様々であり、まさにここにある通りです。ある人々は、何か聞いた時は感動したりしても、終われば、一歩外を出れば他の重要なことが優先され福音はもう何処かへと行ってしいます。道端に巻かれた種です。あるいは、み言葉を受け入れるところまで行きます。喜んで受け入れます。しかし、石の如く、固い、根を張るのを拒むような、困難や試練に直面すると躓いてしまい、み言葉を疑う、信じなくなる、喜ばなくなる。石だらけの所に撒かれた人です。そして、み言葉を聞いても、世の中の様々な誘惑、富、様々な欲望、価値観、等々の方が自分の心を満たしたり、合理的であるからそちらの方が信じやすい、頼りやすい、そうなると、み言葉が馬鹿らしく思えてきます。
C, 「育たない地と環境は、人間の罪の現実を表す〜人は成長させることはできない」
世の中にはそのように妨げるものは、三つに限らず、無数にあるのですが、しかし、その妨げるものに問題があるのではありません。むしろ、深刻なのは、イエス様も聖書も常に初めから伝えている通り、あらゆるものを用いて信じることを妨げようとする、信じないようにさせるサタンの働きと、そして何より堕落の初めから変わらず、どこまでも神とその言葉を疑い、背を向けていこうとする人間の罪なのです。ですから、この例えの成長しない土壌と環境は、全ての人の罪の現実と、その堕落と罪ゆえに、誰も自らでは神と神の国を、そして福音を悟ることも理解することもできない。どんな素晴らしい種を蒔かれても、自らでは、その種を芽吹かせ、それを大きく成長させることもできない。その現実を表しているのです。事実どうでしょう。弟子たちも、この時、全てを悟るわけではありません。彼らはこれまでイエス様に律法と福音の御言葉の種を繰り返し蒔かれてきました。しかし、先ほども言いました。まだ理解していません。悟っていません。もちろん彼らはやがて福音を悟り宣教をしていきますが、それは、イエス様の約束の通り聖霊が与えられ、イエス様によって目が開かれたからでしょう。それまでは、自分達の力と意思と理想で、何かをしよう、功績や実績を立てよう、成功しよう、としたことはことごとくなっていかなかったでしょう。それは十字架の直前までもそうでした。イエス様が誰かが裏切ると言いました。その時に、弟子たちは、他の誰かが裏切っても自分だけは裏切らない。どこまでもイエスについていく。一緒に死のうではないか、と断言しました。彼ら自身から出る決心や言葉は立派でした。しかし彼らから出る計画や決心や決意は、その通りにはならなかったでしょう。そう、自らでは誰も種を芽吹かせ、成長させることはできないのです。そして、私たち自身そうではありませんか?私なんかはそうです。クリスチャンの家庭に育っても、神から離れていこうとしました。
しかし、そのような自分を戻してくださった、信仰を再び与えてくださったのは、自分ではない。自分の意思や力では決してない。どこまでもみ言葉と福音、イエス様の恵みでした。この中で、誰が自分の力で理解し、自分で信仰を作り出し、それを成長させたといえるでしょうか。自分ではない、そこにあったのは神の恵みであった、イエス様の言葉、福音であったと、皆、告白するのではないでしょうか。
A, 「私たちにはできない、しかし、キリストができる」
そうです。イエス様はその私たちの現実を、まず伝えています。その罪の世、頑なな世、人の心に、イエス様は、種を蒔かれる。そのように、教会もクリスチャンも種をまくように遣わされる。それはイエス様もそうであったように、私たちも涙を持って種を蒔いていきます。多くの人は、拒みます。聞いてもすぐ冷めます。受け入れてもすぐに誘惑の先に、宝を簡単に捨ててしまいます。証しも宣教も、そのように、困難な使命です。いや、私たちの力では、全く不可能です。それなのに、宣教を律法、人のわざ、私たちが実現すること、果たすこととしてしまい、人の功績にしてしまい、期待通り、右肩上がりにうまくいかないと、誰のせいだ、あの人のせいだ、牧師のせいだ、などなど、どれだけ「福音だ、愛だ」と声高にかかげる教会に、イエス様が望まない裁き合いが溢れていることかとよく耳にします。宣教が律法になっている教会の結果ですが、それはイエス様が望む教会ではありません。しかし、このとこでは、弟子たちに対してもそうであったように、そして私たちに対してもそうであるように、そして、全く敗北と思われるような、十字架の死にこそ、勝利と新しいいのちと救いの光が開き、輝いているように、イエス様は、その困難な宣教の現実があっても、全く絶望であるとは言わないし示しません。その様な中でも、必ず「御言葉を聞いて悟る人」が起こされることこそを例えの最後に結んでいるでしょう。そして、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」とイエス様は、「そうしなさい」と命令しているのではなく、「そうなる」と約束されるのです。そうです。涙のうちに種を蒔いても、しかし、イエス様は、必ず、その種から、聞いて悟る人を起こしてくださり、実を結んでくださる。そう、私たちではない。イエス様が必ず、そうしてくださるということです。ですから、この罪の世にあって、種をまくことは、人間的な価値観から見れば決して右肩上がりの期待するような結果にはなっていかないし、無駄なことの様にさえ思える。救われる人が起こされない。数が増えない。色々な問題が次から次から現れ、全てが無駄なことのように見えたり思えたりしたとしても、しかし、イエス様にあって、この今日のみ言葉にあって、福音の約束とそこに働く計り知れない力と計画にあって、何も無駄なことはないのです。今日の第一の聖書朗読箇所にもあるでしょう。イザヤ書55章10〜11節
「10雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。11そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。」イザヤ書55章10〜11節
種は、天からのイエス様の福音、完全な福音、いのちの福音なのですから、イエス様の御心に従って、必ず報われる種である。人間の予想した通り、思い描いた通りではなくても、イエス様にあっては、種は必ず芽を出す。イエス様は成長させてくださり、多くの実を結んでくださるのです。
B,「宣教は福音:枝だけでは実を結べない。ヨハネ15章4−5節から」
事実イエス様は、種以外にも、ブドウの木の例えでこう言っています。ヨハネの福音書15章4〜5節
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
実を結ぶのは、誰ですか?枝ですか?弟子たちですか?私たちですか?違います。イエス様ははっきりと言っています。木だと。つまり、わたしはブドウの木とご自身について言われるイエス様ご自身ですね。枝だけでは何もできませんが、私たち枝が木であるイエス様にしっかりとつながっているなら、つまりその言葉に聞き、信頼し、枝が木から栄養を与えられるまま受けて実を結んでいくように、イエス様が与えてくださるものをそのまま受けるなら、イエス様が実を結んでくださると、イエス様は約束してくださっているでしょう。そう、私たちとイエス様の関係においてもそうなのですから、宣教において、蒔かれる種が私たちの思いを超えて、イエス様が実を結んでいくことも、全く矛盾しません。この通りなのです。イエス様にあって種をまく人は、幸いです。福音は私たちの種ではなく、イエス様の種、イエス様の福音です。ですから、私たち自身には種をどうこうする力は全くなく、むしろ私たち自身の罪の性質は、まさにここにある育たない土壌と環境そのものです。しかし私たちには出来なくとも、私たちの信仰を与えるときもそうであったように、イエス様は、必ず、ご自身の種から悟る人を起こし、成長させ、実を結んでくださるのです。それがどんなに小さな、目立たない結果のように見えても、イエス様が結んでくださる結果だからこそ、それは幸いであり、真の祝福なのです。だからこそ、宣教は、私たちが自分の力で、なし果たさなければならない律法では決してない。どこまでもそれはイエス様がなしてくださる恵みであり、どこまでも宣教は福音なのです。
5、「結び:宣教は福音ー罪赦され、平安のうちに派遣される」
イエス様は、そのような素晴らしい計画のうちに、この例えを通して、素晴らしい、福音の神の国を弟子たちに語っているし私たちにも語っているのです。そして、恐れと失望で互いに裁き合うのではなく、むしろ、恵みが取り囲んで導いているのだから、何も心配しなくていい、恐れなくていい、安心していきなさい、と恵みのうちに、私たちにイエス様の種をまくようにと、キリストの証人として、私たちを遣わしてくださっているのです。今日も、イエス様は、それでも罪深く、罪を犯してしまい、それでも悔い改める私たちに、今日も変わることなく、その十字架にあって、私たち一人一人の罪の赦しを宣言し、新しいいのちを与えくださっています。「あなたの罪は赦されています」と。そして「安心していきなさい」と。今日もイエス様が福音にあって信仰を新たにし、平安のうちに私たちを遣わしてくださり、私たちを通して多くの実を結ぼうとしておられるのです。ぜひ、その福音を受け取り、信じ安心してここから出ていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン