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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵みと平安が、あなた方にあるように。 アーメン
「湖上を歩くキリスト」 2023年8月13日(日)
聖書 マタイ福音書14章22~33節
皆さんは、礼拝をするために、教会へ来ておられます。その礼拝で、神様への賛美と祈りを捧げ、そして神の言葉である聖書の話を聞かれています。
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聖書の中でも中心は神の子、イエス・キリストという方がどういう方であるか、そのイエス様の語る言葉や教えから、神の国はどういうものか、又イエス様がなさった行い、とりわけ奇跡の業をもって弟子たちに何をなそう、とされているのか、これ一つの大切な点であります。そういう意味からも、今日の聖書では、湖の上を歩かれる、という驚くべき、キリストの奇跡の物語です。誰が考えても、湖の上を歩くなんて、とても理解できない。しかも荒れ狂う暴風雨の湖を悠然と歩いて来られた、と言うのですから、もう恐怖の驚きです。イエス様はこの奇跡の出来事で、弟子たちに何を示そうとしておられるのでしょうか。イエス様の弟子のうちでも、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレといった人たちは元はガリラヤ湖の漁師たちです。ですから、ガリラヤ湖については、誰よりも詳しく知り尽くしています。さて、14章22節から見ますと、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。そして、群衆を解散させておられる間にイエス様は祈るため密かに山へ登られた。夕方になっても、ただ一人そこにおられた。
ここで群衆を慌ただしく解散させておられます。何故でしょう。群衆を解散させようとされた、慌ただしさの理由は何か、と言いますと、ヨハネ福音書6章14~15節に記しています。5000人以上の人々に5つのパンと2匹の魚で満腹させられる、という奇跡に群衆が熱狂し、イエス様を無理にでも王に即位させようとしたのを知って、こうした群衆の誤った政治運動を未然に防ぐため、すぐに解散させようとされたのです。同時にイエス様は強いて弟子たちを舟に乗りこませ、なさいました。恐らく弟子たちも群衆と同様に今こそ我らの師匠であるイエスの旗揚げの時が来た、そしてメシアの本格的活動を期待したのでしょう。そこで、イエス様としては、まだその時ではない、弟子たちの信仰を正しく育成して行くには是非ともこの熱気に包まれた群衆の中から、弟子たちを引き離す必要があったのです。ですから、イエス様は無理やりにでも,舟に乗り込ませて向こう岸に行くようになさったのです。こうして群衆と弟子たちとを左右に分けて、イエス様ご自身は祈るために密かに山へ登られたのです。イエス様は山の中で何を祈られたのでしょうか。イエス様はメシアとしての正しい在り方について、神と語り合い、助けを求め、神のみ心を確認し直されたに違いありません。恐らくご自分の任務を誤解している群衆のためにも祈られたでしょう。又弟子たちが誤った世論から守られて正しいメシア信仰に導かれるためにも祈られたことでしょう。
旧約聖書ヨナ書1章にはヨナが主の派遣命令を嫌って勝手にタルシンへ逃れようと船出しました。その時主は激しい暴風を起こして船を悩ませ、ヨナを海の中へ投げ込まれました。暴風を起こして海へ投げ込まれるのには意味があったのです。それは主の命令に背いた神の僕に与えらえた当然の懲らしめでした。しかし、今ガリラヤ湖に船出したイエス様の弟子たちは主から離れたくない、ヨナとは全く反対です。それを「強いて」舟に乗り込ませられた。ガリラヤ湖の自然は人間の思いを超えた恐ろしい様に急変します。四方からの強風にさらされ、たちまちにして大荒れの湖になります。弟子たちの乗った舟はたちまち暴風に巻き込まれています。一方イエス様は山へ一人登って祈っておられます。マルコ福音書によれば6章48節にイエス様はちゃんと弟子たちが嵐の中で漕ぎ悩んでいるのをご存知のはずです。ところが、主はそれを充分知っていながら「夜明けの4時頃まで腰を上げられません。」弟子たちは前日の夕方からほぼ半日掛かっても、たかだか5km位しかないベッサイダにまだ着いていません。ヨハネの福音書によると6章19節には「四・五丁漕ぎだした時に」と書いています。全行程のほぼ終わり近くまでたどり着いた時、やっとイエス様は湖の上を歩いて近づいて来られた。イエス様は驚くことに弟子たちの窮状を助けようとされずに、そばを過ぎようとされたのです。どう考えても主は弟子たちの漕ぎ悩んでいる状態を見て、見ぬふりをして過ぎようとされたのです。イエス様から離れたくない思いでいる弟子たちを強いて先に行かせて、弟子たちの事も祈りながら突風の嵐の中に突き落とし、彼らの苦労を承知の上で見殺しにしておき、彼らに近寄って、目の当たり疲労困憊している実情を見ながら通り過ぎようとされるイエス様!何と言う事でありましょう。イエス様は弟子たちに何をされようとしておられるか。ここでは、そういう試練を与え、訓練を、いまイエス様は与えておられるのです。実際、もしそうでなければ、なぜメシアの弟子たちが嵐の湖の只中で木の葉のように揺れる小舟で必死になっているのをそのままにされているのでしょうか。イエス様は荒野にマナを降らせる第2のモーセであられます。昔杖を振って海を分け、イスラエルの民を歩かせて助けられたモーセのように、神の力を持ってガリラヤの湖を裂いて渡り行かせてもよい方であられます。マナを降らせガリラヤの海を裂いてみせる事ぐらいメシアとしてのイエス様は出来られるお方でありながら、あえて舞台は始めから弟子たちの信仰を訓練されるためにしつらえていたのです。だとすれば、主がその嵐の中、吠え長ける波の上を歩いて来られた、事自体は何も不思議な事ではない。ペテロたちは漁師でありましたが、ガリラヤ湖に逆風が吹き、この風にどうすることも出来ない。恐ろしい嵐のちからのことも充分知っているはずです。だからこそ、漁師の大男たちが暴風の湖の上を歩いて来られる、イエス様の姿を見て悲鳴を上げたのです。イエス様のこの奇跡の業を目の前にして弟子たちがどのように反応するか、これがイエス様にとって関心事であったのです。26節から見ますと「弟子たちは湖の上を歩いておられるのを見て”幽霊だ”と言って怖じ惑い恐怖のあまり叫び声を上げた。」とあります。第1も反応は「幽霊だ」と言った、叫びに現れれています。この「幽霊だ」という言葉は「ファンタマス」と言い英語のファンタジー(幻想)の由来です。見えるようになった幻の現れ等を意味します。ですから、死人の霊が現れ見えるようになったもの、すなわち幽霊を表す言葉。或いは生きている人でも遠い地にいる人の霊が意外なところに現れた場合などを意味します。そうすると、いま嵐の只中で見たイエス様の姿をどう見たか?後から舟で追いかけられた先生が嵐にのまれて死んでしまい、幽霊になって出てきた、と考えたのか、或いは又陸にいるはずの先生の霊がここに不可思議な出現をした、と考えらのか、或いは何かの霊が祟って暴風を起こし、姿を現した、と考えたのか。何れにしろ何人もの男たちが金切り声を上げ,喚いているのです。とにかく明らかな事はみんながこの嵐の中にイエス様が来られるはずがない、と信じ切っている、ということです。そういう現実の中にイエス様の姿だとわかった途端、いや、あれは幻に違いない。するとイエス様が言われます。「しっかりするのだ、わたしである、おそれることはない」どうでしょうか。私たちにも、どうにもならない困難な只中でイエス様が「しっかりするのだ、私である、恐れることはない」と言ってくださる。しかし現実に、この世の中で目に見えないと信じられない、のではないでしょうか。
第2の反応はペテロがここでとった行動です。28節に「するとペテロが答えて言った『主よあなたでしたか。では私に命じて水の上を渡って身許に行かせてください』。と言ったのです。ペテロは素朴な主を愛する熱情にあふれる男です。主が通り過ぎようとされるのを見て、身許にわたしも行かせてください」と叫びました。ペテロは決して奇跡をやってみようとかたんなる好奇心や冒険心から願ったのではないでしょう。ヨハネ福音書21章7節には、ヨハネが「あれは主だ」と言った一声で自分が裸であったので着物を着たまま湖に飛び込んだこともあった、そういうペテロです。いま嵐の中でも愛する主のもとに、ただ行きたかった、だけです。イエス様の「来なさい」という一声にペテロは水の上を歩いて主のもとに行った、ところが風を見て恐ろしくなり、そのため足が波の中に沈みかけました。イエス様はすぐさま手を伸ばし彼を捕まえて言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」・・・・ここでペテロの「信仰の薄い者よ!」「なぜ疑ったのか」それは風を見て恐ろしくなった」からでしょう。イエス様への愛と信頼そのものを失ったわけではありません。「主よお助け下さい」と叫ぶだけの信仰は持っていたのです。ただ、目の前に吹きすさぶ、もうれつな波と「風」を見た時、それはもう恐ろしいものです。風と波、そのものに自分を滅ぼす、自分以上の「力」が襲って来る、そういう自然の脅威がイエス様とは独立して突き放してしまうのです。イエス様の許へ召し寄せられる自分と、イエス様との人格的交わりを、はねのけるほどの自然の力がある、ということに沈んでゆく自分があるのです。イエス様はこの暴風の中にも湖の上を歩いて来られた。ペテロはその超人間的なイエス様を信じて、主の身許めがけて突っ込んでいるのです。しかし、現実には自分を飲み込もうとする波、風の恐ろしさには勝てない。この矛盾した二つの只中でまとめて把握できない。これがイエス様の言われた「信仰の薄い者よ」と言われるものです。イエス様という方がどういう力を持ち、大自然を支配されるお方であるか、をまだまだ信じ切れないペテロへの試練であります。嵐の湖の荒れ狂う力に、まともに立ち向かう死の恐怖です。死と直面しているのです。なぜ、イエス様が荒れ狂う暴風の湖の上を平然と歩いておられるのか。(イエス様は今この世とは違う次元、神の時と神の力の中にある。)恐怖のどん底に舟の中でもがいている弟子たちに神の御子としてのご自分の姿を見せて、この大宇宙のすべてを支配しておられる、神の力をも備え持っておられるお方。この神の御子キリストの真の姿を弟子たちはどれほど信じ、受け止めうるか、「この信仰の薄き者よ」と叱って言われたのです。現代の私たちの信仰が口では言っているがそれぞれ、どれほどのものか、考えさせられます。今日のみ言葉を通してペテロと同じような状況の中で私たちにも現わしておられるイエス様という方の凄さ、はるかに理解できない自然の力のすべてを支配する力をお持ちであるお方、このイエス様の一声で嵐は静まった。弟子たちが言った言葉は「ほんとうにあなたこそ神の子です」でありました。この奇跡の出来事を弟子たちの全身を通して弟子たちの心と魂のすべてに浴びせかけられて心底から「まことに、イエス様こそ神の子です。」という、その信仰への試練を与えられたのです。
イエス・キリストは父なる神の時というものを、そのまま受け取って行かれた方です。神の永遠なる意思の許に、この世の只中で奇跡の出来事を起こして行かれました。人間には理解できない神の時の中で力を発揮されて行かれます。このイエス様にあずかってこそ、私たちは神様の素晴らしい時、永遠の時、救いの時、完全な時に預かることが出来るのです。ヨハネ15章でぶどうの木の譬えをもって言われました。キリストから離れたら私たちは全く神の時から見放され、ただ滅びしかない。しかし、キリストにつながる時、ただキリストにこの私という全存在を委ねる時、全部をキリストに依り頼んで行く時に恵みの時に常に預かって行くことが出来るのであります。嵐の中の弟子たちにも命が神も子イエス様によって救われ、イエス様とつながって神の時の中に生かされて行くのであります。
人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン