お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
2023年8月20日スオミ教会礼拝説教
マタイ15章10〜28節
「自尊心と行いに依存する信仰の空虚、『主よ憐れんでください』の信仰にある真の平安」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
さて、今日の福音書の箇所は、21節からのカナンの女の信仰の箇所だけか、あるいは、その前の1節から関係している10節から28節までなのか、いずれかが割り当てられていて、どちらかを選ぶことになっていました。いずれにしましても、21節からのカナンの女の信仰は、その前の1節から10節までのイエス様とファリサイ派との論争、そして10〜20節までのフィリサイ派について述べた箇所とは無関係ではないと思わされたので、私は10節からを今日の箇所とさせていただきました。
21節からのカナン人は、旧約聖書では、アブラハムの時代にまで遡り、偶像礼拝のゆえに神の裁きを受けた人々の末裔であり、ユダヤの民から見れば、異邦人でありますし、汚れた民とされていました。一方で、1節からと、10節から書かれている、ファリサイ派や律法学者たちは、ユダヤの上級市民であり宗教指導者の立場に近い人々です。幼い時から律法、つまり聖書の英才教育を受け、律法、つまり聖書に精通しているし、自分達は律法を十分に守れていると自負する人々でした。ですから、ファリサイ派や律法学者たちと、カナン人の女は、全く対称的です。しかし、その両者の信仰を対称的に描くことで、私たちに救いの信仰、神が喜ばれ、受け入れられる信仰は何であるのかを教えてくれているのです。カナン人の女の信仰に触れる前に、まず1節からのことを簡単に触れてから見ていきますが。
2,「昔の人の言い伝え」
そこではファリサイ派と律法学者たちが、エルサレムからイエスのところにやってきます。それは神殿を管理する宗教指導者たちから公の質問をイエスにするためにやってきたことを意味しています。しかしそのようにわざわざエルサレムから公式に遣わされ、どんな重大な宗教的なことを質問するのかと思えば、こうでした。2節からですが「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」 彼らが重要視したのは、昔の人の言い伝えを守っているかどうかでした。しかもここでは「食事の前に手を洗ったかどうか」です。「食事の前」ではありませんが、確かに「幕屋に入る前に」手を洗うという記録は、出エジプト記に書かれていました。しかし、それはアロンとその子供たちと、祭司がその勤めを行うためにしたこととして書かれているものです。しかし2節での「昔の人の言い伝え」というのは、イエス様の時代の宗教指導者たちが聖書からそのように「解釈した」ものでした。彼らは、そのような昔の人の言い伝え、伝統、しかも権威ある指導者が代々解釈し文化に定着してきたものを、聖書にならぶ権威あるもとして考えていたのでした。そして、そのような伝統を守っているかどうかも、律法を守っているかどうかに等しいものだったのです。ですので、彼らが「幕屋に入る前」から解釈して受け継がれてきた「食事の前」に手を洗ったかどうかは、彼らにとっては律法と同じ重大な問題で、手を洗わないことは律法違反で、責めるべきことであったのでした。しかし、イエス様は、彼らのそのように神が言わんとしていることを超えて、聖書を人間が好き勝手に解釈する伝統が、いかに神の言葉を台無しにしているのかを指摘します。神は十戒を与え「父と母を敬いなさい」とまさに文字通りのその意味に加え、父母を「罵るものは死罪になる」とまで言って大事なことしています。しかしファリサイ派はじめ宗教指導者達は、両親に「あなたに与えるべきものを、神に捧げる」と言えば、つまり、両親に与えるはずのものを止めて、代わり神殿に捧げるのであれば、別に両親を蔑ろにして良いという新しい規則、解釈、伝統を作ってしまい、その伝統を強調することで神の言葉に反することをさせているではないかと、イエス様は彼らを論破するのでした。そして、そのような彼らに、イエス様は7節「偽善者たちよ」と非常に厳しく言っているのです。マタイが8節以下、引用しているイザヤの預言の言葉は非常に的確にその本質をついています。
8「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
9人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」
ここでは「神の前」と「人の前」とを区別して理解することが大事です。彼らは人の前では、立派で尊敬もされていました。社会でも規律、まさに伝統も良く守り、人にも守らせ、社会には貢献していたことでしょう。もちろん人の前では、社会では、伝統が全て否定されるものではありません。社会を利する良い伝統も、いつの時代も、どこででもあるでしょうし、あってもいいのです。もちろん教会においてもです。しかし、真の神を信じるクリスチャンは、神の前にあることを知っているものですし、伝統よりもむしろ神の前と神の言葉を、何より優先させ生きる存在です。伝統に神の言葉を従わせ、伝統が優先するのではなく、その逆がクリスチャンには必要です。伝統が、神の言葉に沿っているのか、従っているのか、反していないか、そのように吟味して、神の言葉にきちんと従っていれば、伝統も、シナゴーグや教会でも価値のあるものとなるでしょう。しかし、ファリサイ派と律法学者たち、そして、彼らを遣わした、エルサレムの宗教指導者たちは、まさにそれを逆にしてしまっていました。伝統、昔の人の言い伝えを守ること、守らせることが優先することによって、それが聖書に沿わないし従っていないことも忘れてしまい、逆に、聖書に反することを教えてしまっている。聖書を大事にする、よく知っていると言っていながら、聖書に反する間違ったことを教え、させたり、出来ないと責めたり、となってしまっていたのでした。これは、神の前には、まさに偽善者であったのでした。
3、「伝統を優先ではなく、み言葉を優先に」
A, 「口に入るものは汚さない」
これは10節以下のイエス様の解き明かしでもそのことを踏まえて同じことを言っているのです。それは食べ物の伝統でした。彼らの社会では、汚れたものを食べてはいけないという、モーセ律法による慣習的な伝統があったのでした。それは弟子たちもよく知っていましたし守っていました。事実、ペテロは、使徒の働きで、あのローマの隊長コルネリオに遣わされる前に復活のイエス様から、天から吊り下げられた動物の幻を見せられ、これらを屠って食べなさいと言われた時に、自分は汚れたものを食べることができないと言っています。そのように汚れた動物の肉を食べてはいけないという「昔の人々の言い伝え」「伝統」が強くあったのでした。しかし、ここでイエス様はすでにはっきりと言っていますね。11節「口に入るものは汚さない」と。それは、口から入って外に出るだけだと。つまりイエス様は、食べ物、肉や飲み物が汚れているのではないことを伝えているのです。
B, 「口から出るものが汚す」
そうではなく、18節以下にある通り、口から出るもの、つまり、それは人間の心から出る言葉、それはまさに聖書に反する人間に都合の良い伝統や、それを用いて人を裁いたり、批判したり、背責めたりする、ファリサイ派の人々を暗に示しているのですが、そのように汚れているのは人の心であり、そこから出る言葉や行いが人を、あるいは聖書の言葉を汚すのだといい、手を洗わず食事をしても、もちろん物理的には、バイ菌が入ったりしますが、それが神の前にあって、身体や心や霊や魂を汚すもので決してないとイエス様はいうのです。
C,「ファリサイ派の反応を気にする弟子達」
弟子たちは、ファリサイ派を恐れたのでしょうか、12節で、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」とイエス様に注意を促すのです。世の中でうまく生きていくために、宗教世界で悪く評価されないために、伝統に従って行った方が良いと弟子たちは思ったのかもしれませんね。しかし、イエス様にとってはそうではありません。大事で優先されるのは、伝統ではない、昔からの言い伝えではない、どこまでも神の言葉である。そして人が何を聞きたいか、人が何を大事にしたいかではない、どこまでも、神が何を私たちに伝え、何を私たちに教えたいか、それが神の国、神の前にあっては重要であるのです。だからこそ、イエス様は、たとえどんなに自分に対するファリサイ派の反対や悪い評価があったとしても、しかもそれがやがて、逮捕と十字架につながるにしても、ここで神の前にあって毅然と聖書の真理を答え、彼らを偽善者と批判したのでした。そして、ファリサイ派の人々は盲人の道案内をする盲人であり、神が植えていない抜き取られる木なのだから、そのままにしておきなさいと弟子達を諭すのです。
D,「人が何を聞きたいか、ではなく、神が何を伝えているのか」
伝統や、昔の人々が受け継いできたものを大事にすることは決して悪いことではありません。それはどこの教会でも教団でもあることです。良い伝統は大事にしていけばいいのです。しかし、誤解してはいけないのは、私たちは伝統やその昔の人々に仕えるもの、信じるもの、従うものとしてクリスチャンではないということです。私たちはどこまでも神の言葉、キリストの言葉を信じるものであり、聖書に記されているその律法によって日々、心を刺し通され、罪を認めさせられ悔い改めさせられるものであり、しかしその時に、その救いの約束の通りに私たちの罪のために十字架にかかって死なれよみがえられた、それによって罪の赦しと新しいいのちを日々与え続けてくださるイエス・キリストとその福音を信じ、その十字架と復活の福音によって生かされるものです。それが全てであり、それが唯一の救いの道であり、それ以外にはないと告白するものです。それ以外に、加えて救いのためや教会のため、伝統が必要であり、伝統を守ることも必要であるということでは決してありません。しかし、教会は歴史的にその間違いに繰り返し逸れて行っています。そして、人が作り上げ大事する伝統が聖書に優先され、その伝統に流されていくことによって、聖書から逸れていくという結果になるのが常でした。今でも、教会や教団の伝統、昔の教団や教会に貢献した人の言い伝え、教えたこと、功績などが、それが聖書に従い、聖書の正しい教えと信仰と真の福音に沿って従っていれば素晴らしいし大事にしていけばいいのですが、そうではないそのような人間や組織に都合のいいだけの合理的で理解しやすい人が作り上げた伝統や言い伝えや教えや功績の方が、聖書や福音よりも大事にされたり、優先されたり、判断基準とされたり、等々、そのような伝統などで、律法的に教会や宣教が指導されたり導かれることもよく見られたり、聞かれたりすることがあるのです。しかしイエス様はそれは望んでいないことはわかるでしょう。それがどんなに選ばれた民であろうとも、どんなに人の前では立派で尊敬されても、それは神の国の信仰ではないのでした。それは表向きどんなに口では福音だと声だかに叫んでも、神の言葉をわかっていないのです。
E, 「盲人の道案内をする盲人」
イエス様は言われます。13〜14節
「イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。 14そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
そのような信仰は、神が植えなかった木であり、つまり神が与えていない信仰のようなものであり、それは盲目のまま。そこでどんなに敬虔そうに「福音だ!」「伝道だ!」と叫んでも、盲人が盲人の道案内をしており、正しく人を神の国に導くことはできません。それどころか二人とも穴に落ちてしまいます。それは、人の前では、どんなに立派でも本当の救いの信仰ではないのです。
4、「「憐れんでください」の信仰」
しかし、他方、イエス様は、異邦人であるこのカナンの女にこそ、その本物の救いの信仰を見るのです。21節からですが、イエスはそこを去り、ティルスとシドンの地方に行かれます。ティルスとシドンは、地中海沿岸の北の異教の地でした。そこにそこで生まれたカナンの女性がイエスのもとに来るのです。カナン人は、最初に言いました。歴史的には、偶像崇拝のゆえに神の裁きにあった民であり、ユダヤの民から見れば、異邦の民であり汚れた民、救いのない民とされていました。そんなカナン人の女性ですが、22節以下です
「22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 娘が悪霊に苦しめられているので助けてほしい。彼女は憐れんでほしいという、実に悲痛な一縷の望みに縋るように叫びます。本来は憐れみを受けるに値しないそんな自分であることを知っているというその心から出てくる、叫びです。「どうか憐れんでください」と。しかしここではイエスは答えません。一方で弟子達は、ユダヤ人ですし、カナン人は異邦人であり汚れた民とされてきた、まさにその伝統と言い伝えが染み付いていますから、イエスに近寄って願います。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と。ー弟子たちにとっては追い払ってくださいというだけの存在に過ぎなかったのでした。それに対するイエス様の言葉には疑問を抱くことでしょう。24節
「24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 「イスラエルの家の失われた羊」は、そのまま読めばが、イスラエルの人々に限られることをイエス様が弟子たちや女に答えたことがわかります。しかし、実際、イエス様は、マタイ28章の終わりで、全ての国に宣教するように命じているのですから、この時の言葉の意図を超えて、イエス様の計画には異邦人であるカナン人はもちろん全世界の人々に救いの計画があることは間違いのないことです。ですから、この時は、むしろこの女をあくまでも求めすがる信仰を試したとも取れるところです。そのイエス様の言葉に対してカナン人の女性は答えるのです。25節
「25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 イエス様の言葉はとても冷たく厳しく、排他的に聞こえます。しかし、この女の、その心から出る「憐れんでください」という思いが彼女の応答には表れているでしょう。彼女は子犬と蔑まれても、「主よ、ごもっともです。その通りです」と言います。自分が、ダビデの子の前で、実に卑しい存在であり、自分の民、祖先、そして自分自身がいかに汚れたものであり罪人であるのか、受けるに値しないものであるのかを、知っている声です。しかしそれでも、そのイエス様からこぼれ落ちるほどの、溢れる憐れみ、恵み、力を、少しでも受けたい、縋りたい、それが僅かでも感謝して受ける、いただく、そんな彼女の信仰でした。イエス様は言います。28節
「28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
5、「主が喜ばれる真の信仰」
みなさん、ここから教えられるでしょう。イエス様の前、神の前にあって、救いの信仰、真の信仰は何ですか?ファリサイ派のように、選ばれた民で聖書の英才教育を受け、社会に適し守られてきた伝統も含めてしっかりと守っていると自負し、自他ともに認める人の前に立派な、評判の良い人の、自らを誇れる、自慢できる、そんな行い振る舞いで自分は救われていると確信がもているようなそんな信仰ですか?そうではありません。それは真の信仰ではありません。偽善です。そもそもそこに確信など持てないのです。イエス様はそのような自らの行いを誇れる自信のある信仰など望んでいないし、「人の前」には価値があったとしても、「神の前」には全く何の価値もありません。むしろイエス様はそのような行いや功績を律法的に拠り所にするような信仰は、神の御心そっちのけで人間の伝統や言い伝えに逸れていき、ますます律法的になり、聖書に反することになることをイエス様は嘆きました。そうではない。むしろ神の前にどんなに卑しい存在、罪深い存在であっても、それが神の前には事実であると認めて、その神に、もう、憐れんでくださいとしか言うことのできない、そこまでも謙った心と叫び、そして、それほどまで罪深い汚れたものでも、受けるに値しないような存在であっても、その救いの恵みのほんの僅かなおこぼれにでも、縋りたい、受けたい、食べたい、そのように神が、イエス・キリストが与えて下さるものに求め、受けること、その信仰を、イエス様は立派だと言われたのでした。
皆さん、私たちはとかく逆に考えてしまいます。何かができるから、あるいは、教会のしきたり、文化、伝統、慣習に立派に答え、貢献し、周りから立派だと評価されるから、自分の信仰は立派なんだ、救いは確かなんだ、祝福されるのだと、考えてしまっていることはないでしょうか?実際に、そのような信仰の導き方をするような教会も沢山あるかもしれません。しかしそれは聖書の教え、イエス様の教えではありませんし、イエス様は望んでいません。イエス様が望んでいるのは、まず、このカナン人の女、そして、ルカ18章9節以下にある、徴税人の祈りにもあるように、どこまでも、私たちが、今日も、神の前にあって、律法によって、私たちはどこまでも罪人である、そのままでは何の救いようもない滅びるだけであった、受けるに値しないような存在であると、まずは認めさせられること、律法にあって、罪を悔いること、神の前に絶望することです。「憐れんでください」としか言えない自分を認めることです。しかし、その時、だからこそ、そんな私たちに神は御子イエス様を与えてくださっている、イエス・キリストの十字架と復活を今日も示してくださっている。この十字架にあって、イエス様は私たちに「あなたの罪は赦されている」と今日も言ってくださるのです。イエス様に、その空っぽの、無力さを知っている心で、今日も、神よ、憐れんでください。助けてくださいと、すがることこそを、イエス様は求めておられるし、その信仰をイエス様は立派だとしてくださるし、そうこの十字架と切り離せない復活のイエス様は罪の赦しと同時に、安心して行きなさいと、復活の新生と平安を与え、日々、今日も、新しく遣わしてくださるでしょう。そのイエス様の十字架と復活とそこにある罪の赦しと日々新しいいのちの平安こそが私たちに与えられている福音です。今日も変わることなく、イエス様は、そんな罪を悔いる私たちの前におられ、宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。テーブルの上からのおこぼれどころか、素晴らしい救いの恵みを、今日もイエス様は私たちの前に差し出してくださっています。そのまま受けましょう。そして、安心して、ここから遣わされていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン