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[私たちの、父なる神と主イエス・キリストから恵みと、平安とが、あなた方にあるように。アーメン]
聖書 マタイ福音書18章15~20節 2023年9月10日(日)
説教題 「神の愛による、ゆるし」
皆さんも、よくご存知の美空ひばりさんの歌に「一本の鉛筆」という歌があります。”一本の鉛筆があれば、私は戦争はイヤだ、と書く”この歌の一言に胸がジーンとせまります。戦争はイヤだ、と誰でも思っている。しかし、現実には世界で今も戦争で多くの人が殺されている。戦争は無くならない。マルチンルターは「主の祈りの講解」でこう書いています。「この世に於いては平和がない。」我らの平和は神のうちにある。神の愛につながっていなければ、安らぎはないのです。神様は人を創造されました。しかし、その人間が神に背き、人間の意のままに、何でもなして行こうとする。この罪というものが人間の根底にある。そして戦争を引き起こします。この「罪を犯してしまう」人間の根本の大問題をどうしたらよいか。今日の聖書でのイエス様の教えです。マタイ福音書18章15~20節のところで、あなたの貴重な兄弟が罪を犯した場合、彼に対して、どういう対処をしたらよいか。もし、自分の大切な兄弟が自分に対して個人的な問題として裏切り罪を犯した事を知った時、なすべき事は二つあります。第1は「行って忠告しなさい」という教えです。これは「行って、そして、忠告しなさい」と言うような悠長な命令ではない。「そして」という接続詞ぬきの「行け、忠告せよ」という慌ただしい命令です。一刻の猶予もなし、即、行けという事です。旧約聖書レビ記19章17~18節に次のようにあります。隣人愛の教えです。「あなたは、心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに,諫めて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。復讐してはならない。あなたの民の人々に、恨みを抱いてはならない。あなた自身のように、あなたの隣人を愛さなければならない。私は主である。」ここでは、隣人を愛する人は罪を犯した隣人をねんごろに、諫めるべきです。という事。「諫めなさい」という原文では、強く戒めている言葉です。ですから、「ねんごろ」に「諫めなさい」そうしないと罪を負う事になる。何故なら、罪を犯した兄弟は必ずしも自分のした事の罪深さに感づいていないからです。旧約聖書サムエル記上24章5節以下には、ダビデがサウル王に追われ洞窟の奥に潜んで隠れている所にサウル王が来て用を足す間にダビデはサウル王の上着の端を密かに切り取った、しかし、ダビデはこのことを後悔し心に責めを感じるほど良心的なダビデでしたが、サムエル記下12章を読みますと、ダビデは自分の家臣ウリヤの妻バト・シェバを自分のものにしようとウリヤを戦場に出し戦死させてしまった。この事を預言者ナタンがダビデに責め寄ります。その時までダビデは良心の呵責を感じませんでした。このように、どんな良心的な人といえども,何時も同じように良心が済み切っているわけではありません。人間って強いようで弱いところがあるものです。ですから、兄弟が罪した時には、その都度、即、彼を諫める必要があるのです。それも、早く諫めなければなりません。何故なら、話し合いを一旦延ばすうちに、心に「憎しみ」或いは「恨み」を抱き軽蔑と増悪が募るからです。
さて、第2にはその忠告を「彼と二人だけの所でする事です。」15節で述べています、それは、あなた自身に対する、個人的な罪である場合、なるべく、穏便に済ませるためです。たとえ、公の場合でも率直に懺悔を語られるようにしてあげるためです。自ら良心の呵責に苦しんでいる兄弟の魂、或いは忠告されて良心が疼き始めた兄弟の魂は傷ついています。その心の傷口を労わりながら、静かに、しかも厳かな雰囲気の部屋で二人だけで話合うべきです。もし、この段階で聞いてくれないなら、他に1人・2人を一緒に連れて行きなさい。(16節)それは旧約聖書の申命記19章15節にこうあります。「どんな不正であれ、どんな咎であれ、総ての人の犯す罪はただ1人の証人によって定めてはならない、2人の証人の証言により、または3人の証人の証言により、その事を定めなければならない。」とあるからです。申命記の時代、原告も証人として扱われれていましたので、1人の証人ではだめで、2人・3人以上の証言が必要なんだ、ということです。こうして、罪を犯した兄弟に決してこちらの忠告は個人的中傷ではない事を悟らせる事、そして彼が一層、厳粛に自分の罪に気づくよう導かれねばなりません。そうは言っても、このようにうまく忠告を素直に受け入れてくれるか難しいところでしょう。しかし、相手のためを思って密かに忠告する配慮を忘れてはならないでしょう。その他、それが、ただ自分一人の意見でなく、正義の戒めである事を厳かに証言して、兄弟を悔い改めへ、と導くべきでありましょう。それでも、もし、彼らの言う事も聞かないなら教会へ申し出なさい。17・18節を見ますと、それでも、なお、聞かないならその人を異邦人又は収税人同様の扱いにしなさい。よく言っておく、あなた方が地上でつなぐ事は天でもみなつながれ、あなた方が地上で解く事は天でもみな解かれるでああろう。 ここには、兄弟が自分の説得もきかない、又他の友人2人或いは3人の手を変え品を変えて忠告しても聞こうとしない。”頑固”という
罪で教会に於いて神の前で悔い改めを訴えても聞かない。もう、どうにも手に負えない、彼はもはや”兄弟愛”、”真理と正義への従順”と言った、キリスト者に本質的な、美徳を捨てたも同然、公の犯罪者だからです。そこで、もともと、私だけの罪を犯したのだから、私さえ我慢すれば、済むことだ・・・と言う変な諦め、から放置しておくのは恐ろしい罪の中に放置しておくことに他ならない。
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だとすれば、素人療法で直せない病人を病院に連れて行くのは家族や兄弟としての当然の配慮でしょう。しかし、ここで、「教会に申し出る」それでも「教会の言う事を聞かない」なら、と漠然とした表現で語られています。実際に誰に申し出たらよいのか、或いは誰の手で審議され判決が宣告されるのか、ここから結論する事はできません。最終的に教会戒規はこの不従順な罪人を「異邦人,又は収税人同様に扱う」ところで終わるしかない、ということです。イエス様の時代、その兄弟を「異邦人、又は収税人同様に扱う」という事は要するに教会の兄弟になる前の状態に逆戻りした者として、教会から除名することに他なりません。しかし、教会の戒規というものは、あくまで、彼が悔い改めて、神に立ち返る事を願っての愛の鞭、としての役を持つものであります。コリント第一5章2~5を見ますとパウロはコリントの教会内で不品行な兄弟を除名するよう命じて申しました。「そんな行いをしている者があなた方の中から除かれなければならない、ことを思って悲しむべきではないか」しかし、私自身としては体は離れていても霊では一緒にいて、その場に居合わせた者のように、、そんな行いをした者を既に裁いてしまっている、即ち主イエスの名によって、あなた方と私の霊が共に私たちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされるように、彼をサタンに引き渡したのです。それは主の裁きの日に彼の霊が救われるためです。つまり、除名の戒規はあくまでも彼の霊が救われることを願っての処分であったのです。あとでパウロはコリント第二2章6~8のところで「その人にとっては多数の者から受けたあの処罰でもう充分なのだから、あなた方はむしろ彼を赦し又慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます、深い悲しみに沈むかもしれない。そこで私は彼に対して愛を示すようにあなた方に勧める」と忠告しています。
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教会に、この兄弟愛がない、ところでは教会のどんな戒めの規律も正しくは行われないからです。そこで、18節では言われています。「よく言っておく、あなた方が地上でつなぐ事は天でも皆つながれ、あなた方が地上で解く事は天でも皆、解かれるであろう」とあります。ペテロを代表として教会が受けた「天国の鍵」の権能は教会の戒めの規則に於いてそのまま行われている、ということです。ですから、もし「教会は私を戒めの規則に処分したが神様は、きっと私を赦して下さるにちがいない。」或いは「地上の教会は私を有罪にしたが私は天の法廷で判決を覆してみせる」等というような、自惚れた反逆心を犯人に決して持たせてはならない。ということです。ここで言われている事は、地上での教会決議は天の決議と等しいという断言でもあります。教会の兄弟姉妹のわずか2人・3人が集まっているところには、その中にキリストが臨在し、すべてを守って下さる、ということです。19節でイエス様は言われました。「もしあなた方の内の二人が 願うどんな願い事についても
天の父はそれをかなえて下さる」と約束してくださいます。しかし、罪を犯した兄弟の扱い方を論じて来た教えの中では「どんな願い事も、皆、彼が自分の罪を悔い、神に立ち返る事に結びついているべきこと」は言うまでもありません。それは2人・3人の集まりにキリストが臨在して下さる約束があくまでも「私の名によって集まっている」正しい集まりでなくては無意味だからです。
大切な事は「心を合わせて、イエス・キリストの名によって」集まり、祈り合うことであります。何故なら14節の「これら小さい者の1人が滅びることは、天にいます、あなた方の父のみ心ではない、」からであります。最後にペテロは第一の手紙4章8節で次のように書いています。「何よりも、まず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪を覆うものである」「愛を持って祈り合う」それが多くの罪を覆い、兄弟を罪から引き戻す力であります。
<人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン>