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主日礼拝説教 2023年9月17日(聖霊降臨後第十六主日)
聖書日課 創世記50章15-21節、ローマ14章1-12節、マタイ18章21-35節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日のイエス様のたとえの教えはこうでした。王様に多額の負債があった家来が泣きついて情けをかけられて借金を帳消しにしてもらった。ところが、その家来は自分に対して少額の借金がある仲間の家来に対しては泣きつかれても耳を貸さず、返済するまで牢屋に入れてしまった。それを知った王様はこの情けのない家来を怒って、自分がしたように情けをかけるべきではなかったかと言って、返済するまで牢屋に入れてしまった。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら他の人にもそうしなければならないと教えているんだなと思うでしょう。なんだか当たり前な話に聞こえます。
ここに出てくる金額を少し具体的に見てみます。そうすると情けをかけることが当然ということがよくわかります。情けのない家来が仲間の家来に貸していたのは100デナリオン。1デナリオンは当時の低賃金労働者の1日の賃金です。それで100デナリオンは100日分の賃金。これを今の金額で考えてみます。少し乱暴な比較になりますが、東京都の最低賃金は今年から時給1,113円になりました。一日8時間働いたら8,904円。端数を切捨てて一日8,900円として、100日分だったら89万円。これが100デナリオン。それだけの貸しがあった。そこで、情けのない家来が王様に負っていた負債額を見ると、1万タラントン。1タラントンは6,000デナリオンなので、5,340万円になります。これが1万あるとすると、0をさらに4つつけて5340憶円になります。情けのない家来は5340億円の負債を帳消しにしてもらったのに、他人の89万円の借金は免除してあげなかった。なんとも度量の狭い人間です。これだけ大きな情けを受けたら、普通は他者に対しても同じようにするのは当たり前なことに感じられます。イエス様はなんでこんな当たり前な話をしたのでしょうか?
このたとえは、イエス様がペトロのある質問に答えてその続きとして話したものです。ペトロの質問とは、兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげるべきか、7回までかというものでした。つまり、赦しには限度があってそれを越えたらもう赦さなくていいのか、というです。それに対するイエス様の答えは、7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、つまり490回でした。聖書の訳によっては77回とするものもあります。ギリシャ語原文を見るとどっちにも取れます。どちらにしても、イエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。赦すことに制限を設けない根拠として、情けのない家来のたとえを話したのです。
キリスト信仰者は罪を犯した兄弟を無制限に赦さなければならないというのは、信仰者自身が1万タラントンの負債を帳消しにされたような罪の赦しを受けているからだ、だから兄弟の犯した罪など5340憶円に対する89万円くらいのみみっちいものにすぎない、それがわかれば兄弟の罪を赦すのは大したことではなくなるのだ、という趣旨なのです。そういうわけで今日は、キリスト信仰者は巨大な負債を帳消しにされたと言えるような罪の赦しを受けているということについて少し深く見ていこうと思います。
まず初めに3つの基本的な事柄を整理しておきます。一つ目は、「私の兄弟が罪を犯したら」と言いますが、兄弟とは誰のことか?二つ目は、罪を犯すとはどんな悪さをすることか?そして三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?についてです。
まず、「私の兄弟」とは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者から罪を犯されるという問題について論じているのです。それでは、キリスト信仰者が信仰者でない人から罪を犯されたら、どうなのか?赦さなくていいのか?いや、やはり赦すべきなのか?この問題は説教の終わりの方で明らかにします。
次に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」とはどんな悪さをすることでしょうか?「罪を犯す」などと言うと、何か法律上の犯罪を犯すことを連想します。しかし、これはもっと広い意味があります。要は、十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな等々を行為だけでなく、言葉に出してしまったり、心の中で持ってしまうことです。このように神の意思に反することを行為のみならず、心の中で持ってしまったり、言葉で言い表してしまうことが罪を犯すことです。
三つ目はとても難しい問題です。罪を赦すとはどういうことか?キリスト信仰で罪を赦すというのは、単純化して言うと、相手が神の意思に反する罪を犯した時、犯された側が、それをさもなかったかのようにする、今後は取りざたしない、とやかく言わない、というのが赦しです。イザヤ書43章25節で、神は言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」思い出さないことにするというのが赦すことです。エレミヤ書31章34節でも神は同じように言われます。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」もう心に留めないというのが赦すことです。ミカ書7章19節で預言者は言います。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」神は民の罪を表ざたにしないで奥深く沈めてしまう、これが罪の赦しです。神の意思に反する罪は起きてしまった、それはもう打ち消すことができない事実である、しかし、それをさもなかったかのようにするから、新しく出直しなさい。そういうふうに、神の罪の赦しには罪を犯した者が新しく出発できるようにするということが一緒になっています。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。私も時々聞かれるのですが、キリスト教は罪を赦すので処罰はなにもないのか、犯罪を犯しても、さもなかったかのようにしてしまったら、犯罪は野放しになってしまうではないか、というものです。罪を赦すとは、してもいいよと罪を許可することではありません。日本語の「ゆるす」は二つの異なる漢字があるので混同されやすいと思います。罪は神の意思に反することなのでしてはいけないのです。心の中で思っても口に出してもいけないのです。もし犯したら、「命の書」に書き留められて最後の審判の時にお前はこうだったと突きつけられるのです。まさに、本日の使徒書の日課ローマ14章で言われるように、かの日には各自一人一人が神の前に立たされて自分自身について申し開きをしなければならなくなるのです。果たして神に対して申し開きなど出来るでしょうか?
ヨハネ8章でイエス様は罪を犯したために石打の刑にかけられそうになった女性を助け出して次のように言いました。「わたしもあなたを裁かない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ギリシャ語原文では「裁かない」ですが、新共同訳では「罪に定めない」です。悪くない訳です。イエス様が裁かないと言うのは、お前の罪は「命の書」に書き留められてしまったが、最後の審判者からとやかく言われることはもうない、だから申し開きの必要もないということです。なぜそうなったかと言うと罪が赦されたからです。まさに罪に定められていないということです。イエス様からそのような赦しを受けて、「もう犯したらだめだよ」と彼に言われたら、本当にその通りにしなければと思うでしょう。このように罪を赦すというのは罪を許可することと全く正反対な方向に向かうのです。
犯罪は処罰しないのかということが出たので、少し考えてみます。社会には法律があり、犯罪について規定があり、刑罰や賠償について規定があります。それらに従って犯罪を確定して刑罰や賠償が課せられるのは当然だと思います。神は、殺すな、傷つけるなと命じているので、そのようなことが社会で好き勝手に行われるのを放置してはいけないのです。そう言うと、じゃ、やはり、なかったかのようにしていないじゃないか、赦していないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、犯罪の場合の罪の赦しというのは、被害を受けた人の心に関わることだと思います。処罰や賠償というのは、社会の秩序が正義に基づくために設けられたものです。なので処罰や賠償は社会に関わることです。このように罪の赦しと処罰や賠償は別々に考えられると思います。
罪の赦しは心に関わるということをもう少し見てみます。キリスト信仰では、完全な正義は最後の審判の時に実現するという立場です。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は自分で復讐をしてはならない、神の怒りに任せよと注意喚起します。神の怒りに任せよというのは、最終的な判決、処罰、賠償は最後の審判の時に神が行うのでそれに任せよ、ということです。最終的な判決、処罰、賠償をこの世で目指すと復讐することになってしまうと思います。自分で復讐をしないで最後の審判の神の怒りに任せるのがキリスト信仰者だとすると、信仰者がこの世で正義を実現しようとすると次のようになると思います。万能薬ではない社会の規定を、神の意思から外れないように用いて、最善の正義を目指すということになると思います。そういうふうにキリスト信仰者は正義を目指しつつ、同時に、敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ、とパウロは教えます。実際に行動に移せる可能性があるかどうかは別にして、少なくとも心の有り様はこのようになっていなければならないのです。果たしてキリスト信仰、イエス様を救い主と信じる信仰で、このよう心の有り様は生まれるでしょうか?本日のイエス様のたとえは、それが生まれることを教えるものです。
そこで、本日のイエス様のたとえが、キリスト信仰者にとって罪の赦しは莫大な負債を帳消しにされたのと同じだと言っていることについて見ていきましょう。このたとえを最初に聞いた弟子たちは、莫大な負債を帳消しにしてもらったら他人の小さな借金など取るに足らないものに感じられるというのはわかったでしょう。しかし、それが罪の無制限の赦しとどう結びつくのか?お前たちは莫大な負債を帳消しにしてもらったのだ、だから兄弟の罪など小さな借金と同様だ、兄弟の罪を無制限に赦してやるのは当然だ、そう言われても、自分たちにとって莫大な負債の帳消しとは一体何なんだ?ということになってしまいます。兄弟の罪に対する無制限の赦しと自分たちの莫大な負債の帳消しの結びつきが見えてきません。
ところが、それがはっきりわかる日が来るのです。イエス様の十字架の死と死からの復活の日です。イエス様が神の想像を超える力で死から復活されて天の神のもとにあげられたのを目撃した弟子たちは、あの方は、かつてダビデ王自身が私の主と呼んだ方で、父なる神の右に座すことになった方なのだ、つまり神のひとり子だったのだということが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかかって痛々しく死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間に代わって受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。このように全てのことが事後的に次々とわかるようになったのです。十字架と復活の出来事の後にわかるようになった使徒たちは次のように記しました。
パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)
ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)彼らはイエス様が十字架の前に言われた次の言葉の意味がわかったのです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」(マルコ10章45節)
神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が人間に開けたのでした。神の子の命が身代金になったのです。この代償の価値から見たら5342億円など1円にも満たないものです。神は、私たちがこの世で神との結びつきを持って生きることを妨げていたもの、この世の人生の後で神の国に迎え入れられることを妨げていたもの、罪という負債を帳消しにしたのです。
このようにして人間は自分では何も犠牲を払っていないのに、神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで罪を償ってもらった者、償ってもらったから罪を赦された者として見てもらえる、そういう状況が生み出されました。
そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起こったのだとわかってそれでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この罪の赦しの状況に入れることになりました。そこに入れると、人間は死を超えた永遠の命に向かう道に置かれてその道を歩み始めることになります。この世を去る時が来ても、その時は安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。本日の使徒書の日課ローマ14章でパウロが、キリスト信仰者は生きる時も死ぬ時も主のものとしてあると言っている通りです。この世を離れて復活の日までの眠りの時も主のものであり続けるのです。そして、復活の日に目覚めさせられて永遠に自分の造り主である神の御許に迎え入れられるのです。このように人間は、イエス様の十字架と復活の業によって、かつ、そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、罪と死の捕らわれ状態から解放されて神の御許に迎え入れられる地点を目指して歩む者となったのです。これがキリスト信仰者です。
ただしキリスト信仰者と言えども、肉を纏ってこの世を生きる以上は罪はまだ残っています。しかし、洗礼と信仰によって神との結びつきが生まれました。その結びつきの中で神の国に迎え入れられる日を目指して歩んでいることは、礼拝の罪の赦しと聖餐式を受けることで確実なことになりました。やはり罪は帳消しになったのです。
これでキリスト信仰者は莫大な負債の帳消しが自分たちに起こったことがわかりました。罪という神に対する負債で、そのままにしておくと、この世で神との結びつきを持てず、この世の次に到来する世で神の国に迎え入れられなくなってしまうという負債です。それを神はひとり子を犠牲にして帳消しにして下さったのです。このような帳消しを受けたら、この世で兄弟が犯した罪などちっぽけなものになるはずです。しかし、ここで忘れてはならない大事なことがあります。それは、兄弟の罪を無制限に赦さなければならないというのは、それが取るに足らないものだからそうせよ、ということではないからです。取るに足らないというのは、赦さなければならない理由ではなく、難しいことではないと言っているだけです。赦さなければならない理由は別にあります。
兄弟の罪を無制限に赦さなければならない理由とは何でしょうか?兄弟が罪を犯したというのは、その人の神との結びつきが揺らいで御国への道の歩みに支障が生じたことです。そのようになってしまった兄弟をキリスト信仰者は助けてあげなければなりません。兄弟が神との結びつきに戻れるように道の歩みに戻れるようにすることが助けることです。そのためにどうすべきか?その時はやはり、兄弟が自分自身もイエス様の莫大な犠牲を払われて罪の赦しを得たことに思い当たることが大事です。そのことに思い当たれるために無制限の赦しの態度を示すべきだというのがイエス様の趣旨だと思います。同じことは、キリスト信仰者でない人の罪の場合にも当てはまるのではないかと思います。その人の場合は、まだ神との結びつきがなく、復活の日を目指す道の歩みをしていません。キリスト信仰者の兄弟の場合は戻れることが目指されますが、信仰者でない場合は結びつきと道の歩みに入れるようにすることが目指されます。その時、イエス様の莫大な犠牲に思い当たれるために無制限の赦しの態度を示すことは大事になると思います。
以上、罪の無制限の赦しは、神との結びつきと御国への道の歩みから離れてしまった兄弟が戻れるようにすること、まだ結びつきを持たず道に入っていない隣人が入れるようにするということが目的としてあることを忘れないようにしましょう。こういう目的があることを忘れて罪の無制限の赦しを目指すと、人間が自分で自分を高潔な倫理的存在にすることになってしまい、キリスト信仰から離れて行ってしまうと思います。
最後に、罪の無制限の赦しなど果たして兄弟や隣人が神の莫大な負債帳消しを思い至らせるのに役立つだろうか、案外、悪用されたりして馬鹿を見てしまうのではないかという疑いも出てくるかもしれません。私もそうです。でも、聖書にはそういう疑いを失くさせる話が沢山あります。本日の旧約の日課でヨセフが兄たちに述べた言葉はその一つです。ヨセフの兄たちはかつて弟をエジプトに奴隷として売り飛ばしたことを後悔し、ヨセフが復讐しないように憐れみを乞います。ヨセフは今やエジプトの高官の地位につき国民を大飢饉から救った英雄です。しかし、彼は権力を振りかざすことはなく、何も心配はいらないと言って兄たちを安心させます。復讐心を剥き出しにするどころが、逆に兄たちの悔恨を聞いて涙ぐんでさえしまいます。なんと心の清い人なのでしょう。ヘブライ語原文に忠実に訳します(創世記50章20節)。
「あなたがたは私に悪を企みましたが、 神はそれを良いことと見なしたのです。 そう見なしたのは、今日において多くの 人々の命が助かるようになさるためでした。」
神は悪いことが起きてもそれを全く別物に作り替えられるのです。
パウロもローマ8章28節で同じことを言っています。
「神を愛する者たちのため、 ご決定により選ばれし者たちのため、 神は万事が良いものになるように働かれる、」
このようにキリスト信仰者は、害悪を被っても失望や絶望、悲しみや復讐心に埋没してしまわない超越的な視野と、真っ暗闇の中でも消えない光を聖書から得ることができるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン