2023年10月8日(日)聖霊降臨後第19主日 主日礼拝

「これは、主がなさったことで」マタイ21:33-46

[はじめに]

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(2コリント 1:2ほか)

[導入]

私たちは、自分自身の人生を意味あるものにしたいと願っています。そのために、自分の人生の価値を高めるために、より効率的に、より生産的に生きたいと願うことは自然なのかもしれません。最近では「タイパ」という言葉がよく使われるそうです。タイム・パフォーマンスの略で、短い時間でいかに効率良く成果を上げられるか、という意味だそうです。その一環として、動画配信サイトなどでは、映画のあらすじを5-10分程度で紹介する動画もとても人気だそうです。しかし、2時間の映画を10分に短縮したら、それは情報にはなるかもしれませんが、元の映画が表現しようとしたものは伝わるのかと言えば、はなはだ疑問であると言わざるを得ないでしょう。効率と生産性を求め、無駄・無意味を排除していくことは、実はむしろ人生の中での様々な体験を貧しいものにしてしまうことになるのではないでしょうか。そして、むしろ自分が無駄・無意味であると考える時、そこでしか出会えない、聖なるものがある、ということも、私たちの人生における神秘であると思うのです。それは、聖書の語る主イエスの十字架、福音の出来事にもまた通じるのではないか。そのように思うのです。

本日の日課から聞いて参りたいと思います。

[展開]

マタイによる福音書では21章の冒頭で、主イエスは「平和の王」として都エルサレムに入城します。大勢の群衆が主イエスを歓呼をもって迎えますが、同時に多くの者がこの人は何者なのかと訝しんだことが報告されています。このイエスという人物を受け入れるべきか、拒むべきなのか、主イエスの都の舞台への登場は人々に戸惑いを引き起こすこととなったのでした。そしてエルサレムの都にある唯一の神殿の境内で主イエスは人々に教えを語ることとなります。神殿の境内とはいわば、宗教的な権威者達が自分のテリトリー・縄張りとしていた場所に他なりませんでした。それゆえに、そこに入り込んで来て、人々に勝手に語るイエスという男に対して「何の権威でこのようなことをしているのか」と宗教的な権威者達は問い糾すこととなったのでした。彼らからの詰問に応える形で、主イエスは3つの譬え話を語られることとなります。一つ目のたとえの結びでは主イエスは、宗教的な権威者達に対して、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と語られます。つまり、当時の社会秩序の基準からは、排除されていた者たちの方が、誰よりも信仰深く多くの知識を有していると自認している者たちよりも先になると語られるのです。それは、神殿の中枢にいる、いわば最も神の国に近いと自認している者たちに対して、主イエスは彼らの立っているその足元を揺るがされるのでした。それにさらに続いて本日の福音書の日課の譬え話が語られることとなります。

主イエスが語られる「ぶどう園と農夫」の譬え話は、もしこの箇所だけを取り出して読むならば、何を言いたいのか理解しがたいと言わざるを得ないでしょう。無防備に使いの者を派遣しつづける、ぶどう園の主人はまるで無策としか言いようがありません。それどころか、先の多くの使者に暴力がふるわれているにも関わらず、またしても何の対策も無しに跡取り息子を派遣するのです。その姿は、およそ危機管理というものを知らないのではないかと思わずにはいられません。そのようなことが出来る主人がもし存在するとするならば、遣っても遣っても減ることのない無尽蔵の資産を持っているか、あるいは、およそ人間ではありえないような愛情と寛容さを備えているかとしか考えられないといえるでしょう。しかし、私たちは先の第1のたとえからの続きでこの第2のたとえを読むとき、これが私たち人間の価値観に基づいているのではなく、その根幹にあるものは神の国の基準であることを思い起こすこととなる。それはこの地上において見える序列や権威とは相反する価値基準であり、この地上においては無策・無価値とも見えるほどの無限の寛容さと愛情に基づくものであることを思い起こすこととなるのです。

本日の譬え話は、主なる神が民に遣わしてきた預言者達の運命を示唆していること、そして最後に神の子である主イエスの派遣とその運命を象徴していることは、言われてみれば一目瞭然であると言えるでしょう。その意味でこの譬え話は主イエスの受難の予告である、とも言えるのです。「何の権威でこのようなことをしているのか」と問い糺されたことに対して、この譬え話が語られる時、主イエスの権威とは、この地上における序列でもなければ、人として有する知識や敬虔さの深さでもない、ということ、すなわち主イエスの権威とは、そのひとり子をこの地上に送られた主なる神のその無限の愛と寛容さに基づくものに他ならないのです。主イエスはただ、主なる神の限りのない、そしてまた人にははかり知れない神の愛のゆえに、その十字架の運命の待つこの地上に与えられたのでした。主イエスがこの地上に使わされ、無力な姿で十字架へと歩むその道筋は、私たち人間の目には、無駄で無策な歩みにしか映りません。しかしそれは、この地上においてその苦しみの中で生きる者を救おうとする神の限りのない愛のゆえに実現した出来事であることを、聖書は私たちに示すのです。

[結び]

42節で引用されている詩編の言葉は、この主イエスを基礎の石として教会が造り上げられていることを語ります。人の目から見るならば捨てられるしかない石こそが、逆に私たちを砕くと聖書は語るのです。この地上において、私たちは自分自身の知っているところ、見えるところの価値基準によって、人を裁いてしまいます。しかし実は、その同じ価値基準によって、自分自身もまた裁かれてしまうのです。この地上において私たちは、これこそが効率的・生産的であり、多くの実りを生み出す正解であると思えるものを求め利用する生き方をしています。しかし実は、そのことを繰り返していく中では、自分自身もまたただ自分が使い尽くされ、消費されていくだけの存在であるという事実に、いずれ直面することとなるのです。この地上においてはこの私もまた、時と共にもはや価値など無いと断じられ、捨てられる時が来ることをただ怯えるしかないことを私たちは知るのです。けれども、捨てられた石、十字架にかけられた主イエスを基として教会は建てられました。そこで私たちは、神の限りのない、そしてはかり知れない神の愛に私たちが出会い、自らの価値基準そのものが大きく変えられていく、こととなるのです。

本日の譬え話が語られた都と神殿は、その後のローマとユダヤとの戦争によって徹底的に破壊されてしまうこととなります。しかしその一方で、神の限りのない愛は永遠に砕けることなく残り続けるのでした。

無制限の愛と寛容さとをもって主なる神がなさったこと、それは私たち人間の目には、なんとも理解しがたい事柄です。けれどもそれを言うならば、この地上にこの小さく弱い存在でしかない私たち自身に命を与えられたことそのものが、まさに無制限の愛と寛容さゆえの出来事に他なりません。そしてさらにその小さく弱い存在でしたかに私たちに、新しい命の力を与えるため、主イエス・キリストを与え、主イエスの命を、十字架を通して分かち合ってくださったのです。だからこそ、十字架を見上げるとき、私たちはそこに主なる神の私たちへの限りの無い愛を思い起こすのです。主イエスの十字架を通して私たちに与えられた神の深い、無限の愛に生かされ支えられつつ、新しい週を共に歩んで参りましょう。

[終わりに]

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。(ローマ15:13)

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

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