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<マタイ22:1~14>
「神の恵みを受けよ」 スオミ教会2023・10・15
「子供は国の宝」と言います。日本で、今その子供の数が減って、お年寄りばかり増えています。これでは将来、国を支える働き手が、もう大変な事になります。
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子供が減っている、という事は、若い男女が結婚することが少ない、結婚しても子供を育てる事が大変だから、という事でしょう。さて、今日の聖書では、イエス様が語られた「王の一人息子、王子の婚宴」の譬えです。「イエスは、また、譬えで彼らに語って言われた。天国は、一人の王がその王子のために婚宴を催すようなものである。」イエス様はマタイ福音書21章のところで、二つの譬えを話されています。そして、今度はそれに加えてまた、重要な天国について、別の角度から話されたのです。21章の二つの譬えでは、いわばユダヤ教の指導者たちパリサイ人、又サドカイ人たちに向けての、彼らの罪と罰を痛烈に批難されました。その一つが「悪い葡萄園の農夫たちが主人の僕たちを次々に殺し、最後には主人の一人息子まで殺してしまう、そこで主人は大変怒ってこの悪い農夫たちを全部、滅ぼしてしまうという話です。今度の王の婚宴の譬えは、王の招きを拒んでしまう者への罰です。前と違うのは特に新しい国民であるキリスト教会の在り方について詳しく示しています。今度の譬えで語られた「王」と言うのは神様のこと、「王子」はイエス・キリストの事です。「婚宴」とは、神の国の事、「招かれていた人たち」とは、ユダヤの民の事です。
そして、神はここでも、婚宴の用意をすべて一手に引き受けておられます。又、神はここでもまず「客を招き」実際の婚宴の時刻になると「僕たちを遣わし」断られても、ほかの僕たちを遣わす、と言うほどの忍耐と寛容を示しておられます。前の「悪い葡萄園の農夫」の譬えでもそうでした。遣わされた僕たちが殺されても主人は忍耐して、最も大事な1人息子を遣わすのです。神の忍耐と神の恵み、寛容の豊かさに関しては二つの譬えは全くおなじです。今度の譬えで二つの新たな真理を教えておられる。第一は、この譬えで神の国が「婚宴」という喜びの場に、たとえられている点で神の恵みは一層大きなものになっています。又、前の譬えでは、神の国は「葡萄園」であり、ユダヤ人は働き人でなければなりませんでした。今度の神の国は「婚宴」でありユダヤ人は飲み食い楽しめばよい。第二は、前の譬えの事件が起こったのは葡萄の収穫の季節でした。今度の譬えでは「王子のための婚宴」という時です。収穫の秋は毎年巡って来ますから、悪い農夫の代わりに別の新しい農夫に委託すれば来年からは、やり直しの余地があります。ところが王子の婚宴は毎年やり直しのきかない一度限りの目出度い時です。神の招きは充分準備も整えられて熱意に満ちています。神の並々ならぬ熱意です。従って、今度は派遣される僕たちも、すべてが整った終わりの時の僕たちです。さて、第三には、前の譬えの悪い葡萄園の農夫たちは、つまりユダヤ民族の指導者が中心でした。今度は神の招きを受けているのはユダヤ人全部です。そして、神の招きは楽しい、しかもやり直しのきかない婚宴の招きですから、これを拒むユダヤ人の罪は、前よりはるかに重く悪質になります。この譬えで、この招きを拒否した者どもの一つは、婚宴の招待を受けていながら、知らぬ顔をする者です。具体的には自分の畑に行かねばならないから、或いは自分の商売に出て行くので参りません、と言った態度です。つまり、王のことより自分の事を優先して考え、目出度い大切な婚宴を無視する態度です。もう一つは悪い農夫と同じく僕たちを侮辱し殺してしまう、という敵対的態度です。この両方の態度は同じで、どちらも王子の婚宴に来ないという点で王と王子への反逆を露骨に示す極悪人です。ですから、王は立腹し、軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。そうして王は更に僕たちに言った。「婚宴の用意は来ているが招かれていたのは相応しくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って出会った人は誰でも婚宴に連れてきなさい」と命じました。そこで僕たちは道に出て行って出会う人は悪人でも善人でも、皆集めて来たので婚宴の席はいっぱいになった。これがこの譬えの第二幕です。言い換えますと神が用意した御国をユダヤ人が見向きもしないで、み心に応じなかった。それなら、異邦人に神の恵みを提供してやろうとされた。それは神ご自身の体面、神ご自身の栄光のためでありました。このように王の方針は大きく変わったのです。神の救いはユダヤの民に限らず異邦人の全世界へと広まるのであります。次に、この招きは悪人でも善人でも、みんな誰もが招かれているのです。イエス様は既に21章31節で「徴税人や遊女はあなた方より先に神の国に入る」と言われました。こうした悪人と言われる人たちさえ決して招きから除外されてはいない。どれほど罪と悪に沈んでいた人も、王の婚宴に来て王の喜びに加わる事によって、あの無礼な客たちよりも王を喜ばせ、王の誉れを上げる事が出来るのです。神様の招きはどんな民族であっても、或いはどんな肌の色の人種の区別なく、又、文化や習慣の区別なく、招かれている恵みの世界です。この招きと約束は誠実です。神の聖なる世界ですから。人生の旅路において通り過ぎないで、足をとめ、方向転換し、神の悦ばしい招きに応えて行く人生へと変えられるのです。
さて、11節~13節を見ますと、婚宴の席はいっぱいになり、そこへ客として迎えた人々を見て、そこに礼服をつけていない一人の人を見て言った。「友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで此処へ入って来たのか」しかし彼は黙っていた。そこで王は、そばの者たちに言った。「この者の手足を縛って外の闇に放り出せ、そこで泣き叫んだり、歯噛みをしたりするであろう」。これが第三幕です。
13節で言われている「外の闇に放り出させ」とありますが、普通なら宴会場の外の闇と理解するでしょう。でもユダヤの宴会は必ずしも夜だけ開かれたわけではありません。平民でも婚宴は一週間ぶっ通しで行われましたから、まして王子の婚宴ならもっと長い間、昼も夜も徹して催されたでしょう。ですから「外の暗闇」というのが宴会場の外の庭や道を指すとは考えられない。むしろ、これは地獄の暗闇に落とされる、という怒りと審きの姿を表すところの慣用句でありました。この譬えの結果が教える厳粛な事実は審き日に列席者の中からはみ出される者がある、という事実です。確かに神はすべての人を招き、しかも誠実に熱心に招いておられる。しかし、では招かれればみな宴会の席に着けるか、というとそうではない、ということです。イエス様が特に選んだ使徒の中からさえ裏切り者のユダが出たではありませんか。この譬えで言われた「礼服」とは何を指すのでしょう。
7章21節には「主よ、主よ、と言う者がみな天国へ入るのではない、ただ、天にいます我が父のみ旨を行う者だけが入るのである」と言われました。18章3節には「心を入れ替えて幼子のようにならなければ天国に入る事は出来ないであろう」とあります。つまり「礼服」とは幼子のようにへりくだる謙遜さ、キリストを人前で言い表す信仰、律法学者やパリサイ人以上の義なる生活の全体ということです。言い換えると「礼服」とはガラテヤ書で言われている「キリストに合うバプテスマを受けたあなた方は皆キリストを着たのでる」そのキリストであります。又、エペソ書4章22節以下に「滅び行く古き人を脱ぎ捨てて心の深みまで新たにされ神にかたどって造られた新しい人を着るべきです。」この新しき人に変えられる事こそ王の前に礼服を着ることであります。婚宴の招きに応える人は王の客に相応しい「礼服」をつけ、新しき人を着ることであります。では「礼服」は何処で手に入れる事が出来るでしょうか。譬えの中ではその必要性が強調されるだけで、触れられてはいません。何故か当時の人々には分かりきっているからです。まず、この招きは婚宴が開かれる直前に僕たちが通行人を一刻の猶予もなく王宮へ直行させたと思われます。誰もが礼服など持っていません。礼服は王宮で王からちゃんと支給されたのです。この習慣は広く行われていました。ところが1人だけ礼服をつけていなかった。この人だけ王から与えられる「礼服」を拒否したのです。彼は招きに応えて神の家に来た、しかし神の威光の前に出るのに必要な与えられる恵みの賜物を拒んだのです。ともかく神の子の婚宴に出る必要な礼服をないがしろにしたのです。神の栄光を表すに要する賜物を無視する人は永遠の地獄の暗闇に放り出されるのであります。神は私たちに溢れるばかりの恵みの賜物を与えて下さっているのであります。その神の賜物と、この神の招きを受けるに相応しい人生を送ってこそ、神の喜び、祝福に預かる事が出来るのであります。
アーメン・ハレルヤ
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