お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
説教をYouTubeで見る。
聖書日課 ルカによる福音書1章26〜38節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の福音書の箇所は、私たちの救いが、人から出たものでは決してなく、どこまでも神が遥か昔から計画をたて約束をしたことを、神ご自身が実現されるという、神のみ言葉と約束の真実さと完全さ、そしてイエス・キリストの恵みと救いの完全さを教えてくれています。その「遥か昔の約束」というのは御使いがマリヤに語ったように、サムエルの時代、先ほど読んでいただいた主が預言者ナタンを通してダビデに語られた約束の成就でももちろんあります。しかし神はそれよりも遥か前、それは創世記3章、人類が堕落したまさにその時に神が語られた「女の子孫が悪魔の頭を砕く」という約束の成就でもあります。そのように私たちが罪に堕落したその時から神様は私たちを罪と悪魔の支配から救われるという約束こそを、旧約聖書は伝えてきたのでした。アブラハムへの彼の子孫を大いなる国民とし祝福するという約束や、そのための子イサクの誕生の約束、等々、旧約聖書の約束全てが、神様は堕落した人類を決して見捨てるのではなく、その罪からの救いと祝福を決して忘れず、むしろアブラハムやダビデなど信仰者にその約束を繰り返し語り、思い出させ、民に伝えさせ、そして、その通りに約束を果たして下さった事実こそ、このイエス・キリストの誕生に他なりません。しかし、その世界を罪から救う約束の成就と真実さは、どこにどのように実現するでしょう?救い主は、ローマの皇帝やユダヤの王や優れた貴族の家に生まれ他のでしょうか?そうではなく、天地創造の神は、その約束の救い主を、そのような皇帝や王や貴族の家にではなく、このイスラエルの田舎町ナザレのごく普通の女性であり罪人であるマリヤへと実現されるのです。しかしその神のなさったわざと事実に、私たちへの救いの恵み、福音のメッセージがあるというのが今日のところです。
2、「天使はいいなずけであるおとめのところへ遣わされた」
神はその実現を伝えるため、御使いガブリエルをマリヤのところへ遣わしました。26節からこう始まっています。
「26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。」
A, 「すべては初めから詳しく調べた事実:処女懐胎の事実」
まず、このナザレのマリヤについてルカは「乙女」とあります。これは新改訳聖書ですと「一人の処女のところへ」と書いています。この福音書を記録した医者であるルカは、この福音書の書き出し1章の始めに、「全てのことを初めから詳しく調べた」(1章3節)と言っています。ですから当然今日のこの箇所も、彼が「詳しく綿密に調べた確信として
(1章1節)記しているものです。そこでですがこの時代も今の時代も当然そうですが、乙女、処女がみごもるなどあり得ない事です。ですからまず人はここで躓くのです。科学、常識ではあり得ないことだからです。創世記18章にもありますが、信仰の父と言われるアブラハムとその妻のサラでさえも、常識ではあり得ないことを疑いました。神ははっきりと彼らに「来年の今頃、男の子が生まれる」と約束しました。しかし、100歳にも近い年老いた自分たちにはそんなことはあり得ない。起こりえない。人間の理屈、常識にあわないことだ。だからと二人は笑って信じませんでした。多くの人もいつの時代でも同じです。聖書の奇跡は「科学的にも常識的にもあり得ない」と。神学者や牧師でさえも、人間理性中心で聖書を判断するような人々は、それは理性や常識に反するから、だから「マリヤは処女ではななかったのだ。それは作り話なんだ。それはマリヤは誰かヨセフ以外の人と関係を持っていたのだ。それを隠すための口実として弟子たちが記したんだ」と教会で当たり前のように説教をします。そのようにこのマリヤに起こった奇跡を否定する教えは教会の外だけではない教会の中でさえも沢山言われてきたのでした。けれども、医者であったルカは始めに「詳しく調べて」「綿密に調べて」「乙女、一人の処女のところへ」と宣言しています。つまり、これは、初代教会が、そして使徒達が初めから紛れもない神の事実であると確信して、そしてルカ自身もはじめから綿密に調べた事実として、この「天使ガブリエルは確かに「乙女」「処女
マリヤのところに来た」のだと記しているということなのです。そして27節でも、この処女はヨセフのいいなずけであったとはっきり記します。まだ婚礼の前の女性であるマリヤであったのでした。
B,「人の側には驚きと恐れしかなかった」
さらに29節ではその御使いの言葉を聞いたマリヤの様子が詳しく書かれています。マリヤ自身は天の御使いに対して驚きと恐れを抱いているでしょう。「考え込んだ」とありますが、新改訳聖書では「とまどい」とあり、御使いガブリエルも彼女に「こわがることはない」とも言っているのです。つまり、マリヤには「恐れ」があるのです。そしてその「恐れ」を抱いて、34節で、彼女は「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」とも言っているのです。皆さん、恐れと驚きで、見たこともない神の御使いの前、つまり全てを見通し偽ることも嘘をつくこともできないそんな神の使いの前に立っていながら、嘘をついたり、秘密を隠し通すことができるでしょうか。誰もできないのです。あのアブラハムの妻サラは、神に心まで見通されていることも知らず「自分は笑っていない」と偽りましたが、偽り通せなかったでしょう。マリヤもこの状況で、神の遣わした恐ろしい御使いの前に、決して、偽れなかったことでしょう。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」はマリヤの偽りのない言葉なのです。何よりルカは、事実を詳しく調べた上で真実を記しています。御使いは事実一人の乙女、処女のところにこられた。そしてその「乙女マリヤが」御使いの言う通り、「みごもって男の子を産む」のです。この救い主がそのように真の人ととしてお生まれになるということも大事な真理あります、信ずべき教えですが、それはルカの2章で詳しく書かれています。
3、「そのおとめは一人の罪人、はしためー聖人ではない」
さてこのマリヤへの言葉と出来事からさらに教えられることは、このマリヤは決して、聖女でも聖母でもありません。彼女は、私たちと変わらない、罪人の一人にすぎません。彼女自身が自分は「はしため」と言っているように自分の卑しさ罪深さを感じていた女性であり、事実、紛れもない罪人であったのでした。しかしこの事実にも素晴らしい恵みが見えて来ると言うことです。この出来事と重なるので繰り返し引用し照らし合わせますが、まさにあのアブラハムの妻サラが、神の前にあってさえ「自分は笑っていない」と嘘を言ってしまう罪深さがあっても、神はあなたは「笑った、疑ったから、祝福しない」とは決して言わずに、それでも神の「祝福の子」「男の子を与える」と言うその約束が変わらなかったように、このところでも、神は、マリヤが何か素晴らしい女性で、完全で清く汚れのない生活を送り、立派で高貴な女性だからという理由では決してない、むしろ、事実、マリヤの告白の通り「はしため」であり卑しいそのマリヤの事実、その罪深さも全て知った上で、そして、そのマリヤにある何かに関係なく、主は「主の方から」一方的な恵みとして、このマリヤを選び、御使いを遣わしているのです。事実、御使いは「恵まれた方」と言います。そしてその神の方からの一方的な恵みによって、35節、その子は聖霊によってみごもると伝えています。いやそれだけでない、まさにサムエルの時代に主がナタンを通してダビデに約束されたことが、この聖霊によって人として生まれる子によって、サムエル記下7章の「その王国を揺るぎないものとする。 13この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」とか、「16あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と言うことがその通りに実現すると御使いは宣言しているのです。
4、「約束された救いは人のわざでは決してない。神の方から」
みなさん、このマリヤに起こった出来事、そこで語られた主のみ言葉は何を伝えているでしょう。それは、創世記3章の最初の福音、そしてアブラハムの時からも、ダビデへの約束からも全く変わらず、私たちにはっきりと伝えているのです。それは、救い主、キリストの誕生、そしてその約束も、全く人の側の何か、人の業、思い、情熱や熱心、計画に一切よらない。人間の側の何らかの功績や正しさがあったからでもない。いやむしろ神の前にあっては、私たちはどこまでも神に背いた最初の男と女の子孫であり、神の前にはそのままでは義と認められることのないどこまでも罪深い民であり、救いのない滅びゆく民でした。しかし、だからこそ、その罪深い人類のためにこそ、そう、堕落の時の最初の福音がそうであったように、全て救いの計画も約束もその実現も、「天から地へ」、「神から私達へ」の全く恵みであるということがこの今日の出来事からもわかるのです。旧約聖書の最初の福音だけでなく、アブラハムの召しも、彼に現れた3人の人と子供が与えられる約束も「主の方から」でした。あの自分は相応しくないと嫌がるモーセを召したのも、そしてイスラエルの救いの計画も、十戒も、すべて「主の方から」であることが書かれています。むしろ旧約聖書ではその揺るがない真理である「主の方から」の神の恵みを忘れ「自分が自分が」と罪人にすぎない自分が神のように行動する行為こそ、大きな裁きを受けています。旧約聖書もそれは神の恵みによる救いの福音が溢れているのです。そしてその通りに、今日のマリヤの場面でも、主の方からです。マタイの福音書にあるマリヤの後に起こる父「ヨセフ」の場面でもそれは「主の方から」でした。むしろ、父ヨセフは御使いの「聖霊による」と言う言葉があるまでは、結婚前に妊ったと思ったマリヤを「何か不道徳を行なったのだ」と決めつけて密かに去らせようとしていたでしょう。そのように人間の側では、マリヤも喜びの知らせを受けても、先ほど言いました。ただ恐れ、戸惑うだけの状況です。ヨセフは理性的に去らせようとしました。しかし御使いははっきりとこの約束の成就の出来事を非常に分かりやすく言っています。「恵まれた方
と。つまり、これは神から人類への恵みなんだと。30節「あなたは神から恵みをいただいた」ともあります。さらには35節「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」とも。そう、これは人の思いや願い、情熱でも優れた行いでもありませんでした。救い主の約束もその通りに実現する救い主の誕生もどこまでも「人から神のために」ではなく「天から、神から、私たちのため」のどこまでも「恵みのみ」なのです。
5、「神にできないことは何一つない」
そして、御使いガブリエルは、そんな戸惑い信じられないマリヤに、「信じられないなんて、あなたはダメだ、失格だ」と裁いて断罪するのでも、約束を取り消したりもされないでしょう。まさにあの信じないで笑った、アブラハムとサラにも語られたのと変わらない言葉を語って、約束は真実なんだ、そして神が行うのだと、励ましている、変わらない主の恵みを教えているのが分かりますね。37節で御使いは言います。
「37神にできないことは何一つない。」 新改訳聖書では「神にとって不可能なことは一つもありません。」とあります。
みなさん、何という力強い真実な励ましのことばでしょう。御使いは曖昧さなどなく断言しているでしょう。「不可能なことは一つもない」と。「理性や常識や科学に反することだからマリヤの処女懐胎は作り話で事実ではない」と言う牧師や教師たちは何を信じているのでしょうか?聖書が、神が、神の御使いが、「神にとって不可能なことは一つもない」と断言しているのです。それは御使いも人間の理性や常識に縛られ「50%は可能性がある」とか、「80%かもしれない」などとそんな言い方は微塵もないのです。みなさん、私たちに与えられている、みことば、約束とは何ですか?仮に「人間の理性や常識に従えば奇跡の全ては作り話だ」と言うような言葉が含まれている聖書であるなら、その聖書の言葉に真実さと救いの力、神の力があると思いますか?ないでしょう。しかし、そうしてしまっているのは、そのように人間中心に人間の理性に聖書を従わせ聖書を力のない言葉にしてしまっている人間の側であり偽りの教師たちです。みなさん、私たちに与えられている聖書、神の言葉は、そんな一部だけ真理があると言うような曖昧な言葉では決してありません。「神にとって不可能なことは一つもない」と確信を与える、どこまでも真実な言葉なのです。できないことは「一つもない」という断言がそこにはあります。神様は何でもおできになる。全知全能である。不可能と言うことばは神にはないという宣言なのです。これは旧約聖書でも変わりません。アブラハムにイサクの誕生の事を伝えたときも、信じないサラに御使いは同じように言うでしょう。「主にとってできないことがあろうか」と。同じ御使いが、それから数千年後のこのマリヤにも、その神の約束を示して「できないことはない」「不可能なことは一つもない」と変わることなく断言し続けているのです。そしてこれは「今も」、これからも永久に変わることのない私たちへの神の言葉、なのであり、アブラハムの時代も、マリヤの時も、今も、神のみことば、約束は真実であり、その通りになるのであり、不可能なことは一つもないと、主は私たちを励ましてくださっているのです。そして、マリヤは、その御使いのことばを受けて、つまり、彼女の力でも努力でも性質でもない、その神の真実なみ言葉によって信仰が強められたからこそ、38節にあるように
「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
と、主と主のことばに信頼した信仰の告白があったのでした。ですから、このマリヤの応答の言葉も信仰も何か彼女の性質から出た敬虔な言葉であるかのように捉えられ、こうでなければならないと信仰が律法化されやすいですが、そうではない。この告白も信仰も、私たちにとっては、決して律法ではない、このマリヤの言葉は、どこまでも主の御言葉、福音によって励まされ強められ信仰によって与えられた平安と喜びの応答なのです。
6、「十字架の神学:続く苦難の現実に神はいないのではない、そこにこそ神はいる」
終わりに一つだけ触れて終わります。そのように恵みと祝福に溢れてマリヤは遣わされますが、しかしこのマリヤはその後も尚も試練、困難が続きます。男を知らないのに身ごもったという事実は、ユダヤ社会では大問題でマリヤは様々な困難の中に置かれます。だからヨセフは婚約を解消して去らせようとまでしました。そのように、この約束の後も苦難が続くこと、は神は矛盾していると思うでしょうか?しかしこれが神の恵みによって始まる信仰の歩みの現実です。マリヤにとってもヨセフにとっても壮絶な試練の現実の始まりでした。御使いのことばは恵みであっても、しかし人間の側からみれば「人の前」では困難と言う状況のままなのです。ここで人々は、何か目に見えて何も困難のない何でも上手くいくご利益信仰ような神を期待するなら「神はなおも困難に合わせるなんて」と躓くかもしれません。しかしそんな困難が続いてもそれでも、二人は、そのような揺るがない主と主のことばの真実さにあってこそ、つまり「神の前」にあって確かな言葉に導かれ支えられているからこそ、その信仰によって、神は真実であり恵みであり祝福であるという揺るがない平安があるです。このように、聖書の神は、どんな困難な現実があっても揺るがない希望と平安と喜びを与える神なのです。ですから38節のマリヤの信頼のことばは、「苦難の中」でも平安であることができると教えている言葉に他なりません。そしてそれが私達にも与えられている信仰でもあるのです。
私たちの罪の性質は、「神の前」よりも「人の前」を気にしたり、基準や土台は神の言葉ではなく、私達の主観や自分中心にたって、目に見える業や成功や繁栄だけで神や祝福を評価判断したり、人の側の思い描いた願いや期待の通りになったところにこそ、あるいいはそこだけに、神がいる、神様の働きや祝福があると判断してしまう傾向があります。ですから、そのように期待通りになったところ、問題がないところに、うまく言っているところに、神がいるとか、神が働いたのだとか、祝福されているのだとか、正しい悪いと決めつけてしまうし、逆に自分の思い通りにならなかったところには神はいない、祝福はないとしてしまいます。けれども、自分が中心になって求める先に神がいるのではありません。聖書が伝える、神の業、神の御心、神の祝福というのは、むしろその逆でしょう。神の前の私たちの圧倒的な現実は、私たちはどこまでも罪人であるという現実です。だからこそこの罪の世にあっては苦しみや、人の目にあっては「なぜ?」「どうして?」と思うような事は絶えることがありません。しかし、皆さん、クリスマスの飼い葉桶のイエスも、この十字架のイエスも、まさに罪深い世に一方的に恵みとして世に来れられたイエス様ではありませんか。そしてそれは私たちを裁くのでも重い重荷を負わせるためでもなく、私たちの間に来られ、罪人である私たちの友となり、神の真理を教え、そして遂にはその私たちの罪と私たちが負うべき裁きである十字架の死も全て身代わりとして背負って死なれた方でしょう?そのように十字架で救い主イエス様が罪に定められる代わりに、私たちは、神様から、このイエス様の十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と罪の赦しと平安と新しいいのちを与えられるのが、この福音書、聖書が私たちに何よりも伝える中心であり揺るがない約束、福音「良い知らせ」ではありませんか。マリヤに宿り生まれるイエス様は十字架と復活のイエス様であると聖書ははっきりと伝えています。その十字架は人の目にとっては、成功でも繁栄でもない、人々が思い描いた期待したような救い主はそこにありません。しかしその救い主は、罪人である私たちのところに来られ、私たちと同じ人間となられ、罪のない方が、私たちの罪とその罪による困難と苦難の重荷を全て負ってくださる救い主なのです。その救い主が罪人マリヤ、飼い葉桶の上、そこしてこの十字架の上に来られ神の御心のままに実現された。だからこそ、今も救い主は、同じように罪の世にあって困難の絶えることのない私たち一人一人の信仰の歩みにこそ伴われ、頼り求めるもののその重荷を絶えず背負ってくださる、そして、罪に苦しみ悔い改める私たちに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるのです。だからこそ困難にあっても、マリヤのように、イエス様のこの約束を信じ頼り求める信仰には、平安と希望は絶えることがないのです。それが46節以下のマリヤの讃歌にも証しされていることなのです。
今日も十字架のイエス様は、悔い改めイエス様に「憐れみ」を求める私たち一人一人に言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ今日も平安のうちにここから世へ隣人を愛するために遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン