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使徒パウロは、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きるキ リスト信仰者のことをあたかもイエス・キリストを衣のように「着る」とか「身にまとう」という言い方をします(ローマ13章14節、ガラテア3章27節)。 それは一体どんなことか、以下のルターの教えをみるとよくわかると思います。(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」(1878年初版)1月5日の個所、雅歌2章16節「愛するあの方は私のもの、私はあの方のもの」の説き明かし)
『花婿が花嫁を愛するようにキリストは我々信仰者を愛する。我々も彼を救い主と信じているのであれば彼を愛しているのである。それで我々はキリストの花嫁なのである(注 黙示録19章でキリストが花婿に、キリスト信仰者の集合体が花嫁に例えられている)。
それで、我々は彼のものであり、彼は我々のものなのである。それで我々は、永遠の命と義という彼が持っているものを全て持っているのである。つまり、我々は義なる者であり至福に与る者なのだ。それで、罪と死と地獄と悪魔は我々に危害を加えることが出来なくなっているのだ。
花嫁として我々が「あなたのものです」と言えば、彼も花婿として我々の内にある悪いもの弱さを全て引き受けて負わなければならない。そのようにして我々の罪は永遠の義に、我々の死は永遠の命に、我々の地獄は天の御国の中に滅んでいくのだ。罪と義は両立しない。天の御国と地獄も同様だ。もし二つが並ぼうとしたら最後、一方は他方に呑み込まれて消滅してしまうのだ。なぜなら、キリストの義は我々の罪より果てしなく大きく、彼の命は我々の死よりも言葉にならない位に強力だからだ。彼自身、全ての命の源がある命そのものなのだから。我々の死は彼の命に、我々の罪は彼の義に、我々の滅びは彼の至福に消え去るのだ。
それゆえ、我々の罪の汚れが取り除かれた時、彼は我々をとことん素晴らしくするため永遠の義と全ての恵みで着飾って下さる。なぜなら、我々は彼の花嫁なのだから。』