お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
聖書日課 ヨナ3章1‐5、10節、第一コリント7章29-31節、マルコ福音書1章14-20節
説教をYouTubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお話しします。
ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は新約聖書の原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。それでは、「福音」とはどんな良い知らせなのでしょうか?
それは次のような内容です。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事がもたらしたことについての知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。この良い知らせ、福音を聞いて、イエス様を救い主と信じることと洗礼を受けることによって神から罪の赦しを頂くこと、これがキリスト信仰の奥義です。こうして、イエス様のおかげで罪を赦された者として永遠の命に至る道を神の助けと導きを得ながら歩むこと、これがキリスト信仰者の人生です。
ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオン「福音」と言うのは少し気が早いのではないか?そこで、他の国の言葉ではどういう言い方をしているか見てみました。英語訳の聖書NIVはエヴァンゲリオンを「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は一方では「神の福音」(evankeliumi)と言い、他方で「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。
十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと思われるかもしれません。そうすると今度は、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのか、さっき言ったキリスト教の「福音」とどう違うのかという疑問が起きます。(※)それについて見ていきましょう。
イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」
伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。そこで、イザヤ書の続きを見ていくと、この「平和」と「救い」の意味がわかってきます。それがわかると「神を王に戴く国」もわかります。
イザヤ書の続き52章8ー12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、周辺諸国民に自分の力を示します。それで、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力で祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するというふうに理解できます。
ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは人間の痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるようになり、まさに彼が罰を受けた傷によって人間は癒しを受けるのであると。53章11節で神は次のように言われます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神聖な神の前に立たされても大丈夫でいられる者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら引き受けることで、人間は神の目に相応しい者になれて神との平和な関係を築けるようになるというのです。そうすると、「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が実現するという意味ではなくなります。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神との平和な関係を築けて神罰が免れるということが「救い」の内容になります。神の国もそういう罪の赦しが打ち立てられたところになります。
しかしながら、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の人々からすれば、イザヤ書の箇所で言われる「救い」とは、捕囚からの解放と祖国帰還を意味しました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。
ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。確かに歴史的にはエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は、諸国民がひれ伏すような神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56ー65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今ある天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。
そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつ預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた時でした。まさにその時、イエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。このように、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とは、神の約束が今実現することになるという知らせだったのです。その「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。
イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味します。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのです。
「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。それで、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られました。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大のものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を通して人間の救いを実現したことでしょう。
イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を再創造する、そしてそこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになります。そうすると、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行くんじゃなかったの?と言う人も出てくると思います。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。
そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人なら出てくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。
それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わるという、この世の終わりを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったのでしょうか?ところがそうではないのです。
どうしてかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満たしてあげたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っている人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まってもっと多くの困っている人たちを助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。
実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味わせてあげたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、不正に手を染めることなく、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえ期待通りにならなかったとしても無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。
このように神の国は、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもない、永遠の平和と安心があるところです。イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然の法則や社会の法則をはるかに超えた力が働く神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできないのです。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自分の力で神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。
この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架と復活の業でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して「福音」に結晶した出来事でした。私たち人間はイエス様の十字架と復活の業が自分のためになされたのだとわかって、それで洗礼と一緒にイエス様を自分の救い主と信じれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものになります。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあるので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。これらのこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さったがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。
イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。なので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっている根暗なことではなく、実は神に向き合うという勇気ある振る舞いです。
「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。
「イエス様は彼を信じる者全てに、方向転換の悔い改めをしなさいと言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊も罪に対して反撃する。イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めと密接に結びつく。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。
方向転換の悔い改めが休止することはありえない。なぜなら、律法がこれは罪だと示すものを我々は絶えず遠ざけなければならないからだ。もちろん、罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されているので、我々を永遠の死に追いやる力を失っている。
かつてイスラエルの民はカナンの地に入った後もその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。それと同じように、キリスト信仰者になって罪に対して宣戦布告することよりも、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を追い払うことの方が難しいのである。それは、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだことからもわかる。神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。
兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しのお恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、不安になった良心はゴルゴタの十字架を覚えるたびに落ち着きを取り戻して平安に満たされます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。この繰り返しを通して私たちの神への信頼が一層強いものになっていきます。神への強い信頼があることは、私たちがこの世から別れる時、自分の全てを神の御手に委ねることができるために必要です。神への信頼が築けている人は、復活の日に目覚めさせてくれる方を知っているので自分の全てを神の御手に委ねられます。信頼が築けていない人は何に委ねていいのかわかりません。そういうわけでキリスト信仰者の人生とは、その日に備えて神への信頼を日々育て強めていく人生と言ってもよいでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。