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マルコによる福音書9章2−9節
「変容の栄光のうちに指し示されるのは何か?」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今朝与えられている聖書の御言葉は、イエス様の姿が白く光り輝く姿に変わられた「主の変容」と呼ばれる出来事です。この出来事は並行箇所であるルカの福音書9章では「栄光に包まれ」とか「栄光に輝く」とか書かれている通りに、イエス様がその姿をモーセとエリヤと共にその「神の栄光の内」に、3人の弟子へ、そしてその3人を通して私たちへと表されている出来事でもあります。そしてこの出来事はこの前の箇所と深く関係しております。この前の8章の後半部分では何が書かれているかと言いますと、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねています。イエスからの大事な質問でした。そこでペテロは「あなたはメシアです」と答えました。マタイの福音書の方では「あなたはメシア、生ける神の子です」とペテロは答えており、イエス様はその「信仰の告白」を明らかにしたのは人ではなく天の父なる神ご自身であるといい、さらにはその神の与えた岩の如き信仰告白の上にイエス様はご自身の教会を建てるという約束と、その教会に地上で繋ぐことも解くこともできる鍵を与えるという約束を与えています。その直後に、マタイもマルコも共通していますが、イエス様はご自身が苦しみを受け、殺されることと三日目に復活することを伝え始めるのです。「救い主が苦しんで死ぬ」なんて理解できないペテロはイエスを諌めますが、イエス様はペテロを「下がれサタン」と厳しい言葉で叱責し、そして、自分に従う者は自分を捨て自分の十字架を背負って従いなさいと伝えているのです。その後の出来事が今日の箇所になり、今日のこの「変容」の出来事はそれまでの一連の出来事から続いているのです。いわば、イエスの「あなた方はわたしを何というか」「わたしは誰であるのか」という問いの、弟子たち、そして私たちへの、天の父なる神からのさらなる確証とも言える回答が、この「変容」に表されているとも思われるのです。2節から見ていきますが、その日から六日目、こう始まっています。
2、「姿が彼らの目の前で変わる」
「2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れていくと言う場面は福音書にはいくつか記録されていますが、それはイエス様にとっては「ゲッセマネの祈り」の場面など鍵となる場面が多いです。今日のところもそうでした。そこでは2節の終わりからこう続いています。
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
マタイの福音書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17章2節)とあります。 そのような、イエスの姿が変わる、しかも顔が太陽のように輝き、衣も白く光った、というのはこれまで見たことのない光景であったのでした。
4つの福音書全てが証しし、そしてフィリピ書のパウロの言葉からも分かるように、イエス様は「神の身分でありながら〜自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ〜人間の姿で現れ」た、私たちと同じ肉体、同じ姿となられ共に生きられた「真の人」でした。ですから、真の人となられ生活しているイエス様がそのようなあり得ない姿に変わるなどなかったことであり、弟子たちも当然、見たことがなかったのです。しかもそこには、
3、「エリヤがモーセともに栄光に包まれ」
A,「栄光の中で」
「4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
4節
とあるのです。エリアもモーセも、ペテロ、ヤコブ、ヨハネにとっては偉大な預言者ですが、過去に存在していたけれども今や地上には生きていない偉大な預言者でした。ですから、そのイエス様の光輝く光景のみならず、天に登った偉大な預言者が現れイエスと話しているという、3人にとっては普通ではない、信じがたい出来事が目の前に広がっていたのでした。ペテロの目には、5節以下の言葉に分かる通り、これは「素晴らしい」出来事でしたが、6節、どう言えば良いか分からなかったとある通りに、彼には何のことか理解できない素晴らしい出来事でありながらも同時に、「非常に恐れていた」とある通りに「恐ろしい光景」でもあったのでした。そのように人間には計り知れず理解できない光景ではあったのですが、神の前にはこの出来事には意味がありました。ルカ9章では、先ほども引用したように、これは天からの「神の栄光の中で」現され証しされた一つの出来事でした。しかし注目したいのは、ルカ9章31節の言葉です。
B,「イエスがエルサレムで遂げる最期について」
「31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
天の神からの栄光の現れ、しかしそこで3人が会って話していたのは、
「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」
であったのです。つまり十字架の死でです。みなさん「神の栄光」と「十字架の死」。一体それはどう繋がるでしょう。人の目には一見、相容れない言葉のように見えます。もちろんイエス様にあっては一貫していました。先ほども見ました。イエス様は、この直前から、ご自分が受けられる苦しみと死、そして、復活のことをはっきりを伝え、自分が歩む道、目的を伝えていました。「十字架を負って」と十字架をも示してもいます。他方、弟子たちはその時は何のことかわからず、ペテロはイエスに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめ、それに対し、イエス様から「下がれサタン」と厳しく叱責されました。叱責されてもそれでもペテロは理解できなかったことでしょう。そして、この素晴らしい変容の光景も理解できませんでした。しかし目には輝かしい光景に「素晴らしい」と感動し、幕屋をそれぞれのために建てようと彼は言うのでした。彼はその目に見える神の栄光の現れを見たまま素晴らしいと「肯定的に理解」しているのです。
しかし、その「人の目」の前に広がる神の輝かしい光景、天からの栄光が現れる素晴らしい出来事ですが、しかし「人の目の栄光の素晴らしさ」とは裏腹に、その栄光の本質、核心、中心は、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後、捕えられ苦しみを受けられ死ぬと言うことでした。まさに十字架の出来事を、モーセとエリヤに話し、語っているのです。そしてこの後、事実、神がイエス・キリストにおいて実現する神の栄光、神の救いと勝利は、まさしく、イエス様が苦しみを受け死なれる十字架と復活にこそ現されていくでしょう。そのことこそ4つの福音書が共通して証し、パウロをはじめ使徒たちが聖書に書き記した証しに他なりません。
C,「人が素晴らしいと思い、見ようとする栄光」
世の中の、いや、クリスチャンでもそうかもしれませんが、「栄光」という言葉に錯覚させられるのです。「人の目」にあっては「栄光」というのは、何か、自分たちの目に見ることができ、人間の価値観や理想や願望に照らして、その通りになった華やかで輝かしい繁栄や成功に「栄光」があるように思い描いたり、予想したり期待するものです。そして、人間がその心に描き出す栄光に基づいて、その栄光がなることを待ち望んだり、期待したり、実現しようと頑張ったり、そして、その通りになったり自分の力で実現するところに、神の栄光があるとか、神がそこにいるのだとか、神の祝福があるのだと、勝手に決めつけてしまっていることは実は少なくありません。そのような人間中心の栄光のための教会運営や、宣教や伝道、そして教会成長などがむしろ賞賛され、緻密で合理的なハウツー理論まで備えて、当たり前のように、それが聖書的で敬虔であるかのように教会が立法的に導かれるのは、よく耳にすることです。しかし、それはヒューマニズムや理性や感情中心を超えることのない、人間の自己実現、律法主義に過ぎないものです。神が指し示した、福音に、つまり、イエス・キリストとその十字架と復活に根ざしていないのです。罪深い人間は残念ながらその性質ゆえに、目には見えない御言葉の真理や力よりも「しるしを求める」とあるその通りに、そのような目にみえる華やかさ、しかし的外れなところに栄光を見ようとするのです。
D,「神の栄光の中にある、イエスが遂げようとするものは何か?」
しかし、天の父なる神がイエスに、そして、イエス様のもとに遣わしたモーセとエリヤとの会見の場に現した栄光の真の意味、そしてその通りに実現した栄光はどこに実現し現わされるでしょうか?それは、このイエス様の苦難と死、十字架と、そして復活に現されたでしょう?今日の箇所も、その前の出来事も、そしてこの後に続いていく頂点も、四つの福音書が示し、使徒たちがその手紙で伝え指し示しているのは、まさにそのこと、栄光は、人間が誰も予想も期待もできなかった「十字架と復活においてであった」と言うことではありませんか。ここに聖書の伝える逆説があるのです。
4、「聖書が伝える逆説的な神の恵みのわざ」
実に、ここに登場するモーセとエリヤも偉大な預言者ではありますが、彼らを通して現された神の栄光もまた人の目には逆説的であり、それは「苦難のうちに、苦難を通して」現された神の栄光であり、神の臨在と神のわざであることに共通しているでしょう。イスラエルのエジプトにおける奴隷からの解放、その後の荒野の40年、そこでのモーセは神でもなければ、完全な超人でも聖人でもなく、弱気な自信のない一人の罪人でした。「他の人を遣わして欲しい」と彼は神の召しを何度も拒みました。苦難の人生であり、苦難のリーダーシップでした。しかし神はそんな彼の罪深さと苦難のうちにこそおられ、そんな彼を通して、彼を用いて、罪深い反抗する民を導かせました。苦難の荒野を進ませ、そのようにして神は、人の期待や予想や思いを遥かにこえて、苦難の中に栄光を現されました。そのモーセがまさにイスラエルの民に「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」申命記18章15節)と指し示したのが、まさにここで会見するイエス・キリストに他ならないでしょう。そして、エリヤもまた、神は彼にバアルの預言者に勝る真実をあらわしてくださったのにも関わらず、王アハブを恐れ荒野に逃げ叫びました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(列王記上19章4節)と。最後は天に上げられた彼ではありますが、彼も神でも聖人でもなく、彼も一人の人間、罪人であり、弱さを覚えていた苦難の人でした。しかし、神は、その苦難の中にあって、一人の罪人であっても、神ご自身が恵みによって選んだ、信仰者であり預言者であるエリヤを通して、そしてその苦難を通してこそ神の栄光を現してこられたのでした。さらに言えば、今日の箇所の出来事の後、イエス様が9節で言われた「人の子が死者の中から復活する」という救い主には起こり得ない死ということに戸惑った弟子たちは11節で「救い主の前にエリヤが来る」と約束されているのはどういう意味かとイエスに尋ねています。弟子たちはなおも「栄光の出来事」と「メシアの死」が繋がらないし理解できないのです。しかしイエス様は、その「来たるエリヤ」は、この変容の場面のエリヤではなく、バプテスマのヨハネのことを意味していることを教え「人々はそのエリヤであるヨハネを好きなようにあしらった」、つまり、殺したことに預言がすでに成就していることを教えています。まさにそのバプテスマのヨハネも「人の目」には見窄らしい荒野の預言者でその最後も悲惨で壮絶でしたが、そこに預言の約束の通り神の栄光は実現しているのです。そしてそこでは、12節にあるように、同じ聖書が「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」と伝えているのはなぜなのかと、聖書は、神はそのように救い主の苦難にこそ栄光を現されることを伝えているではないかと、人間の予想や思いとは逆の、やはり「神の逆説の真理と救い」を示していることがわかるのです。
5、「神の栄光、救い、勝利、真実さはどこへ現されるか?神はどこへにいるのか?」
皆さん。「神の栄光、神の救い、神の勝利と真実さ、そして神はどこにおられるのか?」聖書ははっきりと伝えているのです。人は目に見える人間の思いにある繁栄や栄光にそれらのことを探し求めようとします。しかし、神はそれらのことを、そこにではなく、まさに人間は誰も思いもしなかった、予想もしなかった、探さなかった、むしろ皆が目を閉ざし、見たくない、避けたい、私たちの罪のための、私たちの負うべきであった、その罪の報酬である、しかし私たちが決して負うことのできない、苦難と死である、この十字架と復活にこそ現されたのです。それが神の御心、計画であった、天からの福音、良い知らせではありませんか。そして、そのように「私たちが」ではなく「神が」、「私たちに」ではなく、その「御子に」私たちが負うべきものを負わせたからこそ、しかもそのことをただ信じ受け取るだけで、私たちは罪の赦しと新しいいのちがただ恵みのみによって与えられ、恵みだからこそ喜び安心することができるでしょう。イザヤ53章が私たちに示している通りです。
「1わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
(イザヤ書53章1節)で始まり、こう続きます彼には「見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。5彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。」(同2−5節)しかしこう続きます。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。〜8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」(同5−8節)しかし最後にこうあります。「10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」(同10節)
神が私たちに現された栄光、救い、勝利、真実さ、そして愛も憐れみも、みなここに、イエス様の十字架と復活にこそあります。そして私たちはどこに神を探し、求め、見出すでしょう。私たち人間が自分の力で頑張って成功し完全になった所に、あるいは、思い描いた理想や繁栄を実現した所にではありません。罪深い私たちのために、その間に来られ、その私たちの罪のための、この地上の苦難の十字架にこそキリストはおられ神の栄光を実現し愛と救いを現されたように、今も私たちの苦難の中にあって、罪深さの中にあって、日々悔い改めつつ、神にただ「憐れんでください」と十字架と復活の約束と事実を信じ、十字架と復活のイエス様を信じすがるその時に、イエス様はそんな私たちの間にこそ今もいてくださり、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださるのです。
6、「「これに聞け」:神は人に幕屋を建ててもらう必要がない。」
最後に短くもう一つの幸いのうちに遣わされていきましょう。ペテロは栄光の3人に口を挟んでいいます。5節
5「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
しかし神はそれをそのようにさせず言います。
「7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
皆さん。感謝ではありませんか。神であるイエス様は人によって仮小屋、つまり幕屋を備えられる必要はありません。人が備え建てる幕屋に住まわれるのでもありません。つまり神は人によって仕えられ、何かを準備されたり作り上げられなければ何もできない方ではありません。むしろ、イエス様は言っているでしょう。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10章45節)と。イエス様は私たちに仕えるために来ました。「私たちがまず」仕えるのではなく、「イエス様がまず」仕えてくださり、その究極が自分の命を捧げるため、十字架で死ぬためでした。イエス様がその十字架のゆえに、今日もここで最大限に私たちに仕えてくださっている、その恵みが先にあってこそ、私たちはここで礼拝しているでしょう。だからこそここでも天の神の声はペテロや弟子たちに「まずあなた方が語れ、礼拝しろ、仕えろ。何かしろ。何か条件をクリアしろ」とは決して言いません。神は言われます。それより何より
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
と。あのイエス様ご自身の洗礼の時の天からの言葉であり、そしてあのマルタとマリヤの姉妹の場面(ルカ10章38−42節)でも、マリヤはただ唯一の必要なことをしているとイエス様が言われたこと、それは「イエスの言葉に聞くこと」。それこそ神が何より私たちに求めており、それこそが必要な唯一のことなのです。それはまず神が、イエス様が御言葉を通して仕えてくださるからこそでしょう。それが礼拝の意味です。「私たちが」まず神に仕える、「私から神へ」のサービスが礼拝ではありません。「神が」まず私たちに仕えてくださる。「神から私たちへ」の御言葉によるサービス、それが礼拝なのです。そのようにイエス様が御言葉を語り仕え、私たちがその言葉を聞くからこそ、私たちは感謝を持って応答する、祈る、賛美する。遣わされていく、それも礼拝ですが、全てはイエス様がまず仕えてくださるからこそです。今日もイエス様は御言葉を持って私たちに仕えて下さり、宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひイエスに聞き、福音を受け取り、平安のうちにここから遣わされていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。