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主日礼拝説教 2024年3月3日 四旬節第四主日
聖書日課 出エジプト20章1-17節、第一コリント1章18-25節、ヨハネ2章13-21節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。十戒には、創造主の神の意思が明確に示されています。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた創造主の神の意思です。それなので十戒は神に造られた全ての人間に関わる掟です。神はそれをモーセを通してイスラエルの民に、あたかも全ての民族の代表者のようにして与えました。それでイスラエルの民は自分たちこそ全知全能の神に選ばれた、神に一番近い民という誇りを持ったことは当然のことでした。
十戒はキリスト信仰者の皆さんはよくご存じのものですが、信仰者でない方もこの説教を聴いたり読んだりするので、少し内容を見ておきます。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係についての掟です。第4から第10までの掟は、人間同士の関係についての掟です。神と人間の関係についての掟を見ると、第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名前を引き合いにして誤った誓いを立ててはいけない、また不正や偽り事に神の名前を引き合いにして唱えるのは神聖な名前を汚すことになるのでしてはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。
人間同士の関係についての掟を見ると、第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にしようとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。まさにSNS時代に相応しい掟です。第9と第10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。
私たちのルター派の教会では大人の方がキリスト信仰者になるべく洗礼を受けようとする時は、前もってルターの小教理問答書を学ばなければなりません。ルター派以外の教会から転入する人も同じです。小教理問答書の内容は、十戒の他に使徒信条、主の祈り、洗礼、聖餐式、罪の告白と赦しについての教えがあります。十戒の解説を見ると、一つ一つの掟の最初に次の言葉が来ます。「あなたは神をおそれ、愛さなければならない。」その後に掟の解説が続きます。神をおそれ、愛さなければならないというのは一体どういうことでしょうか?神をおそれるというのは、神を怖いと思う恐れの意味と、神を高く祀り上げて自分を低くする、畏れ多いという意味の二つが合わさっています。そんなおそれるべき神をどうして愛することができるでしょうか?十戒の一番最初の掟で、それはできる、だからそうしなければならないと言うのです。それを見てみましょう。
まず、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と神は言われます。「わたしを否む者」というのは、ヘブライ語のもともとの意味は「わたしを憎む者」です。天地創造の神以外の神を拝む者は天地創造の神を否む者です。それは神を愛していないことになり、それで憎む者と言われるのです。そのような者が犯した罪は三代目、四代目の子もその責任を負うことになると言うのです。まさに罪の呪いです。そういうことを言う神は真に恐ろしい方です。
ところが神はすかさず言われます。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」先ほどの、神を否み、神を憎む者の反対のことが言われます。神を愛する者とは、創造主の神のみを神として崇拝する者です。神の戒めを守ると言う時の「戒め」はヘブライ語は複数形なので十戒の全部の掟を指します。神を愛し崇拝し十戒の掟を守る者には幾千代にも慈しみが及ぶ。「慈しみ」はヘブライ語のヘセド、神の恵み、親切、見捨てないことという意味があります。それで、永久と言えるくらいに神から恵みと親切を受けられ、見捨てないでずっとついていてくれると言われたら、神は真に愛すべき方です。
神は神を愛さず罪を犯す者にとっては恐ろしい方であり、神を愛し十戒を守る者には愛すべき方です。そうなると、罪を犯す者にとっては愛すべき方ではなく、逆に、十戒を守る者には恐ろしい方ではありません。しかし、私たちは神を恐れると同時に愛さなければならないというのはどうしてでしょうか?罪を犯す者が神を愛するようになることは可能なのか?十戒を守る者が神を恐れることはあるのか?エゼキエル書33章を見ると、神は十戒に背く者が神に立ち返って守るようになることを強く望んでいることが言われます。33章16節では、背く者が掟を守るようになり不正をしなくなれば神はその者の過ちを思い起こさない、不問にするとまで言われます。なので父が罪を犯しても、このように生き方を変えれば罪は問われなくなる。もし三代目、四代目の子孫もこの方針を続けていれば、問われなくなった父の罪は何の影響もありません。なので、罪を犯す者にとっても神は愛すべき方なのです。エゼキエル書の同じ33章では逆のことを言っています。もし神の掟を守る正しい人が「自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ」(13節)。そうなれば、3代、4代先の子孫まで影響を及ぼす事態になります。なので、掟を守る者にとっても神は恐るべき方なのです。
そこで一つ問題が出てきます。十戒の掟を守ると神は恵みと親切を与え見捨てないでいて下さる、掟を守る者は神を愛しているから守る。そうすると、人間がまず神を愛して掟を守って、神から見返りに恩恵を受けるということになる。そうすると、第一ヨハネ4章10節で言われていることと相いれなくなります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神が先に私たちを愛したのであれば、私たちが掟を守ることは恩恵を受けるためではなくて、神から愛されたから守るということになります。ここにキリスト信仰の十戒の守り方の真髄があります。これからそれを見ていきましょう。
本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、イスラエルの民がモーセの指導の下、神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。その主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には生贄用の羊や牛が売買されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物の購入や神殿税の納入のために通貨を両替する必要がありました。
このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が本当に神の意思に沿っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。罪のゆえに壊れてしまった神と人間の関係を修復できる方、罪の赦しを与える方はまさに創造主の神です。しかし、形式的に儀式をこなせば神は修復して赦してくれて当然というような態度は傲慢です。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11-17節、エレミア書6章20節、7章21-23節、アモス書4章4節、5章21-27節など及びイザヤ29章13節も)。
イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。どうして彼はそこまで憤ったのか?それは、本当ならばユダヤ民族だけでなく全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけをする場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞エゲイローεγειρωが使われています。神殿というのは本当なら、人間が神から罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまっている。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?
復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、すなわち罪を持つようになってしまいました。そのために人間は、神聖な神の御許にいられなくなってしまい神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から死んでも復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげようと決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子のイエス様に受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になったのです(第一コリント5章7節、ヘブライ9-10章)。
イエス様の犠牲は、それまでの神殿の牛や羊などの動物の生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24~28節)、本当に完璧な生け贄だったのです。
イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄だけにとどまりませんでした。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪されました。その時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の支配下から脱して神との結びつきを持って生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代価が、神のひとり子イエス様が流した血でした。
そういうわけで、イエス様を救い主と信じ受け入れたキリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを洗礼を通して自分のものにした者ということになります。まさにエルサレムの神殿が果たそうとして出来なかったことをイエス様が果たして下さったのです。そういうわけで十字架の死を遂げて復活されたイエス様は真に、人間の罪の赦しを実現して神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。
ここで十戒に戻りましょう。イエス様は十戒について、とても本質的なことを教えました。有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21-22節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)とも。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。造り主の神は人間に心の中までも潔白性を要求しているのです。全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいません。ローマ3章10節で使徒パウロが、神に相応しい義を持つ者は誰一人としてもいないと断言したのはそのためでした。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。
神聖な神がこのような人間に不可能な完全さを要求するならば、人間はどうすればよいのでしょうか?掟をちゃんと守れないので神罰を恐れて神から逃げるか、または神は人間の本性を理解できない酷い方だと反発するかのどちらかでしょう。どっちをとっても神に背を向けて生きることになってしまいます。
ところが、イエス様という神殿を持ち、その中で生きるキリスト信仰者は神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。ただしそれは、信仰者が十戒を内面的にもしっかり100パーセント守り切る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、神の神聖なひとり子が自分を犠牲にしてまで私たちの罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金にして私たちを罪の支配下から買い戻して下さったこと、これらのことを洗礼を通して頭からすっぽり被せられているからです。だから十戒の鏡で罪を照らし出されても恐れや反感を抱かずに神に向き合うことができるのです。
イエス様が果たしてくれたことを自分のものにしていない人は、罪を照らし出された時、自分は罪があるから神に相応しくないとわかります。しかし、イエス様が果たしてくれたことを自分のものにした人は、彼のおかげで自分は神に相応しいものにかえてもらった、という喜びがある自覚になります。その時、十戒の掟を守ることは神に罰せられないために仕方なく守るという消極的な守り方でなくなります。神から恩恵を受けるために守るという報酬主義もなくなります。こちらが何もしないうちに恩恵を与えてもらったので、イエス様を贈って下さった父なる神に感謝し愛することの現れとして神の意思に沿うように生きよう、十戒を守ろうという積極的な守りになっていきます。
しかしながら、十戒の守り方が積極的になっても、再び罪を十戒の鏡に照らし出される時があります。その時は、罪の赦しの恵みの王座の前で罪を認めて告白し、ひとり子の犠牲に免じて罪が赦されるという神の恵みをまた受けます。そうしてまた恵みを受けた感謝と喜びがあって、神を愛する現れとして十戒を守るようになります。キリスト信仰者は人生の間、何度も何度も罪の赦しの恵みを受け、何度も何度も神を愛して十戒を守るようになることを続けていきます。この繰り返しは、復活の日に最終決着がつくのです。
イエス様は十戒について、心の中の潔白さも問うものであると教え、十戒を表面に留まらないとても深いものにしました。それで十戒は罪を照らし出す鏡のような働きがあるのです。イエス様はさらに、十戒の「してはいけない」ことは実は「しなければならない」ことも視野に入れていることを教えました。それで十戒はとても広いものになったのです。イエス様は人間同士の関係を律する7つの掟について、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することであると教えました。それで7つの掟をその趣旨に照らして見ると、小教理問答書の中でルターも教えるように、「殺すなかれ」はただ殺人を犯さなかったら十分というのではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入ると教えました。他の掟も同じように広くなりました。このようにイエス様は、十戒の掟を広く深くして完全なものにしたのです。それが神の意思だったのです。十戒を広く深いものにして私たちが受け入れて守れるようにする、しかも感謝と喜びをもって守れるようにする、そのためにイエス様は十字架と復活の業を遂げられたのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン