説教「受難週と主の再臨を待つ者の心構え」吉村博明 牧師 、マルコによる福音書15章1-47節

主日礼拝説教 2024年3月24日 枝の主日

聖書日課 イザヤ63章15節-64章7節、第一コリント1章3-9節、マルコ15章1-47節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

今日は教会のカレンダーでは「枝の主日」です。イエス様がろばに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城した出来事を覚える日です。群衆はイエス様が進む道の上に衣服や木の枝を敷き詰め、王様を迎えるように出迎えました。このエルサレム入城の後、イエス様は十字架の受難の道に進んで行かれます。しかし、群衆は今、王としてお迎えしている方にそんなことが起こるとは夢にも思っていません。彼らは、この方こそ、ユダヤ民族を占領しているローマ帝国とそれに取り入る民族の指導者たちを追い払って、民族に真の独立と解放をもたらして下さると期待したのでした。その期待は見事に外れましたが、その代わりに一民族の期待をはるかに超える全人類の運命に関わる大きなことが起こりました。

このように今日はイエス様のエルサレム入城を覚える「枝の主日」の日ですが、ルター派教会のカレンダーでは、受難週の最初の日という扱いにもなっています。今日から始まる週はイエス様が受難の道を進まれる週であり、その頂点としてイエス様が十字架にかけられたことを覚える聖金曜日があります。イエス様は死なれた後、墓に葬られて金曜日、土曜日そして日曜日の朝まで葬られた状態にいます。そして日曜日の早朝に神の力によって復活させられます。

今日の福音書の個所は、ルター派教会の聖書日課を見ると2つ選択肢があります。一つは「枝の主日」の日課で、イエス様のエルサレム入城の出来事を扱ったマルコ11章ないしヨハネ12章。もう一つは、受難週の最初の日の日課で、最後の晩餐から十字架にかけられるところまでを網羅したマルコ14章と15章が定められています。今回、どっちを選ぼうかと迷いました。以前は「枝の主日」を選んでいました。しかし、今年はやり方を変えようと思いました。というのも、スオミ教会は小さな教会なので平日に礼拝を行うと集まる人はとても少なくなります。それは聖金曜日も同じ。フィンランドだとイースター期間は金曜日から翌週の月曜日まで休みですが、日本はそうではありません。聖金曜日の礼拝に出席できないと一つまずいことが起きます。枝の主日でイエス様が歓呼の中で迎えられて、次の日曜日には復活してしまって、めでたしめでたしになってしまう。受難なんかどこにもありません。何だか全てが春のおめでたいカーニバルのようになってしまいます。

そこで、スオミ教会で受難週の平日の夕刻に礼拝をやってもある程度人数が集まる日が来るまでは「枝の主日」はお預けにして、受難週の最初の日でいこうと思います。そうすると、マルコ14章と15章の2つの章を見ることになりますが、これを全部読むと30分以上かかります。これと別に説教の時間も考えないといけません。二つ合わせたら、ちょっと長すぎかなと思いました。幸運なことに、ルター派の聖書日課では、マルコは15章だけでもよいという選択肢もありました。それで、今回はそれを選んだ次第です。ただ、それでもイエス様の受難の前半部分が抜け落ちてしまいます。そこで、本説教ではまず、イエス様がエルサレムに入城するマルコ11章から逮捕される14章の終わりまでを駆け足で振り返ってみて、その後で15章を少し詳しく見てみようと思います。受難週の時、聖書を繙きながらイエス様と一緒に歩むように一日一日を過ごしていくと、主の再臨の日を待つ心構えが出来てくると思います。

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イエス様がエルサレムに入城した後で何が起きたか?エルサレムの神殿で商売をしていた人たちを追い出した出来事が大きなものとしてあります。イエス様の行動は一見すると、神聖な神殿で金儲けなどけしからんと言っているように見えます。しかし、そうではありません。エルサレムの神殿は、人間が神との関係を正常にするために神の意思に反する罪を償わなければならない、それを動物の生贄を捧げて果たす場所でした。そのような儀式はそれはそれで人間に罪があることを自覚させ、罪はそのままにしてはいけないということを思い起こさせるものでした。しかし、規定通りに儀式を行ったら罪が消えて神のみ前に立たされても大丈夫でいられるかと言えば、そうではなかったのです。

そのような人間の手による罪の償いは不完全なものだからもう終わりにする、それに代えて神が完全な償いを人間に備えてあげよう、それでイエス様をこの世に贈ったのでした。神殿から商人を追い出したイエス様は当然のことながら宗教指導者たちから非難を受けます。商人と言っても、彼らはお土産屋さんを営んでいたのではなく、神殿で捧げる生贄用の動物を売っていた人たちです。その意味で彼らは神殿の宗教システムの一部だったのです。マルコ14章を見ると、イエス様が大祭司の前で取り調べを受けた時、彼が神殿を破壊して三日で新しいものを建てるなどと言ったという証言があります。ヨハネ福音書を見ると、宗教指導者たちに神殿を破壊してみろ、そうしたら私が三日で新しいものを建てると言っています。イエス様が破壊するのではありません。三日で新しい神殿を建てるというのは、まさに、人間が造った神殿では完全な罪の償いは不可能だったが、イエス様の十字架の死と三日後の復活によって可能になるという意味でした。

ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、イエス様の活動に心穏やかではありません。あの男は旧約聖書の教え方があまりにも凄すぎる。人々はみなその通りだと信じていく。しかも、奇跡の業も行う。人々はますます彼を信奉し、偉大な預言者とか、かつてのダビデ王の王国を復興してくれるユダヤ民族の王などと担ぎ上げている。このままでは我々の権威が揺らいでしまう。さらによくないことは、占領国のローマ帝国とはせっかく波風立てずにうまくやっているのに反乱の疑いを持たれたら軍事介入を招いてしまう、そうならないうちに早く始末しなければならないと考えるようになっていました。そこに、神殿からの商人追い出しの事件が起きました。これは現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦でした。指導者たちはイエス様を捕まえて死刑にすることに決めました。ユダヤ民族の解放と王国の復興を待ち望む人々の期待が高まっている時に、事態は正反対の方向に進んでいたのです。しかし、その正反対の方向がまさに神が考えていた正しい方向だったのです。なぜなら、それによって十字架と復活の出来事が起きたからです。

神殿からの商人追い出しから逮捕までの間、イエス様は人々に教え続けます。教えはよく見ると、どれもが将来イエス様を救い主と信じるようになる者たちは彼が再びやって来る再臨の日までどういう心構えを持つべきかを教えているとわかります。マルコ11章から12章までです。

イエス様が通りかかった時、実を実らせなかったイチジクの木は枯れてしまいました。イエス様が来る日に実がなっているように準備をしていなければならないのです。そのような準備には祈りが必要であると教えます。祈りを絶やさないことが準備をしていることになるのです。ただし祈る時、心の中で誰かを赦せないということがあってはならないとも教えます。イエス様の犠牲のおかげで神から罪の赦しを受けられて、それでイエス様を救い主と信じるようになったのであれば、彼の再臨を待つ者の心構えとして他者を赦すことは当然のことになるのです。

イエス様はまた、たとえの教えで、ぶどう畑の小作人が所有者の息子を殺害して罰として滅ぼされてしまう。そして、ぶどう畑は別のものに与えられる話をします。これは、罪の赦しの救いを地上で管理する者が神殿儀式のユダヤ教からキリスト教会に移ることを意味します。キリスト教会は主の再臨の日まで罪の赦しの救いを世の人々に伝え、かつそれを受け入れた人たちがその救いを携えてその日まで歩めるように支えなければならないのです。

イエス様はまた、神に選ばれたユダヤ民族は占領者のローマ皇帝に税金を納めていいのかどうかという挑発質問に対して、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せばよいと答えました。この世の権威と権力は絶大なものに見えても、その上に立つもっと絶大な権威に目を向けなければならないということです。主の再臨を待つ者は、いつかは衰退して消え去るこの世の有限な権威権力に目を奪われず、その上に立つ永遠に栄光に輝く神の無限の権威に目を向けていなければならないのです。

さらに、死者の復活などないと言う宗教指導者たちに対してイエス様は、彼らがいかに旧約聖書をいい加減に読んでいたかを暴露します。主の再臨を待つ者は聖書を繙く時、聖書と復活と永遠の命は切っても切れない関係にあることを忘れてはいけないのです。

イエス様はまた、ユダヤ教社会の膨大な数の掟の中で、一番重要な掟は二つ、神を全身全霊で愛することと、神への愛に立って隣人を自分を愛する如く愛することであると教えました。膨大な掟集が二つに集約されてしまいました。しかし、そのためにこの二つの掟は途轍もなく広い深い掟になったのです。そのような偉大な掟に自分のあるがままの姿を照らし合わせると、神の意思に沿うことができない無力な自分に気づかされます。実はこれが罪の赦しの救いの入り口に立つことになります。イエス様は、この二つの掟に納得した律法学者のことを、お前は神の国から遠くない、と言ったのはまさにそのことです。主の再臨を待つ者は神の前に無力な存在であることを忘れてはいけないのです。だから、そんな自分を神の御前で大丈夫にして下さるイエス様が待ち遠しくなるのです。

さらにイエス様は、メシアの意味について、当時一般的に考えられていた民族の王様の意味を越えていること、かつてダビデが主と呼ぶくらいに越えている方であると教えます。人間の罪を償い、人間を罪の支配下から贖い出して復活を遂げた主、そして、いつか再臨される主は本当の意味でのメシアなのです。

イエス様はまた現行の神殿システムが宗教エリートを特権階級にしてしまうことや、神殿への捧げものの価値が外見で評価されてしまって、捧げる心が顧みられない現状を批判します。主の再臨を待つ者は、神によく見られるようになるために捧げるのではなく、神から罪を赦してもらったから捧げます、という心にならなければならないのです。

以上の教えはマルコ11~12章にあります。今見てきたように、どれもが、イエス様の再臨を待つ者のこの世で生きる心構えについて教えています。次の13章でイエス様は、イスラエルの地の近い将来の出来事から始めて、今のこの世が終わりを告げてイエス様が再臨する日までのことについて預言します。「キリストの黙示録」と呼ばれる箇所です。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫でいられるように目を覚ましていなさいと命じます。主の再臨の日まで目を覚ましているというのは、今まで見てきたような再臨を待つ者の心構えを持ってこの世を生きることです。

一連の教えが終わった後、事態は急速に受難に向かって進んで行きます。ある女性が非常に高価な香油を惜しみなくイエス様に頭からかけます。本当は遺体に塗って亡くなった方に最大の敬意を払うものでしたが、女性はイエス様がまだ生きている時に行いました。イエス様の受難と死はもう回避できないという印でした。イエス様はこの世の王として君臨するのではないことがはっきりしました。しかし、無残な殺され方をされるが、実は高価な香油を塗られるに値する高貴なことなのだと、無残さの裏側に大きな真実があることを示す行為だったと言えます。

そして、イエス様は弟子たちと一緒に過越し祭の食事をとります。イエス様はイスカリオテのユダが宗教指導者たちと組んでイエス様を引き渡す役を引き受けたことを知っています。また、イエス様が逮捕されたら他の弟子たちも逃げ去ってしまうことを知っています。これから全く一人で通過しなければならない受難が待っていると知っています。しかし、全てをやり遂げたら、人間はイエス様の犠牲のおかげで罪の償いを自分のものにすることができるようになります。このように罪を償ってもらった人はイエス様を救い主と信じる信仰を携えて世を神の子として歩めるようになります。信仰者が主の再臨の日まで信仰に留まって歩むことが出来るように、歩む力を得られるように、イエス様は最後の晩餐の時に聖餐式を設定して下さいました。主の再臨を待つ者にとって洗礼に並ぶ大事な儀式です。

食事の後、イエス様は弟子たちと一緒にゲッセマネに行ってそこで祈ります。イエス様はこれから起こる受難がどれほど辛く苦しいものであるかよく知っています。なぜなら、誰か一人の人間の罪ではなく、全ての人間の全ての罪の罰を神から受けなければならないからです。最初イエス様は、それを避けられる可能性を神に祈ったほどでした。しかし、神の意思が実現することが自分の思いよりも大事だと祈り直します。イエス様は全てを神の御手に委ねたのです。弟子たちは疲れ果てて眠ってしまいました。イエス様も同じ位疲れていたでしょう。しかし、イエス様は立ち上がって進みました。このように私たちが弱くても、イエス様は私たちのために立ち上がって私たちの代わりに進んで下さるのです。

まさにその時でした。指導者たちの回し者が押し寄せてきました。イエス様は逮捕されてしまいました。弟子たちは逃げ去ってしまいました。イエス様は最高法院に連行され、大祭司のもとで尋問を受けました。訴えは食い違いが多く、筋の通った決定的なものがありません。業を煮やした大祭司がイエス様に聞きます。お前はメシアなのか?そうだ、とイエス様は答え、さらに、人の子は神の右に座して、天の雲と共に到来すると、自分の再臨について述べます。怒り狂った大祭司は、イエス様が神を侮辱したと叫び出し、一同は死刑に処するべきと一致します。イエス様に容赦ない暴行が加えられました。遠くから様子を伺っていたペトロは、お前はあの男の仲間ではないかと聞かれ、三度、イエス様との関係を否定してしまいます。そしてイエス様が言った通りになってしまったと気づきました。あれほどどんなことがあってもついて行くと言ったのに、なんという失態!ペトロは激しく泣いてしまいます。イエス様を信じた者が周りに対する恐れから否定してしまうというのは途轍もない後悔を引き起こします。しかし、後でペトロは罪を赦され、信仰を公けにする者に変わります。主の再臨を待つ者とは、信仰を公けにする者なのです。

イエス様は最高法院からローマ帝国のユダヤ総督のピラトの元に送られます。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあり、死刑は支配国の法律に基づいて行われたからです。ピラトはイエス様がひょっとしたらユダヤ民族の王かもしれないと思ったようです。宗教指導者たちがイエス様を引き渡したのは、彼が多くの人たちの支持を受けたため、自分たちの権威が脅かされると恐れたからだとわかっていました。別にこの男が王だとしても、ヘロデもローマに服従したし、誰が王になってもローマは服従させる自信はあります。

さて、過越し祭の時にはユダヤ人の希望を聞いて死刑囚を一人釈放する慣行がありました。今ピラトの前に宗教指導者たちが集めた人たちがいます。ピラトが提案しました。ユダヤ人の王イエスを釈放しようか?しかし群衆は釈放するのはバラバだと叫びます。十字架刑はイエスだ、と。彼らは指導者の指示通りに叫んだのです。驚いたピラトが、イエスは一体どんな悪事を働いたのかと聞きますが、群衆はただ十字架につけろと叫ぶだけです。ピラトは十字架につけるのはイエス様に決め、バラバを釈放しました。そこからは屈強なローマの兵士たちがイエス様に対して容赦ない暴行を加えます。その後、イエス様は自分が吊るされる大きな十字架の木を背負わされて処刑場まで運ばされます。恐らく半殺しのような状態だったのでしょう、背負いきれなかったので、兵士たちは通行人のシモンに命じて一緒に運ばせました。

ゴルゴタの処刑場に着くと、さっそく十字架につけられました。両腕を左右に引き伸ばし、両方の手首と一つに重ねた足首に五寸釘を打ち付けるのです。激痛といったらなかったでしょう。当時十字架刑は最も残酷な死刑の仕方でした。十字架の上で苦しんで死んでいく様子をずっと公けにさらしものにするのです。通りがかりの人が見て、指導者たちと一緒になってイエス様に嘲りと侮辱を叫びます。民族の解放者のように騒がれていたのに、なんだあのざまは、と。ついこの間、ロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムの町に入城した面影は全くありません。

イエス様が十字架につけられて3時間ほどたった正午の頃でした。大地が突然暗くなるという事態が起きました。イエス様が神罰を受けて苦しまれている状態を象徴する現象でした。暗い状態は午後3時位まで続きました。ちょうど暗さが収まって明るくという境目の時に、イエス様が母語のアラム語で叫びました。「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのか?」これを聞いた人たちは、昔生きたまま天に上げられた預言者エリアが来て彼を天に上げてくれるように頼んでいると誤解しました。イエス様が直ぐ息を引き取らないようにと海綿に酸いぶどう酒を含ませて棒に付けて飲ませようとしました。しかし、イエス様はそのまま息を引き取られました。

ちょうどその時、神殿では大変なことが起きました。神殿の中の最も神聖な場所で、大祭司だけが入れて神と対峙する至聖所の前にかかっている垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。イエス様が十字架につけられて激痛の中を苦しんでいる時、大地が暗闇に覆われた時、イエス様は人間の全ての罪の罰を受けたのであり、同時にイエス様と抱き合わせの形で罪も滅ぼされたのです。暗闇が終わってイエス様が息を引き取ったのと同時に、罪ある人間と神聖な神を分け隔てていた垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。まさにイエス様の体を神聖な犠牲として捧げたので、人間と神を分け隔てていたものがなくなったことが明らかになった出来事でした。不思議な暗闇の中でイエス様の前に立って一部始終を見ていたローマの軍隊の隊長はイエス様が息を引き取るや否や暗闇が終わったことに恐れを抱いたのでしょう。この方は本当に神の子だったと叫んだのです。

イエス様の十字架刑の細かい出来事を見ると、例えば、兵士たちがイエス様の服を分け合うためのくじ引きを引いたこと、酸いぶどう酒を飲ませようとしたこと、またイエス様が最後に叫んだ言葉、これらはみな旧約聖書に預言されていたことでした。イエス様の受難は全て神の計画通りに進んだということです。

さて、イエス様が亡くなられた後、最高法院の議員ヨセフがピラトのもとに行ってイエス様の遺体の引き取りを願い出ました。彼は神の国を待ち望む人でした。つまり、イエス様が神の国について熱心に教えたことを信じたのです。ということは、今の世が終わる時に起こる死者の復活も信じていました。復活に与る者が神の国に迎え入れられます。今イエス様は死なれました。この後どうなるのか?あの方は3日後に復活すると言っていたそうだが、今の世がまだある時に復活が起こるのだろうか?しかし、今はまだ何もわかりません。しかし、今しなければならないことは、イエス様の遺体が宗教指導者に引き取られて打ち捨てられるようなことがあってはならない。彼は勇気を出して占領国の総督ピラトの元に行きました。幸いなことに引き取りは認められて、イエス様の遺体を埋葬します。彼が埋葬したおかげで、3日後の空の墓の出来事が起こりました。イエス様の復活の重要な証拠になったのです。このように、主の再臨を待つ者は、他人がどう見ようが何を言おうが、イエス様が教えたことを信じて彼に敬意を抱いて行動すると、神は予想もしない大きな業をもって返して下さるのです。

主の再臨を待つ者の心構えは、福音書の受難の出来事の他にも、本日の旧約の日課イザヤ書50章と使徒書の日課フィリピ2章にも示されています。

イザヤ書50章は、イエス様が暴行を加えられる場面を想起させます。しかし、この主の僕は、神が自分の正しさを認めてくれているとわかっています。暴力をもってしても曲げられないと。主の再臨を待ち、神の罪の赦しの恵みの中で生きる者は、誰かが私を訴えようとしても、天地創造の神が私の無実の証言者になってくれているので、私にはやましいところはないという気概を持てるのです。

フィリピ2章は、パウロがキリスト信仰者は自分のことだけを考えるのではなく、他の人たちのことも考えなければならない、それはイエス様がそうだったからだと言います。どのようにそうだったかと言うと、『神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたからです。この世で、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だったからです。』主の再臨を待つ者は、自分のことだけを考えるのでなく他の人たちのことも考える時、イエス様を身近な例として持っているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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