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[私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と、平安とが、あなた方にあるように。アーメン]
2024年4月21日(日)スオミ教会
「私は、まことの羊飼い。」
今日の聖書はヨハネ福音書10章1~10節です。
イエス様は「羊飼いと羊の譬え」を10章1~10節までに語られて、11節からは本格的に「私はよい羊飼いである。」とご自分を「羊飼い」に譬えて語られます。これまでにも、イエス様はご自分のことを「私は命のパンである」とか「私は命に至る道である」とか10章のはじめでは「私は門」である、と譬えで表されました。羊の群れを囲っている一つの門である、羊たちはこの門を通って出入りする。羊飼いと門は同じご自分のことを露わに表されています。羊飼いは羊の世話をします。命がけで世話をします。現代で言えば教会には牧師がいます。教会で牧師というのは牧者と言う言葉から来ていると思います。主イエス様こそ教会の「よき牧者」であられます。主イエス様が、よき牧者であり給うのは、第1に、その羊の事をよく心にかけて、羊のために命を捨て給うからであります。イエス様が11節から13節にかけてそのことを教えられています。その前にまず、10節で「私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに受けるためである。」と言われ、続いて「私はよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる。」と言われます。そして、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇人は狼が来るのを見ると羊を置き去りにして逃げる。―(そうすると)狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇人で羊のことを心にかけないからである。そして、14節から再び力説されています。「私はよい羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。」よい羊飼いと雇人と比較して、雇人は狼が来ると、羊を置き去りにして逃げる。自分の身の安全の事しかない。雇人は自分が自分の事、自分中心にしか心が及ばない。
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ペテロは教会の長老たち、及び牧会者たちに警告しています。ペテロの第1の手紙5章2節以下で「あなた方の長老たちに、勧めます。あなた方に委ねられている神の羊の群れを牧しなさい。
強制されて、ではなく、神に従って自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく、身的にしなさい。委ねられている人々に対して権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの規範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになる時、あなた方はしぼむことのない栄冠を受けることになります。同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆、互いに謙遜を身に着けなさい。何故なら「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。だかr、神の力強い、み手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます想い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなた方の事を心にかけて下さるからです。「よい羊飼いであるイエス様は、自分で羊のために命を捨てる、それは再び命を得るためである。」10節で言われたように、命を捨てるのは羊に命を得させるため、豊かに得させるため、というのです。世間の人間並みの立派な牧師であっても、羊のために命を捨てるでしょうか。羊たちに命を得させるため、豊かに得させるでしょうか。ここに、全くちがう、主イエス様こそは羊の身代わりに十字架に命を捨て、永遠の命によみがえる、と言っておられるのです。ここでは、イエス様が十字架にかかって、死に給うたのが、ただ羊である私たちの罪の身代わりで命を捨て、そのことで、もっと豊かに、多くの全世界の迷える羊に、永遠の命を豊かに与えるためである、というのです。第2 に主イエス様が「よき羊飼い」であるのは、羊をよく知っておられる、からであります。14~15節を見ますと、「私はよい羊飼いであって、私の羊を知り、私の羊はまた、私を知っている。それは、ちょうど父が私を知っておられ、私が父を知っているのとおなじである。」天にいらっしゃる父なる神が、神のみ子、イエス・キリストを全て知り尽くしておられる。神のみ子イエス様も父を知っておられる。互いに全てを知り尽くしておられるのです。それと同じように、主イエス様はイエス様を信じて、神の子とされた私たちキリスト者の全てを知っていて下さるのであります。イエス様だけが、まことの羊飼いであって羊たちの一匹々のすべてを知り尽くしておられます。
ジョージ・アダムスという人が、パレスチナを旅行した時、一つの井戸の傍らで真昼の休息をしていた時のことです。そこに三、四人の羊飼いが水を飲みに来た、また羊たちにも水を飲ませた。当然それぞれの羊の群れも一緒にくっついて来るわけです。一つの井戸ですから、その井戸から水を汲んだ所に羊はみな群がって飲み、戯れますから三つ、四つの群れはごちゃ混ぜになってしまったわけです。見ていたこちらの方が心配になって、あれは後でどうやって羊をえり分けるのかと思って注目していると、暫くして三・四人の羊飼いが一人はあちら、一人はこちら、と別々の方向へ行って立ち上がり、それぞれが独特の声で合図をすると、ごちゃ混ぜになっていた羊の群れはそれぞれが自分の羊飼いの所へと行って、いつの間にか見事に元通りの羊の群れは三つ、四つに分かれて行ったというのです。このように羊たちは自分の羊飼いの呼び声を知っていますから、主人である羊飼いに付いて行くのです。それほど本当に羊を知り尽くした羊飼いの下で養われた羊は羊飼いを知りぬくのです。また羊飼いは生まれてくる羊の一匹々に特徴を見つけて、相応しい名前を付けてその羊を呼ぶのです。この羊と羊飼いの絶妙、絶対の信頼,頼り切った深い関係、そのものを譬えとして言っておられるのです。イエス様は神の子として父なる神に全幅の信頼を頼り切って、いつも、いつも困難と苦しみの只中で父なる神に祈ってゆかれたのです。天にいらっしゃらる父なる神は、こよなく一人子イエス様を愛し、その苦しみと戦いのすべてを知って、それに応えて無限の知恵と力とを与えてゆかれた。それと同じようにイエス様を信じ、頼り切ってイエス様を知り、信頼してゆく私たち一人々に一番相応しい恵みと力を注いでいる、全ての真実を知り尽くして助け導いて下さるのであります。
預言者イザヤはイザヤ書49章14節以下で申しました。イスラエルであるシオンは全能の神に嘆き訴えました。「主は私を捨てられた、主は私を忘れられた」と。すると主は言われた。「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を哀れまないようなことがあろうか。たとえ彼らが忘れるようなことがあっても私は、あなたを決して忘れるようなことはない。見よ、私は、たな心に彫り込んだ」これがイスラエルの民を牧される牧者、主なる神様であります。シオンの民は忘れられた、と僻みました。神様は世界中に何万、何千とある教会の中で私たちの小さい群れなど、忘れていらっしゃるのではないかと、心の隅のどこかで僻みます、けれども主イエス様は言われます、「女が乳飲み子を忘れる事がないように、その腹を痛めた子供を哀れまずに放っておけないように、いやたとえそんなことがあったとしても、主なる神様はあなたを決して忘れない。あなたの、すべてをたな心に刻んで、いつも覚えている」と言って下さるのであります。まことの牧者、主イエス・キリストは愛をもって見守ってくださっているのであります。イエス様は「羊のために命を捨てる」とおっしゃいました時、それは決して十把一絡げの100人、200人のために命を捨てたのではなくて、実にあなたのために、たな心に刻んである、あなた一人を心にかけて、命を捨て給う、という愛を示して下さったのであります。――――――――――――――――――◇―――――――――――――――――――――
最後にイエス様がよき牧者であり給いますのは「一つの群れ、一人の羊飼いとなる」お方であるからであります。群れを一つにしたもう方です。「私はまた、この囲いにいない他の羊がある。私は彼らを導かねばならない。彼らも私の声を聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう」。ここで言われている「この囲いにいない他の羊の群れ」というのは旧約聖書を知らない、異邦人のことですが、彼らも「導いて」「一つ」になし給うのは、何によってなされる、かと言うと、それはイエス様が命を捨てるところの十字架の死によって、であります。実は11章51節のところでこの年の大祭司が預言して言いました。「イエスがイスラエル国民のために、また、ただ国民のためだけでなく、散在している神の子らを一つに集めるために死ぬことになっている、と言ったのである」。イエスの十字架によって異邦人も一つの群れに加わる、ということが起こってきたのです。エペソ人への手紙2章15節で、こう言われています。「それはキリストにあって、二つのものを、一人の新しい人につくり変えて平和を来たらせ、十字架によって二つのものを一つの体として、神と和解させ敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」。ここで言おうとしている事は神によって選ばれた選民と異邦人とが、互いに敵意を持っていた、この二つのものが十字架の死によって取り払われて一つとなる、平和の神の民となる。そういう事が言われているのです。
元々は神の子イエスが十字架の死をもって神と罪ある人間とを和解してくださった。そうして私たちが神の子となり、神を父と呼ぶことが出来るようになりました。一つになって平和の神の子となる事が出来るようになる、ここに本当に人間たちがイエス・キリストの十字架によって、神も子とせられ、愛情の関係に入った時、一人々の人間が皆、同じ神の子として兄弟となり「一つの群れ」として結びつく事ができるわけであります。イエス様は、そのような新しい兄弟たち「この囲いにいない、他の異邦人たちを導かねばならない、それは『他の羊』があるからだ」と言っておられるわけです。
イエス様が言われるのは「導いたら、キリストを信じる、そういう群れができるだろう」ではないのです。もう既に私には「他の羊の群れがある、であるから導かねばならない」とおっしゃっているのです。
使徒言行録18章9節から11節にはパウロがコリントの町で非常に困難の中で伝道しておりました。信仰に入った者たちがユダヤ人から激しい迫害を受ける、ということが起こりました。その夜キリストは幻のうちにパウロに現れて励まされたのです。「恐れるな。語り続けよ、黙っているな。あなたには私がついている。誰もあなたを襲って危害を加えるようなことはない。この街には私の民が大勢いる」。そう言われてパウロは1年6ヵ月コリントで伝道したあのであります。この街には私の民がいる。だから導かねばならないのだ。私たちが導いたり、伝道するから民が出来るのではないのです。私たちが、何故私たちの囲いの外にある所にまで伝道に行かねばならないのか、それは命に定められた群れが既にある、からであります。このようにして、外にいる既にある「一つの群れ」の「一人の羊飼いとなる」というのがイエス・キリストの使命であります。それが、また、彼が命を捨て給う救いのみ業の完成なのであります。
[人知では、とうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように] アーメン
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。