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主日礼拝説教 2024年4月28日 復活後第五主日
聖書日課 使徒言行録8章26ー40節、第一ヨハネ4章7-21節、ヨハネ15章1-8節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
先ほど朗読された使徒言行録の個所で、フィリポが旧約聖書を読んでいるエチオピアの高官に聞きます。「読んでいることがお分かりになりますか?」高官は答えます。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」皆さんは聖書を自分で読んですぐお分かりになりますか?そもそも聖書をわかるというのはどういうことでしょうか?難しい言葉の意味がわかって、文章がクリアーになることでしょうか?
難しい言葉の意味がわかって文章がクリアーになっても聖書をわかったことにはなりません。どうしてかと言うと、聖書という書物は天地創造の神が人間に伝えたいこと、わかってほしいこと、人間にこうあってほしいと思っていること、つまり私たち人間に対する神の意思が詰まった書物だからです。それで、読む人が神の意思を自分事として受け取って読むことが聖書をわかるようになる読み方です。もちろん、神の意思を自分事として読まない読み方もあります。遠い昔の遠い世界の人たちはこういうことを考えたんだ、と距離を置いて他人事として読む読み方です。中には少し距離を近づけて、聖書には現代を生きる自分にとって有益な話もあるとか、現代を生きる自分には受け入れられない教えもあるが、受け入れられる教えもある、それは参考にしようとか、知識と教養の読み方です。自分に磨きをかけようという人格形成の読み方です。聖書以外にもその材料は沢山あります。しかし、神の意思を自分事として読むというのは、自分に磨きをかける読み方とは違います。それでは、どういう読み方でしょうか?
本日の使徒言行録の個所に出てくるエチオピアの高官は、神の意思が自分事になった例です。神の意思が自分事になったので洗礼を受けるに至りました。本日の別の日課、第一ヨハネとヨハネ福音書の個所は、神の意思が自分事になって洗礼を受けた人が今度は神の意思を日々、自分事にして生きて行く生き方について教えています。そこで言われているのは、神の愛を内に持って生きる生き方と、ぶどうの木の枝が豊かに実を結ぶような生き方です。これらが神の意思を自分事にして生きる生き方です。今日はこれらのことついて見ていきましょう。
エチオピアの高官が神の意思を自分事にする聖書の読み方をしたことについて。本日の箇所にはガザとかエチオピアとか、私たちが耳にする地名や国名が出て来ます。特にガザは今パレスチナとイスラエルの戦争の舞台になってしまい、戦火の悲惨な状況が毎日ニュースで報じられています。見るのが辛くなる光景を毎日目にしなければなりません。一日も早い戦争の終結を後で一緒にお祈りしましょう。ガザは紀元前1500年位からあると言われる歴史の古い町で、使徒たちが活躍した時代は平穏な町だったのです。エチオピアの方は、現在のエチオピアの国とは関係はなく、当時エジプト南部の地域はそう呼ばれていました。当時そこにはユダヤ人の居住地がありました。イエス様の時代から約300年位前のアレクサンダー大王の時代、ギリシャからパレスチナを経てエジプトに至る地中海東岸の地域はヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ系の文化が栄えるようになりました。この地域ではギリシャ語が公用語になっていました。まさにその頃、ユダヤ人の居住地が広がり、各地に会堂・シナゴーグが建てられました。
これらの地中海世界のユダヤ人は旧約聖書の言葉であるヘブライ語が出来ませんでした。それで彼らのために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。エチオピアの高官が読んでいたイザヤ書も実はヘブライ語ではなくギリシャ語のものでした。どうしてわかるかと言うと、私たちが手にする旧約聖書はヘブライ語のものを元にしていますが、その文章と高官が読んでいた文章が少し違っているからです。ヘブライ語のイザヤ書とギリシャ語のイザヤ書を確認したら、案の定、使徒言行録にある引用はギリシャ語と同じでした(後注)。翻訳文がもとの文と違っているということはよくあります。このやっかいな問題は後で解決します。エチオピアの高官は、きっとギリシャ語系のユダヤ人と接触があって、それでギリシャ語の旧約聖書を読んで天地創造の神を信じるようになり、エルサレムの神殿にお参りに行くようになったのでしょう。ただし宦官なので割礼は受けられません。天地創造の神を信じ、救世主メシアの到来を待ち望む信仰を持つには至っても、正式にユダヤ教徒とは認められなかったのでした。
少し脱線しますが、地中海世界にユダヤ教が広がったのは、ユダヤ人の移住だけではなく、現地の人たちの改宗もありました。当時多神教が支配的だった地中海世界の人々にとって一神教のユダヤ教には惹きつけるものがあったのです。例えば、当時のギリシャ・ローマ世界の性のモラルは奔放というかルーズなところがありました(現代も同じかもしれません)。そういうところでユダヤ教は、創造主の神は人間を男と女に造った、神は男女の結びつきにおいて姦淫や不倫を許さないという生き方を示しました。また、当時の地中海世界には間引きの風習がありました。余分な赤子は父親の権限で処分するという嬰児殺しが当たり前のように行われていたのです。理想的に描かれる古代文明にはこういう影の部分があったのです。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内にいる時から神から目を注がれているという生命観を示して間引きに反対したのです。
このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じように正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍が大勢いたのです。使徒言行録の中に何度も「神を畏れる者」という言葉が出て来ますが、彼らのことです。そこにある日突然パウロなる男がやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。さあ、割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるとなれば予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は急速に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めません。彼らはローマ帝国の官憲を巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。まさにこのような時代状況を使徒言行録は詳細に記しているのです。
エチオピアの高官の話に戻りましょう。彼はイザヤ書53章7ー8節のところで悩んでいました。屠り場に引かれる羊、毛を刈られる小羊のように口を開かなかった主の僕とは一体誰のことだろうか?彼が読んだギリシャ語のイザヤ書の箇所はヘブライ語の原文よりやっかいでした。ヘブライ語では、「羊のようにおとなしい主の僕は捕まって裁きを受けて命を落としてしまい、彼の同時代の者は誰もそのことを気に留めない
という書き方です。ところがギリシャ語の方は「主の僕はへりくだったことによって裁きが取り除かれた」などと言います。それに続いて「誰が彼の子孫について語ることができるだろうか?彼の命は地上から取り去られてしまうのに」などと言います。ヘブライ語とかなり違っています。一体どういう意味でしょうか?
ここで一つ注釈します。私たちの新共同訳では「卑しめられて、その裁きも行われなかった」と言っていますが、ギリシャ語原文では「へりくだったことによって裁きが取り除かれた」です。参考までに各国語ではどう訳されているかを見ると、フィンランド語訳とスウェーデン語訳はこの訳です。ところが、ルター版のドイツ語訳は「彼の裁判は廃止される」で、新共同訳の「裁きが行われなかった」に近いです。でも、イエス様は裁判を受けたのです。それで十字架にかけられたのです。英語のNIVは「彼の正義が奪われる」で、正しい者が不当な判決を受けたという意味です。フィンランド語とスウェーデン語は裁き=有罪判決が取り除かれたという訳です。私はこちらだと思います。
どうしてかと言うと、フィリピ2章にそのことが言われているからです。8~9節を見ると、イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって神に従順だった、それで、神は彼を高く上げられたと言われています(8~9節)。神に高く上げられたというのは、神の力で死から復活させられ、さらに天に上げられて神の右に座すに至ったということです。まさに、へりくだったことによって裁きを取り除かれたのです。
それと、イエス様の子孫について誰が語ることが出来るのか?彼はこの地上から取り去られてしまうのに、と言うところです。子孫というのは必ずしも血筋の子孫のことではなく、イエス様に結びつく者が後から出てくるということです。言うまでもなく、キリスト信仰者のことです。イエス様自身がこの地上から取り去られてしまったら、一体だれが彼に続くキリスト信仰者について語ることが出来るのか?そこにフィリポが高官の前に現れて、この私が語ることが出来ますと名乗り出たのでした。
フィリポはイザヤ書53章の主の僕の預言から始めて、イエス様の福音を宣べ伝えました。教えた内容について記述がないので正確なことはわかりませんが、イエス様の福音と言うからには以下の内容だったことは間違いありません。天地創造の神が贈られたひとり子のイエス様が十字架の上で人間の罪の罰を全て受けて死なれた。そのようにして人間に代わって罪の償いを神に対して果たして下さった。それで彼を救い主と信じて洗礼を受ければ彼の果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができる。罪を償ってもらったので神から罪を赦された者と見なされる。罪を赦されたので神との結びつきを持って生きられるようになる。さらに神はイエス様を死から復活させて死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開いて下さった。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はその道に置かれてその道を歩むことになる。神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを受けられてその道を進み、たとえこの世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようになった。以上の福音が伝えられたのです。これは時代を超えて現代の私たちにも伝えられている福音です。
エチオピアの高官は、主の僕はイエス様だとわかりました。イエス様こそ神が旧約聖書で約束していた救い主メシアであり、彼こそ自分の救い主だと信じたのです。まさに、神の意思を自分事にする聖書の読み方をしたのでした。エチオピアの高官は洗礼を志願して、フィリポは施しました。これでエチオピアの高官は割礼なくして神の子となり神と結びつきを持ってこの世とこの世の次に到来する世の双方にまたがる命を生きることとなりました。
次に、神の意思が自分事になって洗礼を受けたら、今度は神の意思を日々、自分事にして生きる生き方はどういう生き方になるかについて見ていきます。本日の第一ヨハネの個所とヨハネ福音書の個所がそのことを教えています。
ヨハネ福音書15章でイエス様は、キリスト信仰者はぶどうの木の枝である、ぶどうの木はイエス様のことである、イエス様に繋がっているキリスト信仰者はぶどうの木の枝のように実を結ぶと教えます。キリスト信仰者が実を結ぶというのは、具体的に何を意味するのでしょうか?キリスト信仰者が実を結ぶと聞いてまず思い浮かぶのは、ガラティア5章でパウロが聖霊の結ぶ実について述べているところです。そこで喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制があげられています。私は、もっと具体的に述べているところとして、ローマ12章のパウロの教えを取り上げたいと思います。まず9節で「愛には偽りがあってはならない」と言います。もし何か自分の利益とか名声のためとか下心があれば、偽りの愛になってしまうということです。その続きをざっと列挙すると以下のようになります。悪を憎み、善から離れるな/兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思え/迫害する者を呪うな、祝福を祈れ/喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け/思いをひとつにし、高ぶらず身分の低い人々と交われ/自分を賢い者とうぬぼれるな/誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ/隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第という時は迷わずそうせよ、少なくとも自分から平和を壊すな/自分で復讐するな、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ/善をもって悪に勝て。以上です。
ここで注意すべきことは、パウロは~しなさいと命令形で述べていますが、キリスト信仰にあっては、倫理的な実践というのは救いを受けたことの結果として出てくるものであるということです。救いを得るために行うものではないということです。神から罰を受けないためとか、神に自分を認めてもらうためとか、天国に入れるために、~しなさいと言われることをするのではないということです。なぜなら、既にイエス様の十字架と復活の業のおかげで、そしてそれを信じて受け入れる信仰によって既に救いを得てしまったからです。私たちが救いを得るためにすべきことは、神がイエス様を用いてとっくに整えて下さったのです。私たちはそれをただ受け取るだけで神に認められて天の御国に向かう道に置かれたのです。だから、キリスト信仰者にとって、良い業とか倫理的な実践は、救われたこと、神に認められたことの結果として出てくるものなのです。まさにイエス様というぶどうの木の枝の実のように実ってくるものなのです。その意味で、パウロが~しなさいと命じていることは、しないと天国に行けないぞ、と脅しを秘めた命令ではなく、君たちはもう救われたのだから、神に認められたのだから、それにふさわしく生きなきゃだめだぞ、というリマインドのようなものです。それは、パウロに限りません。パウロ以外の使徒もそうです。今日の第一ヨハネでヨハネが互いに愛し合いなさいと命じていることも同じです。
第一ヨハネ4章10節でヨハネは、愛とは人間が神を愛したことにあるのではない、神が人間を愛してひとり子イエス様を人間の罪を償う生贄として贈って下さったことにあるのだと言います。11節でヨハネは続けて、「兄弟たち、神はこのように私たちを愛して下さったのだから、私たちもお互いに愛さなければなりません」と言います。19節でも言います。「私たちは愛そうではありませんか。なぜなら、神が最初に私たちを愛して下さったのですから。」このように愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにした神の意思、しかもそれを実現するためにひとり子を犠牲にすることも厭わないという意思、この神の愛が全ての愛の出発点だというのです。人間はこの愛で愛されて愛することができると言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということです。
そうすると、イエス様や父なるみ神が聖書の中で、~しなさい、~しなさいと沢山命じていることも全部同じです。救われた結果、神に認められた結果、そうするのが当然という心意気になるのです。神やイエス様が命じていることを十字架と復活の出来事の前に聞いた人たちは、守らないと神に認められない、天国に行けないという脅かしを伴う命令に聞いたでしょう。しかし、十字架と復活の後は全てが逆転したのです。救われたのでもう命じられていることは当然という心意気になるのです。ただし、キリスト信仰者になったとは言ってもこの世では肉を纏っていますから、命じられることに反してしまうことをしてしまったり、考えてしまったり、言葉に出してしまったりすることもあります。しかし、罪の赦しの恵みに留まる者はすぐ、ああ、救われた者なのに、神に認められた者なのに、相応しくないことをしてしまった、と悔いて、十字架の方を向いて襟を正して新しくやり直すのです。
そうすると、ヨハネの個所で、イエス様のぶどうの木に繋がっていながら実を結ばず切り取られてしまう枝というのはどういう状態かわかります。それは、せっかく救いを受け取って救われた者になったのに、いつしか、~をしないと救われないという昔の思い、律法的な思いに囚われるようになってしまった人たちです。救われるためにとか、救いを確実なものにするために命じられたことをするようになってしまった人たちです。そういうふうになったら、救いのためにはイエス様の十字架の犠牲では足りない、自分の業が必要なのだということになってしまいます。それは神の威信を傷つけることになります。イエス様の償いと贖いでは物足りないなどと言ったら、神から、それじゃ、どうぞ、とぶどうの木から追い出されてしまいます。
それと、イエス様は実を結ぶ枝に対しては、農夫の神が手入れをしてもっと豊かに結ぶようにすると言います。それは何を意味するのでしょうか?それは、イエス様の償いと贖いが私の救いの全てですと言って受け取ることに徹する信仰に力を与えることです。その力は御言葉と聖餐を通して与えられます。礼拝の説教で御言葉を説き明かしする目的は、まさに償いと贖いの受け取りを強くすることにあります。受け取りが強まれば、実も一層豊かに結びます。
最後にイエス様が「お前たちが私に留まり、私の言葉がお前たちに留まるならば、望むものを願えば叶えられる」と言っていることについて。望むものを願えば叶えられる、なんて言うのは御利益宗教じみていると思う人もいるかもしれません。しかし、そういうことではありません。まず、願いは叶えられると言う時の願いですが、これは何でもかんでもの願いではありません。私たちがイエス様というぶどうの木の枝として願うものです。なので、ぶどうの木の枝として相応しい願いです。じゃ、何が相応しい願いかと言うと、これはもう先ほど申しました、真のぶどうの実を結ぶことです。つまり、神の愛に立って愛することが出来るようになることです。それを願えば叶えられるとイエス様は言うのです。どうして叶えられるかと言うと、ぶどうの木の枝である私たちはイエス様というぶどうの木に繋がっています。その木から栄養を、つまり御言葉と聖餐という栄養を注いでもらっているからです。しかも、農夫の神が栄養を注がれる私たちを手入れして豊かに実を結ぶようにしてくれるのです。だから、ぶどうの木の枝の願いは必ず叶えられるのです。これが本日の個所のイエス様の教えの全容です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(後注)ギリシャ語の旧約聖書は私の手元にないので、ネットの聖書サイトBible Hubのものを見ました。それは、Swete’s Septuagintで、権威あるOxford版やGöttingen版と同じかどうかはわかりません。