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復活の日の再会の希望を抱いて
フィンランドの教会の葬儀では司式をする牧師が柄杓で土を棺桶の上にかけ、「土から生まれ土に戻る」と言います。これは、最初の人間アダムが神の手で土(ヘブライ語でアダマ)から造られたことを想起させるものです。 続いて牧師は式と説教を通して、肉の体は朽ちても復活の体を与えられて復活の日に再会できるという希望を遺族や会衆と一緒に確認します。以下の聖句とルターの説き明かしは、この希望を強めてくれる教えです(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」1878年初版 4月7日の個所から)。
「全ての人間はアダムと結びついて死する者となったのであるが、今度は逆にキリストと結びついて生きる者に替えられるのである。」(第一コリント15章22節、フィンランド語の聖書からの訳)
強い信仰はこの御言葉を大きな文字で心に書きつける。また、地上から遠く離れた大空一杯に描くように高く書き上げる。信仰はこの御言葉で言われていること以外には何も聞かず何も考えず何も知らない。あたかも、この世にはこの御言葉以外に書かれたものは何もないかのように。生きること活動することの全てはこの御言葉の中だけであるかのように。このように信仰することができるならば、我々は喜びのうちに生き喜びのうちに死ぬことができよう。この信仰が我々に教えていることは、キリストは自分自身のためだけに復活されたのではなく、我々のために復活されたということだ。それで我々はキリストの復活という防壁で守られて、かの日には我々も復活を遂げて彼と共に永遠に生きることになるのだ。
確かに我々の復活はまだ秘められたことで目の前で起こることにはなっていない。しかし、それはもう既に起こったと言っていい位に確実なことなのだ。心の目を将来の復活にしっかり向けていれば、今目に見える全てのものは中身のない殻にしか過ぎなくなるだろう。天と地において目にすることは他には何もないというくらいに。それで、我々はキリスト信仰者が埋葬されるのを目にする時、信仰の目では全く別のことを見ているのだ。そこには墓も遺体もない。見えるのは、死を超えた命であり麗しい園であり、そこで憩う新しい人たち、永遠の命に与って生きる至福の人たちなのだ。