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2024年5月12日
ルカによる福音書24章44〜53節:
「イエス・キリストはみ言葉を通して働かれる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「初めに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の福音書は、ちょうど先月のルカ24章の箇所の続きになり、またルカの福音書の結びのところになります。前回は、私たちのイエス・キリストの救いは、どこまでも「イエス様の方から」の恵みであり、それは信仰もその生活も、決して律法ではなく、神の賜物であり、福音から生まれ始まり、福音によって強められていくことを教えられたのでした。今日の聖書箇所は、先月の最後で少し触れましたが、
2、「どのようにイエスは働かれるか」
そのように「イエスの方から」の働きは具体的にどのように働かれるのか?ということから始まっています。復習を兼ねて見てきますが、44節
「44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
イエスは弟子たちを最も大事な教えに立ち帰らせますが、それは突然、湧いて出てきたような新しい教えではありませんでした。最も大事なこと、それはイエス様自身が「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと」とある通りに、十字架の前、一緒に旅をしてきてきた時にすでにイエス様が教えてきたこと、しかも旧約聖書から教えてきたこと、そして「わたしについて」、つまり、十字架も復活もその自身が教え聖書も約束してきた、み言葉の成就なのだとイエスはご自身のみ言葉に立ち返らせるのです。
A, 「聖書はイエス・キリストを指し示す」
このイエス様の言葉から何を教えられるでしょうか。まず一つは、聖書は全てイエス・キリストを指し示している、イエスを伝え証しているということです。まさにイエスご自身が「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある」と言っています。このイエス様の時代は「旧約聖書」という言葉はなく、聖書といえば「モーセの律法、預言書、詩篇」の事です。つまりそれは私たちから見れば「旧約聖書」を指しているのですが、それについてイエスは「わたしについて書いてある」とはっきりと言っているのがわかります。ですから、旧約聖書の言葉もまた、皆、キリストを中心としていて、やがてくるキリストを証しているのだということは、キリストのメッセージは、後の弟子たちや教会の偉い人が勝手に考え出したり編み出した創作の教えでは決してないと言うことがわかります。それは紛れもない、神からの救い主イエス・キリストの証明のメッセージなのです。ですから私たちは旧約聖書を読んでいくときにも、このことは福音を理解するたの大事な助けになります。旧約聖書はただ律法的な言葉が並んでいる律法の言葉というのでは決してない。あるいは私たちと全く関係のないユダヤ人、イスラエル人に関わることだということでも決してないということです。旧約聖書もイエス・キリストを中心としイエスキリストを指し示しているのですから、十字架と復活を中心として読んでいくとき、旧約聖書にも私たちは福音と神の恵みによる救いの本当のメッセージを聞くことができるのです。旧約聖書にもキリストの福音は溢れているのです。
B, 「聖書の神のみことばを通して」
第二に、このように、イエスご自身は絶えず聖書を通してみ言葉を語って教え、働かれてきたように、これからも変わらずイエス様は私たちにもそうであるという事にやはり立ち返らされます。事実この後、遣わされる使徒達もそのように、聖書を通して教え、そこにこそ主の力は現され教会もあり宣教もあったでしょう。そのことが今も変わらず、主なる神は、どこまで聖書のみ言葉を通し、み言葉を解き明か、み言葉の約束を与え続けることによって、その「イエスの方から」の恵みをずっと私たちに働かせ続けておられる。イエスは、これまでもそうであったし、これから宣教に遣わすこの時も、そこから決してずれないのです。
C, 「なぜか?それはみ言葉は真実であり力があるから」
では第三に、それほどまでになぜみ言葉、あるいは「み言葉を通して」は重要なのでしょうか。それはここでイエスがいう通りです。
「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。
44節
と。なぜ、み言葉を通してなのか?それはまさに「神の力はみ言葉にこそある」のであり、み言葉こそ「必ずすべて」その通りになる真実な力であるからに他なりません。イエスが言う通り、旧約聖書はその記録です。天地創造は「神の言葉による」創造です。ヨハネの福音書の最初に、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(新改訳聖書)とある通りです。そして神はその「言葉で」世界とアダムとエバを祝福し、言葉で二人を導きます。そのアダムとエバの堕落と罪が入ったのは、神の言葉への疑いと否定から生まれます。その後はどうでしょうか。アブラハムには神はその姿を具体的に現わされるところから始まっていません。まず見えない神が言葉と約束を語り、アブラハムを「まだ見ぬ地へ」と言葉で遣わすでしょう。そして人間の常識ではあり得ない、信じられないような言葉さえも告げられます。例えば、100歳のアブラハムとサラに子供が与えられると。二人は全く信ぜず笑います。しかしそれに対して主からの「主にとって不可能なことはあろうか」という言葉の通りに、つまり主の言葉こそ実現していくでしょう。アブラハムとサラの疑いの通りになっていったのではありません。神の言葉がその通りになって、イサクは生まれます。さらにあの不肖の息子ヤコブに対する神の愛と約束も言葉によるものでしょう。そして罪深いヤコブでしたが、彼はまさにその憐れみに満ちた神の言葉にこそ支えられ助けられ信じて歩んでいき、神の言葉の通りのことがヤコブの道にはことごとく起きました。モーセは、その背中以外は、神を見ることができませんでした。しかし神は言葉を持ってモーセを遣わし、言葉を持って助け、モーセの言葉や思いではなく、神の言葉こそがその通りに成就していきます。ヨシュアしかり、サムエルしかり、ダビデしかり、イザヤなどの預言者しかりです。詩篇の記者もそのことを沢山、証しています。それは新約聖書でも全く同じで、ルカの福音書の記録も、主のみ言葉はその通りになるということの証しで溢れていたでしょう。まさに、聖書はそのことで一貫しているのです。イエスはそのこと、つまり「み言葉は力ある、その通りに「必ず全て」実現する真実な言葉である」と言うことへ弟子たちを向けさせようとし、私たちをもそこへと向けさせようとしているのです。
3、「「イエスが心を開いて」とある」
これまで見てきた「イエスの方から」「神の方から」の恵みの大原則。今でもイエスは、私たちへ「イエスの方から」絶えず、働いています。しかしその素晴らしい恵みをイエス様は、何よりみ言葉を通して、み言葉の真実な約束と、その通りになるその力を与え続けることで実現してくださっており、それによって私たちを力づけ、慰め、平安を与え、そして遣わしてくれているのです。そしてそのみ言葉には、私たちがクリスチャンとして歩むために、み言葉とともに私たちに力強く働く更なる神の恵みがあります。こう続いています。
「45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。
45−48節
みなさん、これでまで「み言葉が大事」と繰り返していますが、しかしそれを律法的に捉えてしまっていることはないでしょうか?「ああそうか。み言葉が大事だから、もっと自分で頑張って努力してみ言葉をもっと悟らなければならない。み言葉を信じなければならない。」そのように「自分の力で〜しなければ行けない」と。しかし実はそうではないことがここにわかるでしょう。弟子たちはイエスからそう言われて、では「自分からもっと悟らなければ」と言って自分の力で悟りに至ってはいません。ここに「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と書いてあるでしょう。何度も見てきた通りです。弟子たちは自らでは悟ることはできませんでした。誰一人です。ここでもそうです。彼らもみ言葉が大事なのはわかった、いや3年間共に歩む中で、すでに分かっていたかもしれません。しかしそのイエスの十字架と復活にある救いの真の意味を知り、それを信じ確信し喜ぶ信仰は彼ら自身からは生まれなかったのです。最初は同じように、彼らも律法的に「自分が聖書を」とか「自分が神のために、イエスのために、神の国のために」となったかもしれません。しかしそれだと前回も見たように、彼らはイエスの復活の日であっても、福音を全く悟っていなかったし、約束も全て忘れてしまっていたでしょう。悲しみと失望に暮れるしかなかったでしょう。彼らはどこまでも的外れでした。しかしみ言葉を福音として、喜びとして、救いとして、悟らせ、心を開いたのは、彼ら自身ではなくイエスであることがここにはっきりと書いてあるでしょう。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と。
イエス・キリストは、み言葉を通して働きます。み言葉こそ力です。もちろん聖書を読むことや暗誦することは大事です。しかし私たちは「み言葉」を理解することを律法的に捉える必要はありません。私たちが頑張って理解するではないのです。むしろそれはできません。み言葉を通して、福音を悟らせ、私たちに喜びと平安を与えその歩みを導いてくださるのも実は、イエス・キリストご自身なのです。「あなたがたが自らで、聖書を信じて、理解し、確信を持って、頑張って努力して、喜びなさい、平安になりなさい」となると何か変でしょう。矛盾するでしょう。神や神の国のことを「頑張って、理解し、喜び、安心する」というのは矛盾するし、真の喜びや安心ではないし、そもそもできない、成り立たないことです。イエスはそのようには教えていないのです。むしろ、み言葉を持ってイエス様ご自身が、聖霊が、私たちに働き、そしてイエスが、聖霊が、心を開いて福音を悟らせてくださり、私たちに喜びと平安が与えられるのです。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とある通りに。だからこそ信仰はやはり私たちの行いでも律法でもなく神の恵み、賜物であることにつながっているでしょう。だからこそ、神が与え、悟らせ、神が喜びと平安で溢れさせるのも、それはみ言葉を通して「イエス様が心を開いて」私たちのところへ来るのだと言うことは、まさに天からの素晴らしい福音の出来事だとわかるでしょう。私たちは今、そのことに与っているのです。だからこそ毎週、礼拝でみ言葉に「聞くこと」は大事ですし意味があるのです。
4、「何を宣教するのか。福音とは何か」
そしてそのことは47〜48節の言葉にも関わってくる恵みです。これは有名な宣教を示唆する言葉です。ここでは「罪の赦しを得させる悔い改めが」とあるでしょう。つまりこれは「宣教の内容」「福音の内容」です。はっきりと「罪の赦しを得させる悔い改め」こそ宣教すべきことであり伝えるべき律法と福音であるとイエスは言っているのです。けれども現代は「罪や悔い改めは暗い言葉、聞きたくない言葉だから語ってくれるな」と、教会から敬遠され語られなくなっていると言われています。その方が人が集まるからとも言います。しかしそこで一体どんな福音を語っているのでしょうか。確かに「愛」という言葉は強調されますが、しかしどんな愛なのでしょうか。自分の神の前の罪もわからず、悔い改めも知らず、十字架と罪の赦しのない「神の愛」などあるのでしょうか。しかしイエスははっきりと語るべき律法と福音とは何か、証すべき宣教すべきは何かを伝えています。それは罪の赦しを得させる悔い改めだと。悔い改めと十字架の事だと。そしてその罪の赦しこそ福音、その罪の赦しの十字架の証人こそ、教会であり、宣教なんだとイエスは言っているのです。そうです。人間の理性や常識では、神の前の罪の赦しなんてどうでもいいことかもしれません。むしろ人は自分にも世にも「罪などない」になっていきます。罪など聞きたくない暗いことです。人間の好みにそのまま従えば、罪の赦しや悔い改めなどは排除したいこと、それが普通かもしれません。人間は罪人だからこそ、罪の赦しの奥義、十字架は、私たちの常識や好みでは目を背けたい好ましくない脇に寄せたいことになるのは当然の流れなのです。しかしだからこそ、ここでその人が聞きたくない「悔い改めと罪の赦し」こそが、証しされるべき福音なのだとイエス様が言っていること自体に、私たちの思いをはるかに超えた、私たち自身ではできない「イエスがなさる、イエスが悟らせ心開く」という大原則が貫かれているのです。イエスが心開いて悟らせてくださることだから、人間自らでは理解できない、十字架の罪の赦しは、私たちの理解となり、本当に喜びと真の平安になります。そして「律法によって」ではなく本当に神から与えられ湧き出てくる喜びと平安であるからこそ、それは義務的でも律法でもない、本当の証し、本当の宣教になっていくのだと、イエスは伝えてくれています。そのことを保証するように49節の言葉が続いています。
5、「み言葉と聖霊」
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。
49節
と。聖霊を与える約束です。イエスはこの後、天に昇ります。しかし目に見える復活のイエスがいなくなったからと「イエスの方から」は止まってしまうでしょうか。そうではありません。イエスの霊が与えられ、イエスは常に共にいて「イエスの方から」はずっと続くでしょう。まさに聖霊は、み言葉に、そして信仰に豊かに働くイエス様の霊であり、主なる神です。目に確かに見えません。しかし弟子たちに対してと全く変わらず、今も聖霊は「聖霊の方から」み言葉を通して私たちの信仰にも働いてくださり、「イエスの方から」の恵みを続けてくださっているのです。それは「み言葉を通して、賜物である信仰に」なのです。ですからみ言葉が語られている時、それはイエスが私たちに語っている素晴らしい時です。私たちを信じさせ、喜ばせ、安心させるためです。罪の赦しの福音を喜びと感謝を持って証するように遣わすためにです。牧師はそのための道具にすぎません。私は何も与えることはできないし力はありません。しかしイエスにこそ力があり、イエスの言葉に力があるのです。そのようにイエスが私たちの心に働いて、イエスのみ言葉に力があるからこそ、み言葉によって罪の赦しの福音の奥義が私たちに開かれ、私たちに真の喜び、真の平安が満ち溢れるのです。それはイエスしか与えることができません。そのようにしてまさに52〜53節にある通り、弟子たちが約束の聖霊を受けるまでエルサレムに止まりながらも宮で非常な喜びに満たされ、賛美に溢れていたのです。その信仰、その喜びはどこから来るのか?賛美はどこから来るのか?もちろんキリストからですが、パウロはこう言っています。
「‘実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 」(ローマ10:17)
と。これはあのルカ10章、マルタの妹のマリヤが、ただイエスの言葉を聞いていたことこそを、イエスが「最も大事なこと」と伝えたのと一致しています。自分が、神をもてなさなけれならない、神を喜ばせなければいけない、喜ばなければいけない。賛美しなければいけない、とまず自分が主体で、主役で、神のためにまず自分が何かをしなければ、という信仰、賛美、礼拝、喜びも律法にすることに、そこに真の喜びや賛美はあるでしょうか?それは忙しなく動いていて、苛立ち、マリヤを裁き、イエスにまで不平を言うようになってしまった、マルタの結末になってしまいます。真の平安も喜びもありません。ルカの福音書は、喜びと賛美で始まり、52節以下、喜びと賛美で終わります。ルカの福音書の真ん中のルカ15章の放蕩息子に代表される三つの例えは、やはり救いの喜びですね。イエス様は真の喜びと平安を与えるために来らました。それは「まず私たちが神のためにしなければいけない」の律法からは生まれないでしょう?真の喜びと平安は、イエス様の方から、み言葉を通して、聖霊の豊かな働きによって来る、福音であり、福音からくるものであり、それ以外にはあり得ないのです。イエス様は言われるでしょう。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ14章6節
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ヨハネ10章9節
ぜひ、み言葉をとおして福音が与えられている幸い、イエスの語りかけである福音に聞くことができる幸いを賛美しましょう。そしてこの恵みに取り囲まれて、福音の喜びと平安に満たされて、私たちは罪の赦しの福音を証していこうではありませんか。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
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