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主日礼拝説教 2024年5月19日 聖霊降臨祭
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エゼキエル37章1-14章、使徒言行録2章1ー21節、ヨハネ15章26-27節、16章4b-15節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来、復活の日に復活できるようになったことを喜び祝います。そして、聖霊降臨祭では、イエス様が天に上げられた後、約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に留まって勇気と希望を持ってこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。
本日の説教では三つのことについてお話します。一つ目は、聖霊降臨の出来事の時、ペトロがそれは旧約聖書のヨエル書の預言が実現したことだと言いますが、それはどういうことか?二つ目は、本日の旧約聖書の日課はエゼキエル書ですが、そこで霊について言われていました。この個所は実はキリスト教会に大いに関係するということについて。三つ目は、イエス様が福音書の日課の中で聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいますが、それはどういうことか?以上の三つのことを見ていきます。
聖霊降臨とは、先ほど朗読して頂いた使徒言行録2章にある通り、イエス様の弟子たちが聖霊を受けて群衆を前にして、群衆のそれぞれの母国語で話を始めたという出来事です。どんな言語にしても外国語を学ぶというのはとても時間と手間がかかることです。それなのに弟子たちは留学もせず語学学校にも行かず突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?群衆の誰かが言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。
弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったのか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは出身民族は異なるが皆、旧約聖書の天地創造の神を信じるユダヤ教徒です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いてすぐ頭に浮かぶものと言えば、その筆頭は出エジプトの出来事でしょう。大昔イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに向かって民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。それと、神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚からの祖国帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。
ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」の中には、以上のものに加えてもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが自分の目で直に目撃したイエス様の出来事でした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子、旧約聖書に預言されていた救世主メシアであった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられた一連の出来事です。イエス様の出来事には旧約聖書の預言が無数に絡んでいました。なので、これもまぎれもない「神の偉大な業」でした。こうしてユダヤ教の伝統的な「神の偉大な業」に並んで、イエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。
そこでペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象を説明します。群衆の中には新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れなことを言う人もいました。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?
ペトロは、この現象はヨエル書3章1ー5節の預言の成就であると説き明かしします。分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまって彼らは異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出した。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったとわかったのでした。
ところでペテロは、ヨエル書の箇所を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言いました。「終わりの時に」とはギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文を見ると、「終わりの日々」という言い方はありません。ペトロが原文を改ざんしたのか?そうではありません。旧約聖書のギリシャ語版で「終わりの日々」と訳されていました。旧約聖書をギリシャ語に翻訳した人たちは終末論の観点で訳したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。
それでは「終わりの日々」とはどんな日々でしょうか?それは、イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になるということです。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直されるという天地大変動の時です。大変動の後に唯一残る国として神の国が現れる、その時、誰がそこに迎え入れられるかどうかという最後の審判が行われる。それで、イエス様の再臨を待つ日々は「終わりに向かう日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちました。しかし、仮に3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。神が罪深い民に怒りを表す日で、バビロン捕囚の前は敵国が攻めてくるような災難を意味しました。捕囚の後の時代には終末論的に理解されるようになります。イエス様の十字架と復活の後の時代は、彼の再臨の日を意味するようになります。
21節を見ると、そういう天地の大変動の時の破滅から救われて神の国に入れるのは、救い主の名により頼む者であると言われています。そして、22節から後のところで、ペトロは群衆に対してそのような者になりなさいと説いていきます。こうして聖霊降臨の日に異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。その最初の宣べ伝えの日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。
本日のエゼキエル書の日課にある出来事は、イエス様が登場する500年以上も前のことです。かつて神に選ばれたイスラエルの民でしたが、国の指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続けた結果、ついに神から罰として強大な敵国を送られてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいます。国民の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の古代史のところで出てくる「バビロン捕囚」の事件です。連行された者の中に預言者のエゼキエルがいました。ある日エゼキエルは、神の霊に導かれてある谷に連れて行かれます。そこで無数の枯れた骨を見ます。ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられます。これが500年後に起こる聖霊降臨やキリスト教会の誕生とどう関係するでしょうか?それについて見ていきましょう。
37章11節に、なぜ天地創造の神はエゼキエルにこのような光景を見せたのかが言われます。大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びた自分たちは荒野に放置された骨も同然だ、希望はなく消滅するしかないと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できると約束する。神は、約束を本当に実現する力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。そこまでされたら信じないわけにはいかないでしょう。このように、この光景は国難に陥って国が滅びてしまった民が復興することを確信させるために見せられたのでした。
ここで14節をよく注意して見ます。新共同訳では、「わたしがお前たちの中に霊を吹き込む」となっていますが、ヘブライ語原文は「わたしがお前たちに私の霊を与える」です。新共同訳では単に「霊」と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。つまり、聖霊です。さて、歴史的事実としてイスラエルの民は紀元前538年から祖国帰還ができるようになり復興を遂げます。しかし、民は本当に聖霊を受けて復興を遂げたのでしょうか?
確かに、民は祖国に帰還しエルサレムの町と神殿を再興しました。しかし、ユダヤ民族は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国などの大国に支配され続け、かつてのダビデの王国の再興など夢の夢でした。さらに、民自身が神の意思に沿う生き方が出来ていないのではないかという疑念も起こっていました。イザヤ書2章に、異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言がありますが、現実はほど遠いものでした。そうなると、民に聖霊が与えられて復興を遂げるというのは、祖国帰還と町や神殿の再興とは違うことを意味するのではないかと考えられるようになります。つまり、エゼキエルの預言はまだ未完という理解です。
どうしてこんなことになったのかと言うと、神が本当に目指していたことは、特定の民族の復興ではなくてもっと大きなことだったからです。それは、堕罪の時に起きてしまった人間の罪の問題、罪のために神と人間の結びつきが失われてしまったという問題を解決することでした。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者たちに言葉を下したのです。しかし、言葉は具体的な歴史の中で下されます。そのため、言葉は歴史状況に結び付けられて理解されてしまいます。神は祖国帰還と復興を実現させることで、本当はもっと大きなことを行う力があることを前もって知らせたのです。
それでは、全人類に関わる罪の問題が解決したのはいつでしょうか?それは、神がこの世に贈られたひとり子のイエス様が十字架の死を遂げて人間の罪の償いを果たし、人間を罪の支配から贖い出した時でした。そしてイエス様を死から復活させて死を超える永遠の命に至る道を人間に開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は実は、罪と死の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで解放されて聖霊を与えられて「新しい命に生きる」(ローマ6章4節)ようになることを見越した預言だったのです。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル37章12
13節)というのも、罪と死の支配から解放された者たちが将来の復活の日に復活を遂げて、天上のエルサレムとも呼ばれる神の国に「帰還」するという、復活の日をも見越した預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的出来事だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事と将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということをいつも覚えて見なければいけません。
それでは、聖霊とは一体何者でしょうか?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何だか物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼んでいます(ただし、フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)。まさしく人格を持つ者です。
それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて語ります。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で孤児のようになることはない。そこでイエス様は聖霊を送る約束をしますが、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊と言うとき、真理とは何を意味するのか?
まず、聖霊が「真理の霊」であるということについて。キリスト信仰の観点では、聖霊の力が聖書の御言葉を通して働かないと人間はイエス様を救い主と信じる信仰に入ることは出来ません。人間の理解力、能力、理性だけでは、いくら聖書を読んでもイエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の今のイスラエルの国がある地域でナザレ出身のイエスは旧約聖書の神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。信仰なく理性だけですと、こういう歴史上の人物理解に留まります。歴史の教科書に書いてある理解です。
ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は表層的なもので、深層部にはもっと大きなことがあるとわかるようになります。大きなこととは、万物の創造主である神の計画が実現したということです。つまり、イエス様が神の力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言から明らかになった。じゃ、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになった。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して罪の償いを受け取ることが出来、償いを受け取ったら神から罪を赦された者と見てもらえるようになる。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになる。この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。以上の旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と死からの復活が行われた。これらのことが、歴史の表層部には見えない、深層部にある本当のこと、真理なのです。理性では到達できない領域です。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は聖霊の力が働くのでこの真理に到達することができるのです。
聖霊の力が働いたおかげで真理が見えるようになると、今度は聖霊は「弁護者」の働きをします。聖霊は何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのです。何者が私たちを告発するのか?まず、サタンと呼ばれる霊があります。悪魔のことです。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、言葉も行いも心の中も神の意思に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、罪の自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記にあるように、悪魔は神の前に進み出て「こいつは見かけは善人ぶっていますが、一皮むけばどうしようもない罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神の結びつきを失わせることです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けて立ち去ったりすれば、それはもう悪魔にとって拍手喝采なことになります。
聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向いて次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられて微動だにしていません」と。キリスト信仰者は神に罪の赦しを祈り求める時、このような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは襟を正して本当にもう罪は犯すまいという心を強くするでしょう。
悪魔の告発の他にもう一つ、聖霊が弁護者として働く場合があります。それは、キリスト信仰者が誤解や中傷、酷い場合は迫害を受ける時です。本日の福音書の日課は16章の1節から4節の前半までが省略されていましたが、そこのところでイエス様は弟子たちに迫害の危険があることを述べています。弁護者としての聖霊を送るというのは、このことに関してなのです。
キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰に入った段階で神の意思である十戒を心に刻みつけられています。人を傷つけない、見下さない、敬意をもって接する、偽りを語ったり広めたりしない、盗んだり妬んだりしない、不倫をしない等々のことを行為だけでなく、言葉や考えにおいても守ろうとします。しかし、行為では守れても、言葉や考えで守り切れないことがあります。それで、先ほど述べたように弁護者に支えられて罪の赦しを何度も何度も確認して前に進むのです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神からこう言われます。「お前は罪の赦しの恵みに支えられて罪に反抗する生き方を貫いた。このことは弁護者から十分すぎるほど聞いている」と。
そういうわけで、主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、誤解や中傷があっても、何も心配はありません。私たちには永遠の命の弁護者がついているのです。私たちはただ、罪の赦しの恵みを支えにして、神の意思に沿う生き方、罪に反抗する生き方をしていれば、何のやましいことも後ろめたいこともありません。神の意思に沿う生き方がどれほど社会のためになるのかわからない方が憐れで惨めなのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン