2024年6月30日(日)聖霊降臨後第六主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

「夏に牧師がフィンランドに一時帰国するため、その間のスオミの礼拝は協力牧師が担当します。」

マルコ521−43節(2024630日)

「新しく生かす、力ある神のみ言葉」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の箇所の前に5章のこれまでのところを振り返ってみますが、イエス様と弟子達がガリラヤの向こう側に渡った時、レギオンという名の悪霊につかれた、墓場を住まいとする男がやってきます。その悪霊はイエスが神の御子だとわかり恐ろしくなり「かまわないでくれ、苦しめないでほしい」と求めます。しかしイエスはその通りにせず、その惨めな男性を哀れんでくださり、悪霊レギオンを近くに飼われている豚に乗り移らせ、その男性を悪霊から救いだしました。そして、レギオンは豚と共に湖になだれこみ滅ぼされたのでした。助け出された男性はイエスと一緒に行きたいと申し出るのですが、イエスは「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と彼への召命を与えて、主がしてくださったことを身内へと伝えるようにと遣わしたのでした。それが20節までの出来事でした。 そこで今日の箇所になります。

2、「会堂長ヤイロ」

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

21−24

 イエス様は弟子達と再び、湖を渡って対岸へ戻ってきます。その前からイエスに会うために群衆が絶え間なく押し寄せていた状況でしたから、イエス様と一行が戻ってくるのを待っていたかのように群衆は集まってきたのでした。そこに「会堂長」というユダヤ教の会堂であるシナゴーグを管理するヤイロという男性がイエスのもとにやってきてひれ伏すのです。ヤイロは「娘が死にそうな状況であるので、娘のところに来て手を置いてほしい。そうすれば娘は助かります。生きることができます」と願うのです。娘を思う父親であれば当然の叫びです。そしてヤイロは「手を置いて」と言っているように、これまでイエスが具体的に手を置いて(131節、41節)病気の人を癒したり、悪霊を追い出した情報を聞いていたのでしょう。彼はそれを聞いてイエスは癒すことができると信じて、イエスに求め叫んだのでした。先程の向こう岸の墓場を棲家とする男性にも目を止めて助け出したように、イエス様はこの会堂長ヤイロの声も、決して無視せず、心に留めます。そこには、イエス様を信じて求める声を、それが誰であってもイエス様は蔑ろにされない、深い憐れみが表されています。イエスはそのヤイロの求めに答えて、一緒にヤイロの家に向かうのです。

 そのイエスのご自身を求めるものへの憐れみは、この後、ヤイロとは関係なく起こる一人の女性にも不思議な形で表されます。群衆もそのイエスに従って歩いていたところ、25節以下にこんな出来事が起こるのです。

3、「この方の服にでも触れれば」

さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

25−28

 病いに苦しむ一人の女性が、群衆の中からイエスに縋るのです。彼女は、12年の間病気でした。挙げ句の果てに「多くの医者にかかってひどく苦しめられた」とあります。彼女はあらゆる種類の治療を試したようです。タルムードというユダヤ律法の解説書には当時は11の治療法が挙げられていたようですが、ほぼ迷信に近いような治療法まで記されていたようなのでした。彼女はそのように、ほとんど医者でもないような施術を行う治療師の迷信的な治療を様々試したようなのです。しかし根拠のない治療法なので、治ることなくただ費用だけ消費され全財産を失い、おまけに治ってもいないのですから、病状も悪化するという悲惨な状況でした。しかし彼女も、ヤイロと同じ、イエスのことを聞いて、イエスなら癒してくれると信じるのです。しかし大勢の群衆です。しかも当時は女性がラビである教師に話しかけるなどできないほど女性は地位が低かった社会でした。それゆえ彼女は話しかけることさえもできないのです。そこで彼女はイエスの「服にでも触れれば癒していただける」。そう思って、服に触れたのでした。その時、人間の常識や理解からはかけ離れた不思議なことが起こるのです。

すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。

29−32

 女性は、イエスの衣に触れただけです。しかしその瞬間に、病気が治ったことを実感したのでした。そしてイエスも「自分の内から力が出た」ことに気づきます。つまり、イエスの衣服だからとその衣に特別な力があるというのではなく、「イエスご自身から」力が現されたのでした。イエスは全てを知られるお方です。ですから、もちろん自分に起こったことをすでにわかっていたでしょう。しかしイエス様はあえて「わたしの服に触れたのは誰か」と尋ねるのです。なぜでしょうか?

4、「イエスはなぜその女を探したのか?イエスの真の目的」

女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

33−34

 みなさん、イエス様が、ただ病気の癒しのためだけに来られた、あるいは、病気を治すことが第一の目的であり、ゆえに、病気を治すことが救いであるというのなら、イエス様は女に話しかけずに、そのままにしたでしょう。多くの病人に衣類でもなんでも触らせ、癒してその働きは終わりでいいでしょう。しかし、イエス様の来られた目的はそれ以上です。もちろん大勢の人々が、癒されました。しかし、病気は癒やされても、誰でもまた他の病気になったり、寿命がくれば死を迎えます。そして、癒された人も、悔い改めて神に立ち返ることがなければ、つまり、これからイエス様がなさる十字架と復活の福音を知り、受け取り、信じることがなければ、死の先の永遠の命、つまり、イエス様が真に与えようし、そのために世にこられた、その真の救いを経験することはできないのです。ですから、この女性も、ただ癒やされ、それで解決、終わりではないのです。イエス様は相手が女性であることもその病気も知ったことでしょう。しかし女性が通常、自分に話しかけることはなかなか難しいこともよく知っています。だからこそです。「誰か」と尋ねるのです。女性は、恐ろしさに包まれますが、自分だと名乗り出るしかありません。そこで彼女は名乗りでで自分の経緯を話さざるを得なかったのでした。しかし、そのようにイエス様が彼女と交わり、言葉を交わし、言葉を伝えること、教えることこそがイエス様が「誰か」と尋ねた目的でした。そこでイエス様は何を伝えますか?イエス様は優しく教えます。「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と。もちろん、彼女にある何かに直したり救ったりする力があるのではありません。治したのは、イエス様の力です。さらに、救いに関して言えば尚更ですが、それは毎回強調しているように、救いはイエス様の力、イエス様の救いであり、「あなたの信仰」とあるその信仰さえも律法ではなく、福音であり、賜物であり、そのように、救いは神の救いであり、人のわざではありません。イエス様ご自身もその癒しと救いの力は、自分から出たものであり、神のわざであることを知っています。ですから、その彼女に与えられた求める想い、イエス様なら治すことができるという信仰、それもヨハネ327節に「人は天から神から与えられるのでなければ何物をも持つことができない」とあるように、神からの賜物としての信仰ではあったでしょう。まさにそのような意味でこそ、彼女に「与えられた」その信仰ですから、イエス様は確かに、それを彼女のものとしてくださり「あなたの信仰が」と教えるのです。確かにその通りです。それは、彼女にとっても、何か彼女自らの力で搾り出したような律法の信仰ではなかったでしょう。もはや自分も医者も何もできないという状況です。そんな中で、「自分が何をしなければならないか」の思いではなく、ただただ「イエスが何を人々にしてくださったのか」の良い知らせを聞き、それをそのまま受け入れ、そのまま促されて、そのイエスにすがれば、その衣でも触れば、癒されるという信仰です。彼女に何か律法的な思いがあったとすれば、社会が定めた聖書的ではない慣習、女性がラビに話しかけてはいけない、そのような恐れや心配は見られます。しかし、そのような彼女の律法的な動機や行為は何もここで働きません。むしろそのように律法でイエスへ話しかけるという消極的な思いを、開いてくださった、自分の全てを語るように導いてくださったのも、「イエス様の方から」です。まさにイエス様からの憐れみの言葉、福音によるものでしょう。全ては「イエスが何をしてくださったのか」「イエスがしてくださったこと」によって、促され、導かれ、この救いは起こったのでした。イエス様のわざです。しかし、イエスがそのように彼女に与えてくださり導いてくださった信仰が彼女を通して働いたからこそ、その救いは「あなたの信仰」であり、その信仰が彼女を救った、その通りなのです。

 私たちも同じです。私たちの信仰も、律法や私たちの意思の力によるものでもなければ、私たちの努力や成し遂げたものでも決してなく、どこまでも神の賜物であり、み言葉と聖霊によって私たちに与えられたものです。しかし「与えられた」のですから、それゆえに私たちの信仰でもあるのです。私たちの信仰であり、私たちが確かに「信じる」のですが、それは「私たちの力」ではなく、どこまでもみ言葉と聖霊が豊かに働いて、神が力を現すものであるがゆえに、聖書にある通り「信仰は力がある」のです。そのような意味でイエス様はいつでも信じなさいと、言ってくださるし、私たちにも「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ってくださっているのです。感謝ではありませんか。

5、「「恐れることはない。ただ信じなさい」信仰は福音」

 そして、35節からヤイロの話に戻ります。ヤイロの家のものが来て言うのです。

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 35

 なんと、イエスが到着する前に、ヤイロの娘は亡くなってしまいました。その家の使いのものは、絶望のうちに言います。「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」そう、もう死んでしまった人を生き返らせることはできないというのは、いつの時代も変わることのない事実であり現実でした。そしてそれはイエスでさえもできないというのが、その使いの言葉には表れています。しかし、36

イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

36

 イエス様のヤイロへの言葉「恐れることはない。ただ信じなさい」。ヤイロも使いの者の絶望的な言葉を聞いて、深く悲しみ、失望し、もう遅かったと思ったことでしょう。しかし、ヤイロのそのような疑いや絶望に対して、イエス様はこの言葉で強め励ましているでしょう。

「恐れることはない。ただ信じなさい」と。

 みなさん。このイエス様の言葉。これは「〜しなさい」と命令形だからと、この失望に沈むヤイロを責め立てる律法の言葉だと思いますか?違います。「恐れることはない。」とあるでしょう。そして「ただ信じなさい」です。イエスはヤイロが恐れていること、もう絶望していることをを十分に知っています。そんなヤイロに「恐れる必要はありません」と言ってくださっているイエス様の声は、ご自身になおも目と希望を向けさせる声ではありませんか。その「信じなさい」なのです。その「信じなさい」に、ヤイロの挫折した心、疑いの心は信仰へと再び鼓舞されるでしょう。そう、娘の死という現実の前に絶望するヤイロは自分で自分の信仰を鼓舞するなんてことは決してできません。みなさん、ここでも、イエス様の言葉こそがヤイロの信仰を再びよみがえらせた、復活させた、立たせているでしょう。みなさん、これが恵みの信仰の素晴らしさ、信仰が福音であることの素晴らしさなのです。

6、「神の言葉、新しく生かす力」

 そこでイエスはヤイロと3人の弟子だけを連れて家の中に入ります。家の中の人々は、大声で泣き喚き騒いでいます。しかしイエス様は彼らに「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言います。人々はそんなイエスをあざ笑いました。当然です。死んだのですから。しかしイエスはこれからご自身が行おうとしていることのゆえにそう言ったのでした。そして、娘のところへ行き、

「そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

41−43

 イエス様は娘の手を取り、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言います。その時、少女はすぐに起き上がって歩き出し、準備された食事をとるのです。人々にとってはまさに驚き、信じられない、信じることができないことです。しかし、ここに単純な福音があるでしょう。そう、イエス様は天から来られ人となられた神の御子、その言葉は神のみ言葉です。それは無から天地万物を創造され、塵から取られ型取られた人間に命の息を吹きかけて生きるものとしてくださったその言葉、「全ては非常に良かった」と祝福された言葉、そして堕落した人類にも「女の子孫が」とサタンの頭を砕き勝利することを約束されたその通りに、御子イエス・キリストを人として生まれさせ実現させた、その言葉です。その言葉には、力がある。死者を復活させる力がある。そして信じることのできないことを、信じるようにご自身のみ言葉のわざを現され、信仰を与えてくださる力、そして、その信仰が何度、倒れても、何度絶望しても、何度疑っても、何より信仰を復活させる力がある、神の言葉が、ここに示されていることがわかるでしょう。今日のところはただの癒しの出来事ではない、何よりもキリストとその言葉に血よる力が指し示されている。そのキリストが私たちのために来られ、素晴らしい信仰をもたらしてくださるそのことを今日も教えてくれていると言えるでしょう。

7、「結び」

 私たちは、堕落の子であり、どこまでも神を、その言葉を信じられないものであり、疑い、背を向け、自分勝手に生きようとするものです。アダムとエバのように、自分たちこそが中心であり、神のようになれることを選ぶ、そのような存在でした。「イエスの十字架?、私たちの罪のため?そんなこと信じられない。自分に罪なんてあるものか、自分はそんなに悪くない。世にも家族にも貢献している。刑法に触れるような罪なんてしたこともない」と、そのように神の前の自分の罪も見えない、知らない、教えられても見ようとしないものでした。しかし、そのような私たちに信仰があるのはなぜですか?十字架の血は私たちの罪のためであると、そのイエス様の十字架と復活によって救われたと、毎週告白でき、毎週、その十字架と復活に平安のうちに新しくされ遣わされる事実は、何ゆえですか?自分の力ですか、努力ですか?あり得ません。イエス・キリストのゆえではありませんか?イエス・キリストの方から、私たちに出会ってくださり、招き導いてくださり、語りかけてくださった。み言葉を通して。そのみ言葉を通して、信じられないものが信じるように変えられたのは私の何かではない。ただイエス・キリストのゆえに。そのみ言葉に働く神の力のゆえであると誰もが告白するでしょう。そう、同じように、イエス様は、今日も罪ゆえに弱りはて、疑いに沈む信仰を、悔い改めに導きながら、その悔いる私たちに、イエス様は、責めるのでも裁きで終わるのでもない、どこまでも「憐んでくださり」この「イエス様が私たちのために何をしてくださったのか」の福音によって、信仰を新たにして下っているのです。イエス様は今日も私たちに変わることなく宣言してくださっています。「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ福音を受け取り、安心してここから世に、その福音の証し人として用いられるために遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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