2024年7月14日(日)聖霊降臨後第八主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

714 マルコ614−29

「洗礼者ヨハネの死が私たちに示す福音」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 さて、今日の箇所は、ヘロデ王の話が書かれています。14節に「ヘロデ王」と書かれていますが、彼は、イエス様が母マリヤから生まれた時に、東の賢者からの救い主の誕生の知らせに恐れて「幼児虐殺」の命令を出した、俗に「ヘロデ大王」と呼ばれる人物の息子ヘロデ・アンティパスです。「王」と書かれていますが、ルカやマタイの福音書では「領主」と書かれています。というのは、ローマ帝国は、ヘロデ・アンティパスを王とは認めておらず、ガリラヤとペライヤのテトラルキアという領主として認められていたからでした。ですから厳密には王ではなく領主でした。14節こう始まっています。

14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

 イエスの噂は、群衆が押し寄せエルサレムから律法の専門家さえ観にくるほど広く広まっていました。当然、ヘロデ・アンティパスの耳みにも入るのですが、やはりその「起こった奇跡」や教えていることへの様々な勝手な評価や解釈も噂となって入ってきていたようなのです。15節の「エリヤだ」とか「昔の預言者のような預言者だ」という噂以上に、彼の心に刺さってきた噂は「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 という評判でした。彼はこの噂を聞いて言うのです。

2、「ヘロデ・アンティパスに対する洗礼者ヨハネ」

16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。

16

 この時、その人々の言葉にあるように、すでに洗礼者ヨハネは死んでいました。それは、ヘロデ自身がこの16節で言っているように、彼による処刑によるものであったのでした。17節以下にその経緯が書かれています。

 ヘロデ・アンティパスの妻ヘロディアは、ヘロデ大王の孫娘です。彼女は最初、やはりヘロデ大王の息子でありアンティパスの異母兄弟であるフィリポと結婚していました。つまり、叔父と姪の結婚ということでした。しかし、ヘロディアはその後、今度はアンティパスと婚姻関係を結んだのでした。そして17節にある通りに、この出来事が発端となり、洗礼者ヨハネを逮捕して牢獄に繋いでいたのでした。なぜでしょうか?18節です。

18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。

 洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを教え、洗礼を授けていました。彼は、救い主イエスが来る前に、救い主の道を整え真っ直ぐにするものと預言された預言者でしたが、そのようにまさに福音であるイエス様が来る前に、律法で神の御心、神の前で何がしてはいけないことであるのか、はっきりと示していました。それは当時の領主であるこのヘロデ・アンティパスに対しても例外ではなかったのでした。洗礼者ヨハネは、アンティパスが自分の兄弟の妻ヘロディアと結婚したことを、それは神の律法に違反する罪であると指摘したのでした。この後の20節からもわかる通り、洗礼者ヨハネはアンティパスに時々、聖書の教えを教えていたようなのです。こうあります。

「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

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3、「神に言葉を託されたものの宣教」

A,「神が何を私たちに伝えたいのか:律法と福音の説教」

 ここに、洗礼者ヨハネの、神から召された預言者としてのその宣教の一端を見ることができます。まず、彼はそれが王であろうと領主であろうと、まず聖書から律法を語り、まっすぐと伝えていたということです。私たちも律法を語られる時に、心を突き刺され、痛みを覚えます。恐れ、当惑します。時に、抵抗しようともします。それがヘロデにもありました。しかし、ヘロデにはものすごい葛藤があります。19節では「恨み」「殺そうと思っていた」ともあるのですが、20節では、その教えから「ヨハネは聖なる人であるとも知っていた」そして律法を聞きながら怖れ戸惑いながらも、なお喜んで耳を傾けていたともあります。ヨハネは、律法を語り悔い改めのバプテスマを説いていましたが、しかし同時に、「イエスの道を整え真っ直ぐにする」預言者ですから、ヨハネ1章にもあるように、到来した救い主であるイエスを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と指し示していたのでした。つまり、洗礼者ヨハネの宣教も紛れもなく、律法と福音の説教の宣教であり、それは王であろうと領主であろうと、全く関係なく全ての人々へであったことがわかります。

B,「「人が何を聞きたいか」に流される教会」

 まずこのところから、洗礼者ヨハネの宣教、つまり神の言葉を預かって伝える預言者の宣教、つまり、現代の牧師、そして教会の宣教が教えられていることがわかります。それは、どこまでも律法と福音の説教であり、その宣教は今も変わらないということです。つまりそれは、どこまでも「人が何を聞きたいか」の説教ではなく、「神が何を伝えているのか」の説教であり宣教であったということに私たちは教えられるのです。近現代の個人主義と消費主義社会の発展によって、教会もその世の流れ・流行に流されて、リベラルも福音派もこれと逆の教会や宣教になってきています。つまり「神が何を伝えているのか」ではなく「人が何を聞きたいか」が中心になって、教会や宣教は進められることが多いですし、それがあたかも正しい、宣教や教会の王道であるかのようにもされています。それは名目は隣人愛の名目が大々的に掲げられますが、聖書の教えとはいえ、「人が聞きたいこと、聞きたくないこと」、その必要を何よりも中心に合わせて、聞きたくないことは語らない、罪や悔い改めなんかは人は聞きたくないから、語らなくて良い、語らない方が良いと、なることは珍しくありません。さらには、本当は罪であるのに、もはや世の中や社会では受け入れられて誰も罪だとか思っていないとか、社会的に制度的に認められていることだ、だから、それはもう罪ではない、としてしまうことも教会や説教台で当たり前になされ教えられてもいるでしょう。むしろそれに対して、聖書が罪は罪だと言っていることだからと、あくまでも罪ですということの方が、頭が硬いとか、隣人を愛していないとか、なんて酷い思いやりのない教会だ牧師だなんて言われることも多いです。

C,「洗礼者ヨハネやイエスはそのようにしたのか?」

 しかし、洗礼者ヨハネも、そしてイエス様も、使徒の時代の使徒達もそのようにしたのか?、そのように聖書の教え、律法を歪めてまで、人間の都合の良い教えを教えることで隣人愛を表したのかと問うならば、全くそんなことはないでしょう。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主であっても、「それは罪です」とはっきりと神は何を伝えているのかを教えているではありませんか?洗礼者ヨハネは、確かにヘロデに福音も語り、彼は喜んで聞いています。だからと、もしかしたらもう少ししたら信仰に導けるかもしれない。だから、ここで罪を指摘することはやめておこう、罪だけどもヘロデが気分を害し、せっかく仲間になるのを妨げるといけないから「罪ではないとしよう、罪ではないと教えよう」、とはしなかったでしょう。自分が「それが罪です」ということで、相手は領主であり王のような存在であるのですから、恨まれて牢獄に投げ込まれることも推測できたでしょう。しかしだからと「それが罪です」ということをやめたりはしなかったでしょう。彼は、どこまでも「人が何を聞きたいか」ではなく、「神が私たちに伝えたいのか」を語った。そこに彼の宣教の王道があったし、それが聖書の伝える宣教だったのです。

D,「隣人愛を理由に聖書を捻じ曲げることの自己満足さ」

 事実、みなさん、聖書が罪であると言っていることを、隣人愛の名目や思いやりと称して、罪であることを、それが罪ではないと伝えることが、隣人愛ですか?優しさですか?人の前ではそうかもしれません。しかし、神の前では、その相手は確実に罪を犯すことになり、悔い改めなければ神の前に救いに与れないのです。神の怒りと裁きの座に立ち、滅んでいくのです。それなのに、人の前の一時の満足のために「それは罪でありません」と教えることは、何の愛でも思いやりでもないでしょう。その人がキリストの十字架の罪の赦し、そこにある平安に出会えない、経験できない、与れないのですから。むしろ妨げていることになります。ただ私たちや教会の地上の欲求や願望や自己満足のためにです。ぜひ私たちは、人々を十字架の救いに真に導くために、彼らが真の福音に出会うためにも、その前に、きちんと律法で「これは罪です」と人間の現実を示し悔い改めに導く、それから福音を示していく、律法と福音の宣教者の教会であり続けれるようぜひ祈って行きたいのです。

4、「ヘロデの心の矛盾」

 さて、先ほども言いましたように、ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネとその教えとの出会いにものすごい心の揺れ動きと葛藤があったことが見て取れます。ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、恐れ、保護までし、喜んで耳を傾けていながらも、なんと、恨み、殺そうとまでしていた、という、大いなる矛盾が彼の心にはあります。罪を責められて、やはり素直に聞けず、怒りは込み上げていたのでしょう。しかし、完全に怒り切ることもできない、確かにヨハネの語る福音に喜んだ自分もいた。ものすごい葛藤です。しかし、そこに21節、「良い機会が訪れた」という言葉で展開を迎えるのです。

21ところが、良い機会が訪れた。

 良い機会とありますが、あくまでもヘロデから見ての良い機会であり、まさにあの堕落の時のようにサタンの巧妙な誘惑がそこに忍び込んでくるのです。このようなことがあったのでした。21節続きますが、

「ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。

 自分の誕生日の出来事です。高官も将校も有力者も、自分の支持者でした。彼はご機嫌でしたしょうし、彼のメンツやプライドがまさに高められているそんな時でした。そこで有名な戯曲やオペラの元にもなっているヘロディアの娘の出来事が起こります。まさにアンティパスは自分のために踊った娘へ、上機嫌で「願うものは何でもやろう」というのです。国半分などあげられるはずもないのに、まさに大口を叩き「固く誓って」までいうのでした。しかし、そこにヘロディアは娘をそそのかして、自分の結婚を罪だと批判したヨハネの首を、盆に乗せて、それを自分に欲しいと言わせるのです。アンティパスは26節「非常に心を痛めた」とあるように葛藤しますが、「誓ったこと」であり、そして「客の手前」ともあります。彼は引き下がれなかった、自分を優先させたのでした。そして彼は権力のままその娘の通りにさせ、ヨハネを処刑したのでした。

5、「洗礼者ヨハネは死を通してキリストを指し示す」

 みなさん、ここで疑問に思うでしょう。「神は彼を守れなかったのか?そんな大事な預言者なら、彼の処刑を止めさせることができただろう」と。またある人は理屈をこねていうことでしょう。彼はそんな風に「それは罪です」とストレート過ぎたから、だから失敗したんだ、だから報いを受けたんだ、志なかばで挫折したんだ、それ見たことか、だから、「それは罪なんだ」なんてストレートに言っちゃダメなんだと。みなさん、本当にそう思いますか?でも、みなさん、これと同じ出来事が、まさにこの後、同じように起こるでしょう?そうイエス・キリストです。あのイエス様の場面も、神は止めることができたはずです。いやイエス様自身がマタイ26章、逮捕の場面で弟子の一人が剣で衛兵の耳を切り落とした場面で、言っているでしょう

そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」マタイ265254

 と。イエス様には、つまり神には、イエス様の十字架も、そして当然、ヨハネの処刑も止めることができるのです。神の12軍団以上の天使を今すぐ送ることができるのです。しかし、それをしませんでした。なぜなら、そうしてしまうと、神が必ずこうなると書いていることが聖書の御言葉が実現しないからです。イエス様は、ゲッセマネでも、御心ならこの杯を取り除けてくださいと祈りました。しかし、イエス様は父の御心の通りになるようにと祈ったでしょう。そしてイザヤ5310節からわかる通り、その神の御心の通り起こったことこそが逮捕であり、十字架の死であったではありませんか。洗礼者ヨハネも、キリストの道を整え真っ直ぐにするためにきました。しかし、かつて旧約の時代の正しい預言者たちが沢山殺されたのと同じように、彼も殺されることに、キリストの予兆、雛形があるのですから、この洗礼者ヨハネもまた、十字架のイエス・キリストの雛形です。まさに、このイエス・キリストの十字架の雛形として、この人の目から見れば悲惨な処刑という道を歩むことによって、まさにイエス・キリストの道を示し真っ直ぐにイエス・キリストを指し示す、その召命を全うしているのです。このようにヨハネは用いられていますし、このようにヨハネの処刑を通して、もちろんヘロデの罪深さから、神の義を決して実現できない人間の罪深さ、正義よりも自分のメンツやプライドを優先させ、正義を犠牲にしてしまう、人間の、つまり私たち一人ひとりの自己中心さも示されるのですが、何よりも、そんな罪深い私たちのためにこそ、ここでもヨハネという預言者と彼に起こった出来事を通して、神は、イエス・キリストの十字架を見るよう私たちに差し示している。洗礼者ヨハネは、生涯を通して「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と、この死を通してもイエス・キリストを私たちに指し示している、それを全うしていることを教えられるのです。

6、「私たちは誰を見るか?」

 私たちは、今日この聖日、イエス様から与えられた御言葉に、説教を通して、誰を見るでしょうか?ただ悲惨な出来事だけを見て驚き悲しみ、怪しみ神の成そうされた全てを疑いますか?そうであってはなりません。今日も神はみ言葉を通してこの世の罪を取り除く神の子羊、イエス・キリストを、その十字架と復活を私たち一人一人に指し示しているのです。ここに神の前にあって、真の救い、永遠のいのちがある。ここにイエス様が与える罪の赦しと平安と新しいいのちがある。神の国への道があるのだと。悔い改めて、神の国を、イエス・キリストを信じ受け入れなさいと。

 そのように神の前にあって悔い改める私たちに今日も十字架と復活のイエス様は宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音を受け取って、喜び、安心して、ここから世に遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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