2024年7月21日(日)聖霊降臨後第九主日 主日礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

聖書 エフェソの信徒への手紙  21122節       2024721日(日)

説教題:「神との和解」

きょうの説教では、使徒書のエフェソの信徒への手紙、211節から聞いて行きたいとおもいます。はじめにエフェソと言う町について、そしてエフェソの教会について少し見てみます。エフェソは現在のトルコにあるエーゲ海に面した港町でギリシャやローマ或いはエジプト、東は小アジアから舟がやって来て貿易で大変繁栄していました。パウロは第2回伝道旅行でエフェソに伝道し教会が出来ました。この手紙は紀元60年頃ローマの獄中から書いています。そしてこの手紙はエペソ教会だけでなく、エフェソの周辺のパウロが伝道した教会へ回し読みされたでしょう。さて、今日はそのエペソ書211節からです。11節を見ますと「だから、心に留めておきなさい」と言う言葉で新しい話が始まっています。一番初めに「だから」と書いていますから、その前の10節で言って来た事を受けて書いているのです。それで、210節をみますと「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスに於いて造られたからです。私達はその善い業を行って歩むのです。」こうあります。それは新しく造られて神の作品とされいる、ことであります。そのように、せられたのだからエフェソの教会の方々よ、このことを、しかと心に留めて記憶していなければなりませんよ、と言っています。この手紙は異邦人であったエフェソの信者たちに対して言っている、ことであります。ユダヤのイスラエルから見れば異邦人と言われた人々です。異邦人と言われた人たちは律法も割礼もないのに救いに入れられる、という事は考える事も出来なかった事なのです。だから、です、だから異邦人たちは何時もこのことを思い出して決して忘れてはならない大事な事であります。そのようにあなた方は恵みによって救われた日の事を思い出す事が信仰生活であると言えるのであります。信仰生活と言うのは、神を信じている生活ですから、日毎に神の恵みを受けているにちがいありません。その事は始めの日にキリストの恵みによって救われた、という事実に基づいて」いるはずであります。それなら決して忘れてはならない、心に留めてただ記憶するだけでなく、心に留めて思い出して生きなさい。と言っているのです。その事は主イエス様ご自身が既に仰せになっている事であります。最後の晩餐の時、主は私の記念としてこれを行いなさい、言われました。これは私の体、これは私の流す血である、と主の恵みにあずかって新しくしていただくように、はじめの日の救いの恵みを思い出して、いま、確かに救われている事を知る事であります。それなら何を知れ、と言うのでしょうか。彼らは異邦人でありました、異邦人という事は肉によって言う事でありました。しかし、それが神との関係にかかわって来るのです。異邦人であるのは割礼がない、という事です。しかし、割礼がないのは決して肉体だけの事ではありません。割礼と言うのは神との関係を表そうとしています。神との関係に特別な約束がある、という印です。神との約束と言うのは何の事でしょう。それは旧約聖書、創世記177節に書いてあります。「私はあなた及び後の代々の子供と契約を立てて永遠の契約とし、あなたと後の子供との神となるであろう」。とあります。では誰が神との約束を持っているでしょう。イスラエルは割礼のゆえに神との約束を持っていると思っていました。それで神がまことに自分の神になっておられる、と信じる事ができました。人生の最も大きな問題に、神との約束を持っているか、どうかと言うことです。世の中の生活には何の約束もない、保証もない、だから神を信じたい、という人は沢山いるでしょう。しかし自分で神がある、と信じても何の保証にもならない。神様があなたの神になってくださる事です。(人間は勝手な者です、自分が中心である、自分の都合よくなる事のみを求めますね)大事な事は神が我々の神となってくださる事です。神の方から神になってくだされば、そこに始めて確かな保証があるのです。神が私の神となってくださる時、神は救いと守りの約束を与えておられる、事を信じることができるのであります。そうであれば大切なのは肉に夜割礼ではなく、その割礼を印として神の約束を信じる事であります。そのことが本当の割礼であります。そこで異邦人である我々には何が割礼でしょうか、真の割礼はイエス・キリストによって与えられます。その印は洗礼であります。私たちには割礼はありませんが洗礼によって神は私たちの神となってくださった、このことをイエス・キリストによって信じているのです。それなら、割礼のなかった人たち、つまり神の約束を持っていなかった人々はどんな生活をしているのか、そのことをパウロは12節に書いています。「その当時はキリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束された、という契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」と書いています。これがエペソの人々の実際の生活であった、と当時のことを思い起こさせて、そうしてパウロは続いて13節に書いています。「しかし、あなた方は以前は遠く離れていたが、今やキリスト・イエスにおいてキリストの血によって近い者となったのです」と言うのです。この句の中で大事なのは「今や」と言うことです。いろいろな事があった、しかし、今やであります。人間がどんなに神に背いているか、という事を書いて、今や神の義が現れた、と言ってキリストによって全く違う事が起こったのです。ここではキリストの血によって、キリストご自身の御業であります。何故ならばキリストの血によってあなた方の罪の責任は赦されたのだからです。このように罪が赦されるのは異邦人だけでなくイスラエル人も同じであります。こうしてイスラエル人も異邦人も同じように神に近づきお互い同士でも近くなることが出来るのであります。イスラエル人は異邦人をあざ笑っていたのです。律法もない割礼も受けていない。ところが今や自分たちも同じ立場にあることを気づかされてゆきます。パウロは言っています、実は異邦人はイスラエル人との関係から遠かった、だけではなく神からも遠くあったのです。それなら、この奇跡にも似たような考えられない事がどうしてできたのでしょうか。それはキリストが平和であったからである、と言うのです。これは恐らく誰も予想しなかったことでありましょう。キリストが平和そのものである、という事はちょっと理解し難い。実はそう簡単な事ではありません。何故ならこれは政治や社会の問題ではなく神との関係の違いであったからです。イスラエル人も異邦人も同じように神に対して平和を得るのでなけtれば、イスラエル人と異邦人との平和は出来ないのであります。

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パウロはローマ人への手紙51節でこう書いています。「信仰によって義とせられたのだから、神に対して平和を得ている。」だから14節に「キリストこそは私たちの平和である」。と言われるのであります。そうして「二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、」と書いています。軽蔑しているイスラエル人にも軽蔑されている異邦人にも敵意があったのです。それなら、その敵意というのは具体的に何の事を言うのでありましょうか。例えばイスラエル人が持っていた律法が敵意の中垣となって、妨げているのでしょうか。イスラエル人は律法を自分たちだけが持っている、と言って誇りとしていたでしょう。従って異邦人との関係に於いて妨げるものであった、ということもできます。それより重大なことは律法がイスラエル人の誇りであったにもかかわらず本当のところイスラエル人が律法を行う事が出来なく苦しんだのです。この律法と言うものがイスラエル人及び全ての人間と神との間を隔てた、という事です。ローマ人への手紙でパウロが言っていますように律法は悪いものではありませんが、人間に罪があるため、それを行う事が出来ず、人と神との間を生かす筈の律法が神に近づく事を決定的に妨げたのであります。そこで、この戒めの律法をキリストの血によって廃棄したのである。と13節にあります。16節にはキリストの血とご自身の肉という十字架によって神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。とあります。ここで大切な事は人と人とのいがみ合いをどうしたら良いか、と言う事が先ではなくて、まず神と人との和解を如何にして成立させるか、そのことが先であります。それが出来た時、はじめて人と人との和解ができ、イスラエル人も神と和解し、また異邦人も神と和解することであります。それ故に十字架につかれたキリストは真に救い主であり我々の平和であるのであります。更に15節で「二人の者を一人の新しい人に造り替えて平和を来たらせる」と言っています。それは二人の敵対していた者が一つになる、と言うのではなくて全く新しいものが造られるのであります。そこに全く新しい人が創造される。聖書の言葉で言えば罪によって生きていたものが神の恵みによって生きる、という事であります。人間はどんなに自分で工夫して新しくなろうとしても罪からの解放というものがなければ新しくならない。新しくなる、という事は罪ではなく恵みによって生きる、という事です。罪故に神に敵対していた者が恵みによって神と和らぎ、神の愛を確かなものにするに至ることです。ここに新しい人間が生まれるのであります。そのことはユダヤ人でありながら、異邦人でありながら、全く新しい人になった人々です。それが神の教会であります。最後に18節に「このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが出来る」。とあります。それは礼拝であります。22節には「キリストにおいてあなた方も共に建てられ霊の働きによって神の住まいとなるのです」。 アーメン

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