2024年8月4日(日)聖霊降臨後第十一主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネ624−34節(202484日スオミ教会礼拝説教)

「朽ちることのない、いつまでも残るいのちの糧を受けて」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 先週は、イエス様が五つのパンと二匹の魚から五千人以上の人に食べさせた箇所を見てきました。先週の後半部分を触れることができませんでしたので、簡単に触れてから今朝の箇所に入って行きます。6章14節を見ると、人々はイエス様のその「しるし」を見て「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエス様を「王にするために連れて行こう

としているのをイエス様は知り、一人でまた山に退かれたとあります。人の評価では、大勢の人がイエス様を支持し、約束の預言者だと信じて「王としよう」としている、だから「状況は良くなってきているのだからその人々の求めに従い受け入れて王になったらいいじゃないか」と人々は思うかもしれません。しかし前回の初めに述べたように、イエスは目にみえるしるしを示すことだけを目的としているのでもなければ、人々が自分を地上の王とすることを求めているのでもありません。まして、イエス様は人から王とされる必要もなければ、何よりイエス様の王国は、人によって担ぎ上げられ建てられるものでも決してありませんでした。真の神の国は、父子聖霊の三位一体の神が、御子の十字架と復活によって建てるものでした。だからこそ、人々によって王とされることは明らかに神の御心ではなかったのでした。16節以下では、弟子たちだけで再び湖を渡りカフェルナウムへと向かいます。しかし強風と大波で船は困難な状況です。しかしそこでイエス様が湖の上を歩いて来られるのです。弟子たちはそれを見て恐るのですが、イエス様は「わたしだ。恐ることはない」と言われたことが書かれています。そのように到着したカフェルナウムでの出来事が今日の箇所になります。22節以下にあるように、イエスのしるしを見て追いかけるように着いてくる人々や、そしてパンの奇跡を経験した人々が、揃ってイエスを追い求めカフェルナウムへと小舟に乗りやってきたところから始まるのです。24節からですが、

2、「パンを食べて満腹したからだ」

24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。

 イエス様を追い求めてついてきた人々はイエス様を見つけて、自分たちがこんなにもイエス様を探し回ってついてきている熱心さを主張するかのように、言うのです。それは人の目から見れば表向きは熱心で敬虔な追い求める姿に見えてくるのではないでしょうか?しかしそんな人々へイエス様はこう言うのです。26節からですが、、

26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。

 イエス様は彼らのその表向きの追い求めてついてくるという行為の目にみえる部分だけを見ているのではありませんでした。むしろその心のうちまでもしっかりと見ています。彼らがついてくる、彼らが求める、その真の動機をイエス様は見過ごしません。行いよりもまず信仰を求める神であるイエス様なのですから、表面的な外面的なことや目にみえる行いよりも、むしろその行動の真の動機、心のうちの方が重要なのです。彼らが探し、求め、ついてくる、その動機はただ「パンを食べて満腹したからだ」と言います。ここには「しるしを見たからではなく」とありますが、これはただ「しるしを見る」ということだけの意味ではありません。ヨハネ2030節以下にはこうあります。

30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 イエス様が「しるしを見た」と言う時には、それはしるしそのものだけを見るのではなく、しるしを行った神と、しるしを通して神が指し示す、イエス・キリストを見、イエスこそ神の子メシアであると信じることを示しています。しかし、この6章でついてきた人々は、ただパンを食べて満腹した、それだけの人々でした。つまり、しるしをなさった、あるいはしるしが指し示す御子イエス様とその言葉を見てもいないし、その与えようとしている救いも、求めてもいないし、そのためについてきたのではありませんでした。この先30節以下で彼らは、

「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。

 と言っていることからも分かる通り、彼らは、再び、あるいは「さらに」「もっと」と自分の欲求を満足させるような、目にはっきり分かり満足できるモーセの時代のマナのような、さらなる目に見えるしるし、自分の満足、腹や肉体や感情の欲求の満たしこそ「天からのしるし」として、求めているに過ぎないこと、イエス様は見抜いていた、そんな言葉であったのでした。

3、「福音を伝えるために」

 しかし、求めることは決して悪いことではありません。むしろ、これまでイエス様は求めてついてくる人々、特に、病に苦しんで、癒してほしい、イエス様なら癒すことができると信じて求めてくる人々の求めには、目をとめられ、それに答えてくださっていました。彼らの必要に答えてくださいました。それでも信仰が衰え絶望しそうになった会堂長ヤイロには「恐れてはいけない。信じなさい」と信仰を励ましたのを見てきました。それに比べて、この26節のイエス様の言葉は何か冷た過ぎはしないか?厳しくはないか?突き放しているのでは?と思う人もいるかも知れません。皆さんもそう思いますか?

 しかし、実はそんなことはないのです。そのようにイエス様が言われたのは、まさにこれから彼らに神の福音の真理を伝えるために、彼らの現実を示しているに過ぎません。イエス様はそんな彼らの現実を伝えた後に、まさに最も伝えたいいのちの福音を伝えるでしょう。27

27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

 イエス様ははっきりと伝えます。まず第一に「朽ちる食べ物のためではなく」と。「あなた方は、腹に入って排出され消えてゆく朽ちてゆくパンを求めています」と。あの天からのマナでさえもそのような食物に過ぎませんでした。事実、マナは天から与えられましたが、腐敗していく食物でした。パンもマナももちろん肉体を養い空腹を満たす神からの贈り物で大事なものです。しかしそれらは朽ちて行きいつかは無くなるものであると言うのもまさに私たちの現実です。朽ちるものは私たちを永遠の神の国に与らせ、天につながる道では決してあり得ません。もしイエス様がパンだけを与えるためだけに来たのなら、こんなことを言わなかったことでしょう。「満腹して良かったね。じゃあもっとパンをあげよう」で終わったはずです。しかし、聖書が初めから終わりまで一貫してはっきりと示しているように、聖書の約束の救い主は、そのために来られたのではありません。まさに肉体的な必要だけでなく、み言葉を持って祝福を与え、そのみ言葉によってご自身との信頼と愛の関係で平安に交わるために人類を創造しました。しかしその人類は神に背き堕落しますが、それでも神は、人類が堕落してなおも、その女の子孫がサタンの頭を砕くと罪からの救いを約束されました。その救いはパンを与えることではなく、まさにご自身の御子を人として生まれさせ、その命を十字架で贖い、罪の赦しを与えることであり、それによって、悔い改め信じる者に神との本来の関係が永遠に回復され、地上の王国ではない永遠の神の国へ与らせることこそ、何よりの一貫した目的でした。それこそをイエス様は与えるために来たでしょう。朽ちる食べ物だけを与えるためでは決してありません。それ以上のものです。まさに「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために」こそ、そしてそれを全ての人々に与えるためにこそイエス様は来られたと言うのが聖書が伝えることでしょう。「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とイエス様が言われる通りです。そして「父である神が、人の子を認証されたからである。」ともある通り、その永遠の命に至る霊の食物こそご自身であり、ご自身の御言葉であり、神が認められたものであるとまでここで示すのです。

 ですから、この所は、ついてきた人々、しかも全く求める動機が的外れである人々を、冷たく突き放しているのでは決してありません。イエス様は彼らに本当に必要な永遠のいのちの食物の説教、福音の説教をまさに語り始めているのです。そのためには、まず彼らが自分では気づいていない、その求めていることの現実、心の中の現実をはっきりと示し彼らがそれを知る必要があるでしょう。その求めているものは的外れであり、その求めているものは朽ち行くものであるという現実を気づかせることがまず必要です。なぜなら、その現実に気づくからこそ、本当の必要がわかってくるからです。まさにさらなる必要、人間にとって朽ちることのない、ご自身と御言葉による本当に必要な救いを教え与えるための言葉が27節だったのです。それはそれだけとれば厳しい冷たい言葉に思えますが、きちんと全体から見ると決してそんなことはないのです。

4、「教会は、真の人の必要のために何を伝えるのか?」

 このイエス様の説教から何が教えられるでしょう。私たちも、教会の説教で、律法を通して刺し通され、痛みを感じるものです。悔い改めを迫られる時もあります。人々はそれは辛く嫌なものであり、聞きたくないものかも知れません。だからと、「律法や罪の指摘や悔い改めなど、教会で取り上げるな、語るな、ただ神の愛だけ語っていればいい、隣人愛や道徳だけ語っていればいい、人の好むような聞きたいことだけ、耳に優しいことだけを語っていればいい」、そのように言ったり求めてたりする教会も、自由主義の教会でも福音派の教会でも少なくありません。しかしそれは人の前では好評で好まれても、神の前にあっては聞く人々に対して、ものすごく不親切で、愛のない行為です。なぜなら、御言葉を通して、神の前にあっては、私たちはどうしようもなく罪深い罪人であるという圧倒的現実であるからです。そして、イエス様の十字架の罪の赦しと悔い改めることがなければ決して救われない、という私たち人間の神の前の現実と聖書の真理から、人々の目を背けさせているからです。そのようにして聖書が与えよう伝えようとしている本当の朽ちることのない永遠のいのちへの道を閉ざしてしまっているからです。なぜなら、罪の現実と悔い改めることなくして、この天からの神が与えてくださる真の救いである、イエス・キリストの十字架と復活の救いは決してわからないからです。ですから、教会で律法を通して、罪を示されること、私たちの神の前の現実を知らされ、悔い改めに促されることは、痛いこと、辛いことですが、しかし、幸いなことでもあるのです。なぜならそんな私たちのためにこそ、イエス様はそこで、律法だけでなく、福音であるこのイエス・キリストを、この十字架を、罪の赦しを見なさい。受けなさいと言ってくださる、そのことがわかり、救いを確信し、世が与えることのできない真の平安に与ることができるからです。感謝な恵みです。

5、「何をしなければいけないかの視点ではなく、神のわざ」

 そのようにイエス様の教えが続きます。28節以下ですが

28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」

 イエス様は、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言っています。だから人々は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたのでしょう。彼らは、どうすれば、自分がどんなことをすれば、自分が「神のわざ」を行うことができるのか、自分がその永遠の命に至る食べ物を得るために働けるのかと尋ねるのです。世の人々の「救われるために」の視点はいつでもそうです。「自分が何をすれば、どんなことをすれば、どんな条件を課題をクリアすれば」とまず考えます。どの宗教でもそのような教えになるでしょう。まず人の側が何かをして、何かを果たして、何かをクリアして、それからその後に、そこにご利益、救いがあるのだという教えです。人々の当たり前の常識的な宗教観ではそのような質問になって当然のことかも知れません。しかし、イエス様が教える真の救い、つまり聖書が約束する真の救いの教えはそれと全く逆、正反対です。27節の言葉でもイエス様はこう続けているでしょう。「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と。まさに人の子、つまり「イエス様が」「与える」ものだと。つまり、それは人がなんとか頑張って得るものではなく、「与えられる」ものだとイエス様は示唆しています。ここ29節でもイエス様はこう続けているでしょう。

「イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 イエス様は、神が遣わされた者、つまりご自身を「信じること」が、神のわざであると言います。このやりとりは不思議なやりとりです。人々は自分が何をすれば、神のわざを行うことができるかと聞いていますが、イエスは「自らの力で信じれば、それをすることができるようになる」とは答えません。「信じること、それが神のわざ」だと言うのです。つまり、信じることそのものに神のわざが行われているという意味になるでしょう。信仰はまさに神のわざ、賜物であることがイエス様ご自身から示されているのです。その賜物としての信仰を通してこそ、32節以下、イエス様はこう言うのです。

6、「神が与える」

32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

 救いは、モーセが何かをしたからではない。モーセの律法の通りにしたからでもない。私たちが何かをしたから「天からのパン」を得られるのではないとイエス様は言います。この人々のように、人々は人の功績や人が何をしたかに救いの根拠を見たり、自分の行いや功績に救いの確信を探そうとします。しかしそうではない。イエス様が与えようとしている、朽ちることない「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」、真の命を与える救いは、天の父から「与えられる」ものである、どこまでも恵みであり、その信仰さえも神のわざ、賜物であるとイエス様は一貫して、救いは人が成し遂げなければならない律法ではなく、神がなす福音であると彼らに示す続けているのです。

 人々は答えます。34節「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。それに対してイエス様ははっきりと示します。35

35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 イエス様は、「わたしが」と言っているように、ご自身こそ、いのちのパンだ。ご自身こそ、朽ちることのない、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物だと、「なくなっていくパン」との比較を用いて、まさにご自身こそ、人に立てられるのではない神が約束し神が建てられた真の王、約束の救い主であることを宣言するのです。それは、しるしを見てパンを食べて満腹するだけでは得ることのできない、そのしるしが指し示す、イエス様のもとにきて、信じること、それによって、決して飢えることも渇くこともない、いつまでもなくならない永遠の命に至るのだ、イエス様こそそれを与えることができるのだと、はっきりと福音を指し示し宣言なされるのです。

7、「終わりに」

 このやり取りはさらに続きますが、人々は理解できず信じることができません。彼らにはまだ隠されていることなのです。しかし、その事実さえも、まさに信仰は理性や知性のわざでもなければ、知識の量の問題でもなく、み言葉と聖霊の働きによる神の賜物であると言うことが証しされています。人の力ではその時、信じることができないことでも、十字架と復活の後、彼らのあるものは、使徒たちを通しての聖霊による福音の宣教によって信仰へと導かれることでしょう。イエス様はこのところで、その未来のための種蒔きもしているし、当然、それは私たちのためでもあり私たちへと向けられているイエス様のメッセージなのです。私たちはまさに今、イエスこそ朽ちることのない、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物だという信仰を与えられています。そして、だからこそ、今日も自分の罪を認め、悔い改めをもって、この神の前に集められています。そしてこの時、イエス様によって、イエス様の言葉によって、そして聖餐によって、イエス様から、この十字架の罪の赦しの宣言を受け、平安を受けます。それはまさに天から、神からの、朽ちることのない、いつまでも残るいのちの糧を受けているその時、今はその時なのです。この確信と平安のうちに今日も遣わされていくことは、賛美すべき恵みではありませんか。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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