2024年8月18日(日)聖霊降臨後第十三主日 主日礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

スオミ教会説教                      2024.818

聖書 ヨハネ福音書65158

説教題 「わたしは生きたパンである」

2000年以上の昔、イエス様の時代、ユダヤの人々の食べもの,飲みものと言えばパンとぶどう酒でありました。今日も同じでしょう。パンとぶどう酒こそ人々の命にとってかけがえのない食物であったでしょう。

今日の聖書の冒頭にイエス様はご自分のことを「わたしは天から降って来た生きたパンである」と言われました。神の子であるイエス様がこの世に人の姿を持って生まれてこられた。ご自身のこの世での働き,使命とその存在のすべてをいろいろな深い真理の言葉であらわされたのであります。その1つに61節では「私は生きたパンであって、このパンを食べるならばその人は永遠に生きる」と言われていますが、その前の28節以下かからずうっと弟子たちに重要な言葉として語ってこられています。6章のはじめでの「5000人の人々に2匹の魚と5つのパンで満腹にさせる」と言う驚くべき奇跡の業をなさった。この出来事から始まって、奇跡だけでなく「私は生ける命のパンである」と言う真理の言葉を弟子にしかと語っておられるわけです。「このパンは世の命のために与える。」と言われました。ですから、ただ神のみ子イエスが人となって受肉し、いま生きていると言う、イエスの存在そのもの、と言うよりももう少し正確に、このパンを限定して説明するならば、イエスがやがて将来において与えられるであろう、ある時に与えられるパンであります。それは何時の事であるかと言いますなら、例えば53節以下に出て来ます「肉を食べ」「血を飲む」と言うように「肉」と「血」がわざわざ別々に並んで語られていることからわかりますように明らかにそれはイエスが十字架に死んで血を流す事を意味します。「血を飲み」又特に「肉を食べる」と言うような残忍的な表現であって旧約聖書では決してあり得ない事であります。非常に残酷なむごたらしい死を表すのに使う諺であります。(民数記2324 申命3242 エレミヤ4610 エゼキエル391719等参照)

ですから、イエスが「私の肉を食べ」「私の血を」飲まなければならない、とおっしゃっていますのは、それはイエスの非常に惨ったらしい死、すなわち十字架の死の事を意味しています。私たちが、それによって[永遠的に生きる、ところのパン]とは限定して言うならば[イエス・キリストが十字架にかかり給い、贖いの死を意味しているわけであります。]このイエスの十字架の贖いを私たちが「食べ」或いは「飲む」とはどういう事であるか、と言う時これは文字通り理解すべきではなくて1つの文学的表現であります。57節中ほどまで進みますと、「私を食べる者も私によっていきるであろう」と言う、私があなた方の内におると56節で言っておられます。一番分かり易い大切なことを54節で見ます。54節「私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」なんと言う素晴らしい約束でしょうか、キリスト者のすべての希望がここにあります。そこで、どうしてもひっかかるのは私の肉を食べ、とか私の血を飲む者は、と言う、これを聞いたユダヤ人たちが、騒ぎ立てたのも自然です。これを文字通り理解しようとするから物理的にイエスの肉や血をどうして胃袋に入れる事ができようか、なんと馬鹿にした話だろう。とすぐ考えてしまうのです。どう考えてもこれは比喩的な表現であってこれは要するに私がキリストに連なること。私とキリストが一体になることであります。<言い換えますと>イエスを信じる、ということでであります。さて、主キリストを飲み食いする、という事を[信仰によって結びつくことである]という事をはっきさせた上でその上に、ここに教会が余代々に渡って行ってきました聖餐の礼典が暗示されております。中世の教父であり英国の初代カンタベリー大主教となったアウグスティヌスのヨハネ福音書講義によりますと聖餐式を前提として、個々のイエスの教えを記している、と考えています。例えば51節最後の「私が与えるパンは世の命のために与える、私の肉である」とあります、この宣言は有名な聖餐式における設定辞で宣言されるみ言葉「これは、あなた方のために与える私のからだである」この言葉とそっくりのことばです。私たちは聖餐式においてパンをキリストの体として食べ、ぶどう酒をキリストの血として飲むわけです。が、これらは全て信仰によってキリストと一体となる、神からのめぐみであります。この福音書を書いているヨハネは最後の晩餐の物語を1318節で記していますが、それが教会で繰り返し行われている聖餐式と同じ言葉ですが聖餐式の言葉を書いてはいません。それは他の福音書が十分書いていますから、ヨハネは聖餐式に関する説教を5つのパンと2匹の魚で5000人の人を満腹させた奇跡の後に組み込んで移している、と言ってよいのではないかと思います。それで654節以下、教会で行われるようになる聖餐式の内容をここに別の表現で書いているわけです。54節を見ますと「私の肉を食べ、私の血を飲む者は。永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの、まことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は何時も私の内におり、私も又何時もその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、又私が父によって生きるように、私を私を食べる者も私によって生きる。」私たちは教会において聖餐式に預かる毎にキリストが私たちの内に生きていてくださる、キリストの命に預かる事が出来るわけであります。では、信仰と聖餐の礼典によって私たちの、もの、と約束される「永遠の命とは」どういう命なのでしょうか。イギリスの有名な神学者ウイリアム・バークレーという先生のここの部分の聖書註解には非常に思い切った事を言っておられます。聖餐の礼典の時の主イエス・キリストのご臨在と祝福というものは必ずしも月1度や或いは年に何回かの主の日の教会で行う聖餐式の時だけに限らない、私たちがパンを食べて養われる三度,三度の食事の度毎に同じキリストの祝福と、キリストのご臨在があることをヨハネはここで教えているのである。つまり毎日の三度,三度の食事の、私たちの日常茶飯事の中でキリストが共におられる。キリストは礼典の時と同じように我々に臨在し給う、又祝福を私たちに与え給うという,そういう命であります。この「永遠の命」はその意味から言うと私たちの肉体的な命が三度,三度食べないと駄目なように、本当に何時も、何時もイエス・キリストと結びついていなければ駄目な命なのだ、と言えるでしょう。永遠の命とは、どういうものですか。それは命の根源であるキリストと、何時も結びついて初めて生きることが出来る命であります。もう一つの「永遠の命」の特色は裏を返して言えば何時も何時も私たちはこの命の源であるキリストから世に遣わされているのだ,と言う派遣の意識、召命感、使命感を持って生きる生命ことだ、と言うのであります。ですから57節にはっきり言われています。「生きておられる父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。」ちょうどイエス・キリストが父なる神から遣わされ、父なる神のためにご生涯を生き給うたように私たちも、また今度はキリストによってキリストのために生きるのであります。ですから御子イエス・キリストが御父から遣わされている、という使命感と召命感を持って生きる生活が「永遠の命」である、ということであります。

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56節を見ますと「私の肉を食べ、私の血を飲む者は何時も私の内におり、私も又その人のうちにいる」。ここで言われれている「私の内におるなら」、と言うのは「留まる」と言うことであります。同じ言葉を使ってキリストは15章のところで「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。もし、人が私に繋がっており、留まっているなら、また私がその人と繋がっておればその人は実を豊かに結ぶようになる」とおっしゃいました。永遠の命とは、そのようにキリストから派遣されて充実した使命感に満ちて豊かな実を結ぶ、生活であります。ヨハネは第1の手紙の中で、この派遣された生活がどのような実を結ぶのか、いくつも私たちに教えています。26節に「神の内に何時もいる、と言う人はイエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」。言い換えれば324節には「神の掟を守る人は神の内に何時も留まり、神もその人の内に留まってくださいます。」又、36節には「み子の内に何時もいる人は皆、罪を犯しません。」とあります。このように永遠の命とは永遠の命の源であり給う方に結び付けられ、その方から派遣されて、彼のように歩み、彼のように清く神の戒めを守る生活であります。                         アーメン

お詫び

体調不良で木村先生の説教の公開が遅れて大変申し訳ございませんでした。

お詫び申し上げます。

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