2024年8月25日(日)聖霊降臨後第十四主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネよる福音書656−71節(2024825日スオミ教会礼拝説教)

「信仰は律法ではなく、天から私たちへのプレゼント、福音である」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 このヨハネの福音書6章を通して、イエス様が「自分こそ命のパンである」と神の国の福音を伝える箇所を続けて見ています。イエス様はご自分について来る人々に「あなた方がわたしを探すのはただパンを食べて満腹したからだ」と彼のその動機を見抜いて伝えました。しかしそのように言うのは彼らを責めるためではありませんでした。イエス様は、そのような無くなるパンを追い求めても、事実ただなくなるだけであるけれども、イエス様ご自身こそ、それに遥かに勝る、いつまでもなくならない、天からのいのちのパンを与えることができるという福音を彼らに伝えるためであったたのでした。それを聞いて人々は、では「何をしたら」それを得ることができるのかと尋ねるのですが、イエス様はそれは神ご自身が引き寄せ与える人々に、救い主が与える賜物、恵みであり、それは「いつまでもなくならない」「天から」とあるように、地上の物質的な出来事を遥かに超えた霊的な出来事であることを徐々に明らかにしていきます。しかし、あくまでも目に見えるしるしだけに求める人々はそのことを理解できません。それでもイエス様は彼らに神の国の福音を伝え続け、ついには、イエス様はご自身こそ、そのいつまでもなくならない、天から降ってきたいのちのパンそのものであり、わたしの肉を食べ、血を飲むものが永遠の命を得るのだと伝えたのでした。それが先週までのところでした。今日は先週の最後の節から始まります。56節以下こう始まっています。

2、「「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む物」とは?」

56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

 イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは」と言います。これは驚くべき言葉を言っており、この後の記録を見ても分かる通りに、このイエス様の言葉に多くの人は躓くのです。私たちもこれは何を言っているだと疑問を持つでしょう。これには二つの「食する」ことの意味があります。それは「わたしの肉」を食べ、「わたしの血」を飲むとイエス様がご自身が言っているのですから、一つは、事実、イエス様の肉と血のことを指し、実際に口で食するという意味です。ただもう一つの意味もあります。それは「霊的に」食することをも指しています。54節で

54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、〜」

 とイエス様が「永遠のいのち」を指して言っている通り、この「食べる」は聖霊と信仰において起こることであり、それは福音の説教とそのみ言葉を聞き、思い巡らし、そして、聖餐を食するときに起こることを意味しています。ヨハネ1章のはじめを思い出すと分かる通りに、イエス様は「ことば」である方が受肉されて人となられたお方です。まさにイエス様は、神の言葉そのものでもあり、神の言葉の語られるところ、説教されるところには、イエス・キリストがおられるのであり、私たちはまさに説教を聞いている時に、聖霊と信仰において、その受肉したキリストの言葉を受けており、キリストそのものを受けているのです。それて何より、聖餐では実際に口で食する行為があり、その御言葉が「わたしのからだ」と宣言する、パンでありながら同時にイエスのからだに預かるのですから、聖餐に与る時、私たちは決して象徴としての体と血を受け取っているのでもなければ、私たちの何らかの行いが聖餐を成り立たせるとか、私たちの行いの捧げものをするとか、信仰の決意表明をする時、とも異なります。私たちは、イエス様の福音書の設定の言葉から、「これはあなたのために与えられるわたしのからだです」と宣言される時には、イエス様が「である」と言っているのですから、イエス様のその真実なみ言葉のゆえにそれはパンを食していながら同時に紛れもなくイエス様のからだを食しているのです。そして同じようにイエス様の言葉から「これはあなた方の罪の赦しのために流されるわたしの血です」とイエス様が「である」と言われているのですから、その通り、それは葡萄酒飲んでいながら同時に、イエス様の「血」を確かに飲んでいるのです。そのようにここで「イエスの肉を食べ、わたしの血を飲むものは永遠の命を得る」と教えられる時に、私たちはイエス様がその肉を引き裂かれ血を流されたその十字架の死と復活、そしてそのイエス様の体と血に口で食し与るがゆえに、罪の赦しと永遠の命を与えられていると告白できるのです。

3、「なぜイエスは、分かり難い言い方をしたのか?信仰によって明らかになる福音」

 しかし、ここでイエス様はなぜはっきりとそう言わず、「わたしのからだを食べ、わたしの血を飲む」と明らかに誤解を与え、何か、実際に人の肉を食べるような言い方をするのだろうか、もっと分かりやすくいうことはできないのだろうか、と思うかもしれません。しかし、これは意地悪でも、知識のひけらかしでもなければ、神の知恵で謎解きをふっかけているのでもないのです。イエス様にあっては、今見てきたように、やがて最後の晩餐で事実になり、聖霊による教会の時代が始まるときに、日々繰り返される恵みの事実を明らかに伝えています。つまり、イエス様が語っていることは、今その時に理解されることではなく、やがて聖霊と信仰によって明らかになる神の福音でした。そして、ここではもう一つの事実をイエス様は、ずっと伝えてきたでしょう。彼らは、「どうすれば、何を行えば」と尋ね続けています。つまり、「自分が何かをする」ことによって、あるいは自分の行為によって得る「いつまでもなくならないパン」を求め続ける、あるいは得ようとする、そんな彼らに対して、37節以下でイエス様はこのようにも言っていたでしょう。

37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。

 つまり、それは人の行いや努力で得ることができるものではなく、神が与えた人々に、御子が与えてくださる賜物、恵みであるとイエス様は伝えていたでしょう。そして、44節以下でも、こうありました。

44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。

 その素晴らしい真理を知り、それを受けることができるのは、父が引き寄せたものにイエス様が働かれ与える恵みであることをイエス様は伝えていました。そのように「イエス様のからだを食し、血を飲むということ」は、イエス様がその言葉と聖霊によって与える信仰において明らかにされる福音で、イエス様にあってはその時だけではない、いつまでも残る事実を伝えているのです。しかしこの時はまだ十字架の時ではなく、その前であり、教会と使徒たちによる福音の宣言が始まる前ですから、彼らにたとえ分かりやすく伝えたとしても、仮にそれは自分がかかる十字架と復活のことであると言ったとしても、彼らは理解できず、信じることもできず、やはり躓くのです。なぜなら、それは後に福音の言葉によって目が開かれ知り信じることができることななのですから。事実、私たちも、最初は、十字架と復活の言葉を自分たちで、自分の力で理解できた人はいたでしょうか?そこに至るには当然、自分の罪に刺し通され、悔い改めに導かれるからこそ、十字架の素晴らしさがわかったのですが、その罪さえも私たちは、自分が罪人であるということさえ自分では認められなかったし、悔い改めなんて馬鹿らしい、聞きたくないと最初は誰もが思ったことでしょう。誰でもそうなのです。そう人は、自分の力で、信じようとしても決して信じられません。パウロが言うように、十字架の言葉は、しるしに求めるものには躓きとなり、知恵に求めるものには愚かに聞こえるのです。しかし、今まさに私たちに、このイエス様の言葉の意味、イエス様を食し、その血を飲むことの素晴らしさを知り、信仰があるのは、まさに「与えられている」からでしょう。父子聖霊なる神が、その律法と福音の言葉によって、引き寄せ、導き、与えてくださったからではありませんか。それが福音の真理、福音の力です。ですから、私たちは、ここでその恵みを感謝するとともに、今、目の前の数字や現実を見れば、宣教が不可能で困難だと思えるような現代の状況あったとしても、それを見て嘆くのでも、何か強迫観念にかられ律法的になり互いに裁き合うのでもなく、希望を失うのでもなく、どこまでもイエス・キリストとその言葉、福音を見上げ、イエス様の言葉には不可能なことは何もない、イエス様がその言葉で私たちに信仰という私たちの思いを遥かに超えたことを行なってくださったように、同じように、世のまだイエス様のこの素晴らしさを知らない人々にも同じように行うことができる、行なってくださいと、私たちはそのことを信じ祈り求めて行きたいと教えられるのです。

4、「ゆえに、弟子達も躓く」

 さて、それゆえに、当然のことが起こるのです。60節以下です。

60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

 「弟子たち」というのは、12使徒たちと区別しなければなりません。12使徒たち以外にも、多くの弟子たちが着いてきたのでした。しかしその弟子たちの多くのものは、この「イエスのからだを食べ、イエスの血を飲む」という言葉と教えに「聞いていられない」と躓くのです。弟子としてこれまでイエス様の言葉を聞いてきた人々でさえもこの真理を理解できません。人の肉を食事するものとしか理解できませんでした。イエス様はそこで

62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……

 と続けます。まさにイエス様の教えていることも与えようとしていることも天からの出来事でした。そしてイエス様の十字架と復活の出来事、そこから始まる教会の宣教も、イエス様が天に上られるところをともに見ることから始まります。イエス様はそのことを指して言っているのかどうかははっきりは書かれていませんが、人の肉を食することで躓く弟子たちにイエス様はさらに解き明かすのです。63節以下

63命を与えるのはである。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 イエス様は、単なる目にみえる肉の出来事を伝えているのではなく、まさにこれは「天からのパン」「天から来られた救い主」と語り、そして、信仰こそ神が求めておられ、それこそ神が与えるものですから、この言葉によってイエス様は、命のパンは、み言葉とそこに働く聖霊、そして信仰による賜物であることを伝え、それが真のいつまでも消えることのない永遠のいのちをもたらすものであることを伝えるのです。しかし、イエス様はそれでもわかっていました。64

64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。

 どんなに伝えても信じない人がいることをイエス様は知っていました。それが誰であるのか、そして、71節にある通り、この後起こる、使徒たちの中の一人が裏切ることさえも知っていました。しかし、ここにも、やはり繰り返し、私たちの信仰の真理、この福音の真理がはっきりと繰り返されています。65

65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

5、「信仰は私たちのわざの結果、律法ではないー信仰は福音」

 「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」ーイエス様の下に来ること、まさにそれは永遠のいのちの歩みであり、信仰の歩みのことです。しかし、それは「父が引き寄せるのでなければ」、ここでは「父からお許しがなければ」とあるでしょう。そこには、救いも信仰も永遠の命も、まさに命のパンに与ることは、人間の知性や理性や行いの度合いや努力による産物では決してあり得ない、それはどこまでも神の働きであり、神が引き寄せイエス様に与えてくださった羊を牧者であるイエス様が決して見捨てず、みことばを語り続け、働き、導いて下り、羊はその声に聞いてただ着いてゆくがゆえの恵みであることをイエス様も教えているのです。このように、信仰は人の行いではなく、賜物であるとエフェソ書でパウロが言うのも、あれはパウロの作り話や誇張した表現ではなく、まさにイエス様の教えに根拠がある、聖書的な真理であることがわかるでしょう。信仰は決して、私たちの行いや意志の力や理性的な理解によるものではない。私たちの信じる信仰は、神が引き寄せてくださったから、神がイエス様にあって語ってくださったから、律法と福音の言葉を通して聖霊が私たちに働いてくださったから、今私たちにあるのです。どこまでも賜物、贈り物、プレゼントなのです。感謝なことではありませんか。

6、「去っていく弟子達。使徒達の信仰告白は天から」

 ところが66

66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

 やはり多くの弟子たちは、イエスの福音に躓き、離れて行きました。 12人の使徒たちに尋ねます。67

67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 この後、イスカリオテのユダの裏切りの預言で結ばれますが、このシモンペテロの告白は、マタイ16章の有名な告白を連想させます。マタイ1615-17

15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

 ペテロの「あなたはメシア、生ける神の子です」と言う信仰の告白。その告白についてイエス様は、人間によるものではなく、それを明らかにしたのは「わたしの天の父だ」と教えています。それなのに、このヨハネ6章のペテロの告白「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 と言う告白はそれとは違う、人間による、ペテロ自身から出たものだ、とは誰も言えないでしょう。もしそうであれば聖書にもイエス様の教えにも一貫性がなく矛盾があります。しかし聖書にもイエス様にも矛盾は全くありません。聖書は初めから終わりまで一貫して真理を伝えています。信仰の告白は、決して人間によるものではなく、どこまでもイエス様の父なる神からのものであると言うことです。その神から与えられた信仰の上に、イエス様は「わたしの教会を建てる」ともペテロに伝えたでしょう。

7、「朽ちない種から生まれた私たち」

そのペテロがこう教会に教えています。

23あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 24こう言われているからです「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。25しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」ペテロ第一123−25

 私たちのクリスチャンとしての土台、それはイエス・キリストであり、そのイエス・キリストという土台こそ、朽ちて消えゆく野の花のようではなく、食べては消化されなくなる地上のパンでもマナでもなく、永遠にいつまでも残る、土台であり、拠り所です。決して消えることも裏切ることも見捨てることもなく、いつまでも残る平安と救いの拠り所です。それは御子イエス様が十字架と復活で成就してくださった罪の赦しと永遠のいのちのパンを、絶えず、毎週、悔い改める私たちに与えてくださり、私たちが、イエス様を御霊と信仰により、事実、そのイエス様のからだと血を、受肉されたイエス様のいのちの言葉を、食することができるからこそです。その信仰を与えてくださったのも、神様であり、イエス様であり、聖霊様に他なりません。信仰は賜物、贈り物、プレゼントです。今日もイエス様は私たちにそのみ言葉で変わることなく宣言し与えてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひそのいつまでも残るみ言葉による罪の赦しと安心をここで今日も受け取り、安心してここから世に喜びと愛を持って仕えるために遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

新規の投稿